伊良部秀輝「記録より記憶に残った剛腕投手」【プロ野球世紀末ブルース】

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こんなに速い球を日本のプロ野球ファンは見たことがなかった。

日本ハムの大谷翔平が生まれる約1年前、93年5月3日の西武球場での出来事だ。ロッテの伊良部秀輝が西武の4番清原和博に対して投じた3球目と4球目で、当時の日本最速記録となる158キロを計測。
なんとかファウルにした清原は、7球目の157キロの直球を弾き返し右中間二塁打を放った。これ以降しばらく、69年生まれの伊良部と67年生まれの清原の対決は「平成の名勝負」として定着することになる。

不思議な投手だった伊良部秀輝


思えば、不思議な投手だった。193cm、108kgの立派な体躯と圧倒的な球の威力を持ちながら、なかなか結果がついてこない男。
沖縄生まれの兵庫県尼崎市育ち。感情の起伏が激しく、喧嘩には自信があった尽誠学園(香川)時代は、四国の剛腕エースとして夏の甲子園に出場も、3回戦の常総学院戦で人さし指と中指のツメを割り敗退。

87年ドラフトでロッテから1位指名を受けプロ入りした後は、制球力に難があり伸び悩む日々。3年目の90年に金田正一新監督の元で8勝を挙げ、その素質が開花したように見えたが、91年3勝、92年0勝と再び低迷。それが8歳年上のチームメイト牛島和彦からアドバイスを貰うようになり、飛躍のきっかけを掴むことになる。

故・大沢啓二監督の名台詞


清原との名勝負を演じた93年には8月から9月にかけて7連勝を記録、9月の月間MVPにも選出され、あの有名な台詞が誕生する。
西武と激しい優勝争いをしていた日本ハムの故・大沢啓二監督は、24歳のキレキレの伊良部の前に手痛い敗戦を喫し、試合後に例のべらんめえ口調でこう言ったのだ。
「幕張の海を泳いでいたら、イラブって電気クラゲに刺されちまったよ」

この発言はスポーツ新聞の見出しを飾り、ロッテ球団はすかさず『イラブクラゲ人形』を発売。伊良部は一気に球界を代表する投手へと登り詰めて行くことになる。翌94年にはオールスター戦で松井秀喜に対して159キロを計測し、15勝、239奪三振で二冠獲得。
チームがバレンタイン新監督を招聘し、2位に躍進した95年は防御率2.53、239奪三振で再び二冠。96年も防御率2.40で2年連続の最優秀防御率に輝くが、バレンタインを解任した当時の広岡GMや江尻監督と衝突。8月のある試合では降板を命じられると、帽子やグローブを1塁側スタンドに投げ入れ、采配批判として罰金処分を受けたこともあった。

メジャー移籍、そして引退


そして、96年オフには悲願のメジャー移籍というより、ヤンキース移籍を主張して球団とも衝突する。代理人に団野村を立てるも、強引にパドレスとのトレード話を画策するロッテとの交渉は泥沼化。
日米野球界を巻き込んだ事件となるが、最終的にロッテとパドレスとヤンキースの三角トレードという形で決着。のちにポスティング制度ができるきっかけとも言われる一連の騒動の果てに、28歳の伊良部は97年シーズンから憧れのピンストライプのユニフォームでプレーすることになった。

98年と99年には2年連続二桁勝利も記録。だが好不調の波が激しく、マスコミとも度々衝突し、入団時は「和製ノーラン・ライアン」と称された男は、2年後にはオーナーから「太ったヒキガエル」と罵倒されチームを去ることになる。
その後、飲酒問題やエコノミークラス症候群に悩まされ、モントリオールやテキサスを転々として、03年に日本球界復帰。13勝を挙げ星野阪神のリーグ優勝に貢献すると、翌04年限りで現役引退した。

自らその命を絶った伊良部秀輝


17年間のプロ生活で日米通算106勝104敗27セーブ、防御率はNPB3.55、MLB5.15。ロッテ時代後期の伊良部が見せた圧倒的な投球内容からしたら、やはり寂しい数字だ。
引退後はロサンゼルスでうどん屋を経営(現在閉店)、一時独立リーグで現役復帰を果たすも、2011年にアメリカの自宅で首を吊り、自らその命を絶っている。

今振り返れば、90年代日本最速投手のターニングポイントはやはりメジャー移籍騒動だったように思う。あの時、夢の実現と引き換えに背負ったトラブルメーカーのイメージが、その後のキャリアに暗い影を落としてしまった感は否めない。
しかし、伊良部はなぜあそこまで頑なにヤンキース入りにこだわったのだろうか? 男がニューヨークを目指す理由……渡米する十数年前、中学生の伊良部秀輝は少年野球のチームメイトにこんな言葉を漏らしたという。

「俺の親父はアメリカ人やねん。将来、大リーグへ行って、親父を捜しに行くつもりや」
(死亡遊戯) 

(参考文献)
スポーツニッポン 2012年5月3日
朝日新聞 1987年8月17日夕刊
球童 伊良部秀輝伝(田崎健太/講談社)