83歳筆者の〈極私的鑑賞ノート〉(4)...黒木和雄「TOMORROW/明日」に、戦争の理不尽を思う
映画.comより
前回に続き、第4回目となる「極私的鑑賞ノート」シリーズをお届けする。
取り上げるのは、黒木和雄監督の「TOMORROW/明日」(1988年)。原爆投下直前の長崎を舞台とした、「戦争レクイエム3部作」の第1作だ。ぶらいおんさんの筆は映画を起点に、現代の我々を取り巻く諸相に及ぶ。
観客だけが知っている、登場人物の運命
書いたばかりなので、別なテーマを探していたのだが、偶々HDに録り溜めた録画、NHKアーカイブスの『焼け跡の灰の中から〜知らざれる秘話〜』を観ていたら、映画評論家の佐藤忠男氏がコメンテーターとして出演していて、「佐藤さんは戦争が終わったとき、何歳で何をされていましたか?」というインタヴューを受けていた。
彼の答えは「私は昭和5年(1930年)生まれなので、当時14歳。海軍少年飛行隊、いわゆる予科練の兵でした。いずれ志願して(志願と言っても、自分の意志と言うより、そうせざるをえない雰囲気の中)特攻隊として出撃することになるだろう。」と考えて居ました、と応じ、更に、「戦争が終わった(負けた)」と聞いたとき、「どう思いましたか?」という質問を受けていた。
それに対し、彼は「嬉しかった。これで兎に角、死ななくっても良いのだ、というのが...。」ただ、彼はこうも付け加えていた。「私たちは予科練といっても、数ヶ月しか経たないうちに戦争に負けたので、もっと鍛えられていた先輩の軍国青少年は、どうだったか分かりませんが...。」彼のこの答えは正直なところだろう、と感じる。
筆者は佐藤氏より3歳年下で小学校(当時、国民学校)6年生だったから、我々より年上の先輩方とは実際に可成り差がある。
我々の世代、つまり、国民学校在学生は、何と言っても、所詮ガキに過ぎない(そうは言っても、戦争のもたらした様々な不幸や苦しみはそれなりに経験もしているのだが...。)。それでも、より上の世代は、我々より遥に苦労したことは間違い無い。たとえ、中学生、女学生であっても、この世代は勤労奉仕に借り出され、軍需工場などで働かされていた訳だし、男の場合は「何れ死ぬのなら、先回りして(志願して)軍隊に関わった方が良い」という考えは、むしろ普通であったからだ。
何故、こんなイントロを書いたか?と言えば、筆者の頭の中で、佐藤忠男 → 映画監督黒木和雄 → 戦争レクイエム3部作 → 「美しい夏キリシマ」、「TOMORROW/明日」、「父と暮らせば」、そして更に、山田洋次監督の「母と暮らせば」までが一連の連想として浮かんだからである。
実は、筆者の好みからすると、日本映画なら、豊田四郎監督の「夫婦善哉」とか、成瀬巳喜男監督の「浮き雲」とか、新藤兼人監督なら「墨東綺譚」とか「裸の島」など、黒澤明監督なら「生きる」、そして脈絡は無いが、若松孝二監督の「キャタピラー」とか「千年の愉楽」、高林陽一監督の「西陣心中」というところなのだが、一方で、"悪くない"では「不十分な」、映画として積極的に認めたい作品として、上に挙げた黒木監督作品も当然含まれる。
今回は、これら黒木和雄監督映画を中心にして書くことにした。
筆者の手元には、精読したわけでは無いのだが、過去に求めた、佐藤忠男著「黒木和雄とその時代」、株式会社現代書館から2006年8月15日に第一版第一刷として発行された単行本がある。これを随時参照しながら、私の考えを述べてみたい。
どうやら、上に挙げた「戦争レクイエム3部作」というのは、黒木監督が「紙屋悦子の青春」の公開を待たずに2006年4月12日に急逝した後、4ヶ月後の公開の際に監督を偲んで上映会を、東京の岩波ホールと大阪のテアトル梅田で開催した際のプロモーションで名付けられたようである。
筆者は、このシリーズの作品を、手元のチラシから判断して、既に東京から居を移した後、大阪のテアトル梅田で観たようだ。
「美しい夏キリシマ」や「紙屋悦子の青春」も、専ら内地に住む軍人では無い、非戦闘員の市民の目線からの戦争映画と呼ぶことが出来ようが、ここでは特に感銘を受けた「TOMORROW/明日」について、述べる。
