ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんの対談。アニメ映画「君の名は。」について語り合います。

多くの人が大絶賛する中で抱く違和感


飯田 新海誠監督の最新作『君の名は。』はめっちゃ人が入っていて、僕のまわりでも絶賛している人がいっぱいです。しかし僕は非常にアンビバレントな気持ちになりました。ああ、きっと新海誠観をこじらせすぎているんだろうな、と。僕は『秒速5センチメートル』が新海さんの最高傑作だと思っているので、それ以降の作品にはずっとモヤモヤするところがあるんだけど。
 あと、プロデュースを担当している川村元気氏が苦手であることを再認識した。川村さんが関わった作品で好きな作品が一個もない。細田守監督の『バケモノの子』も川村プロデュースじゃなくて細田さんが脚本を自分で書かなかったらもっと傑作になったと思っているんですね。いや、もちろん、好きな人がいるのはわかりますよ。売れるにおいのする作品になるし、その才能は稀有だし、本当にすごいと思う。でも僕は受け付けないんです。

藤田 ぼくの周りの友人達も絶賛していて、劇場も完売だらけだった。そして実際、観ている最中にぼくの隣の男性は泣いていたし、十代と思われる男の子たちが超テンション上がっていましたね。「ターザンはもう二度と見ないけどこっちはもう一回来たい」って言って、ターザンが何故かもらい事故していたのに笑いましたがw
 率直に言うと、ぼくは、新海誠さんの作品の中では一番好きです。そして、傑作であると絶賛する人がいるのもよくわかります。震災を想起させる隕石の墜落によって消えた町にいたはずの少女と、東京にいる男の子の話ですね。ある地域、地方が消滅してしまうということの哀しさ、つらさ、やりきれなさみたいな感情が、詩的なファンタジーとして昇華されていたので、「これは多分、震災から五年経ったこの時期に必要になる幻想なんだな」って思いました。問題は、その「幻想」の必要性と裏腹にあるものなのですが……。

飯田 ここから『君の名は。』含め新海作品のネタバレありで語っていきますので未見の方はご注意ください。
明るく楽しく前向きなキャラクターが出てきて、ラストはハッピーエンドなんて、普通の話じゃん。新海誠は、切ない展開を積みかさねて、最後の最後にカタルシスを与えてくれると思いきや、突き放して終わるからこそ新海誠だったと思っている僕としては、残念でしたね。
『ほしのこえ』も『雲の向こう、約束の場所』も『秒速』も『星を追う子ども』も「別れはある、それでも僕らは生きていくのだ」というめっちゃ近代文学的な成熟を描いていたはずだったんじゃないの? それまでの自作の価値観全否定じゃないですか、と。
「無力さにうちひしがれる『ヱヴァQ』みたいな『シン・ゴジラ』が観たかった」とか言っている前島賢が『君の名は。』を褒めていて「は?」って思いましたね、僕は。
 ただ逆に僕が『シン・ゴジラ』をちゃんと引き受けて行動する側を