この映画は、佐藤忠男(以降、敬称略)の上掲書籍中で紹介されているように、『一九四五年八月九日に長崎に原子爆弾が投下された、その前日の八月八日に長崎の爆心地となるあたりに暮らしていた一般庶民数十人の日常的な生活を描いたものである。』
戦時下とは言え、軍人では無い一般庶民もまた「一億一心」、「鬼畜米英撃滅」、「産業戦士」、「欲しがりません勝つまでは」等々の国家から押しつけられたスローガンの下、逼迫した情勢に揉まれながら、否応なく戦争に協力させられていたにも拘わらず、そこには一方でごく当たり前の人々の日常生活もまた、厳として存在していた。
そんな登場人物達の様々な生き様の数例を以下に挙げてみるが、実は彼ら自身の明日(八月九日)の運命を誰一人として知らない状態にある。知っているのは、映画を観ている我々観客だけ、ということになる。
彼らの日常生活が、(その中で暮らす一般庶民が、当時、自ら望んだものでは無いにせよ、戦争遂行当事者乃至協力者である、という立場を除いて)今でも我々の身の回りの何処にでも見られるような情景であり、また、そうであれば、あるほど"観客の胸にグサリと突き刺さる"ものがあり、今の時代の偽の平和や、世界の各所で今も起こっている理不尽で、暴虐な争いについて深く考えさせられることになる。
これから書く、映画の内容は筆者の記憶と、上掲書籍中の粗筋(あらすじ)の文章、それとインターネット上の『映画評論 TOMORROW/明日』というページのデータを参照しながら、筆者が取捨選択したものである。
映画の冒頭シーンは、「人間は 父や母のように 霧のごとくに 消されてしまって よいのだろうか」というメッセージから始まった、と記憶する。引き続くシーンは、長崎市内の暑い夏の情景であり、蝉の鳴き声が降るようだ。太い1本の木があり、その高い幹の上方に一人の少年がよじ登ってしがみついた状態で、どうやら身動きもままならない様子だ。下からは、仲間の少年達が心配そうにそれを見上げている。
下の少年達が「もっと左、左!」と叫んで、樹上の少年に声を掛けている。下からの声に従って、その少年は身体を移動させようとするのだが、木にべったり、しがみついたまま密着した下半身をもじもじさせている。口から出た言葉は「なんかチンチンが硬く大きくなって、動き難い。でも、気持ちいい」というもので、これが、この少年の青い性の目覚めなのであろう。
また、街の路上では、ちょっと頭のイカレたような青年が、子どもたちにはやされて、棒きれを振り回しチャンバラごっこの様子だ。そこを通り掛かる市電の運転手、水本(なべおさみ)は時刻を確認しながら、正確に次の停留場に到着し、そこで彼の妻(入江若葉?)から愛妻弁当を受け取って、終点に向かい注意深く電車を運行して行く。
また、ある庶民の家では結婚式の準備がされている。続きの、二間の畳部屋の境の障子を取り外し、俄作りの宴会場を整え、なけなしの食材を苦労して集め、披露宴の料理を準備しているのは、新婦ヤエ(南果歩)の母(馬淵晴子)や姉のツル子(桃井かおり)だ、その当時は既に滅多にお目に掛かれなくなった小豆あんの缶詰を開けたりしながら...。そして、ツル子は臨月で大きなお腹を抱えていて、結婚式の最中に陣痛が起こったりするが、実際の出産で男の子が産まれたのは9日の夜明けだった。その母子の幸せな時間の数時間後に何が起こったか?を識っているのは、我々観客だけである。
結婚式では、親類縁者や近隣の列席者が集まっているのに、新婦の看護婦ヤエだけが病院の引き継ぎで遅れ、汗を掻きながら到着し、空襲警報が発令されない前に、と慌ただしく式が始まる。
身体の余り丈夫ではない新郎の、工員、中川を演じたのは佐野史郎であり、(ここまで紹介した以外の主な)登場人物で、結婚式に列席していた面々は、ヤエの妹の昭子(仙道敦子)、 ヤエの父、泰一郎(長門裕之)、中川の友人で、俘虜収容所勤務の石原継夫(黒田アーサー)、写真屋の銅打(田中邦衛)、ヤエの同僚看護婦、亜矢(水島かおり)、もう一人の同僚看護婦、春子(森永ひとみ)である。
昭子は恋人の長崎医大生、英雄(岡野進一郎)から赤紙(召集令状)が来たので、「駆け落ちしよう」と持ちかけられるが、到底そんなことは出来ない。彼らに今、出来ることは、天主堂の裏の草むらで、抱き合って泣くしか無い。だが、駆け落ちしなかったことが翌日の彼らの運命を分けたかも知れない?ことに観客は思いを馳せる。
また、同僚看護婦の一人、亜矢にも恋人がいたが、呉に出掛けた恋人からは、40日経っても何の連絡も来ない。どうやら、彼の子を妊娠したことは間違い無いようだ。彼の母親を訪ねたが、「見知らぬ人に、なぜ息子の行く先を明かさねばならないのか?!」と逆に突き放され、途方に暮れている。
更に、新郎中川の友人、俘虜収容所勤務の石原継夫(黒田アーサー)は、病状の重くなった若いイギリス兵に対し、医師の加療を求めるが、取り上げられず、その結果、イギリス兵は死亡してしまう。その鬱屈した思いを、気のいい娼婦(伊佐山ひろ子)に慰められたりしている。
こんなごくありふれた、何時の時代にも(現在だって)、何処にでもありそうな、庶民の慎ましやかな生活のシーンが次々に淡々としてスクリーンを流れて行く。ただ一つの異常事態を除いて...。それは言うまでも無く、彼らの翌日の運命「これら当たり前の人々が一瞬にして、原子爆弾から放射される超高温の熱線により焼き尽くされてガス化し、雲散霧消する」ということだ。映画冒頭のメッセージを思い起こして頂きたい。曰く、「人間は 父や母のように 霧のごとくに 消されてしまって よいのだろうか」
広島、長崎の原爆投下による死者は、それぞれ14万人、9万人(投下年1945年中)と言われている。無論、その後原爆被爆による死亡者は更に増加して行くのはご承知の通りだ。
一回の、それも一方的な戦闘行為で、これほど多数の死者が出たのは、筆者の知り得る限り、他に?思い出すことが出来ないのだが...。
現在、起きている世界中の紛争の中でも、最も頻繁に報道されている最悪事態のシリア空爆の死者でさえ、数十人、多くて数百人のオーダーである、と記憶する。
元々、数の多少で云々する内容では無いのだろうが、それにしても、この大量虐殺とも言える事態は尋常では無い。
ことの性質が異なる、という意見もあろうが、ナチスによるユダヤ人の大量虐殺と、何処かで繋がる恐ろしい根が存在するような気がしてならない。それは、果たして筆者だけの思い過ごしであろうか?
今年、2016年5月、この忌まわしい悪魔の爆弾を投下した国の大統領が、原爆投下地の一つ広島市を訪問し、被爆者の代表とハグしあう場面も報道されたことは記憶に新しい。公式の謝罪も、また公式の寛恕も無かった。それでも、そこには相手の立場を思いやり、この悪魔のような兵器をなんとか廃絶しようという、共通の思いが見て取れた。
その大統領が「核兵器を全面的に廃絶しよう!」と世界に呼びかけたメッセージには、唯一の原爆使用国としての(明言しないまでも)責任についての思いがあった、と筆者には感じられた。
それに対し、唯一の、甚大な原爆被害を蒙った国の代表者の発言には唖然とさせられた。曰く「原爆保有国、米国の同盟国としては、核の傘による防衛に支障が出る」と懸念を表明する、というものだ。
政治家のいい加減さ(一貫性の無さ)と、国同士のつまらぬ駆け引きを観て、1945年8月8日にはごく当たり前の生活を営み、その翌日には突然「... 霧のごとくに 消されてしまった ...」人々は、この有様を観て、一体どんな思いだろうか?
想像するだけで、身震いするほどの怒りを覚える!
映画「TOMORROW/明日」という作品は、今でも、それだけの迫力を持って観客に迫って来る。
後になってしまったが、この作品は井上光晴の原作による、という。尤も黒木監督によれば、内容自体は可成り異なるものだ、ということだ。
実は、このコラムでは、引き続き、広島の原爆投下で死んだ父と、生き残った娘とのやりとりを中心に描いた「父と暮らせば」、井上ひさし原作の戯曲を、映画化した黒木作品に言及し、更に原作者井上ひさしの死亡によって、未完成となった戯曲(長崎の原爆投下によって死んだ息子と、生き残った母とを中心に描こうとして未完の)「母と暮らせば」を原作とし、その原作者の思いを引き継いで、映画として完成させた山田洋次監督の同名映画作品「母と暮らせば」について、書く心算であったが、既に紙面も尽きたようだ。それらについては、またの機会を待つことにしたい。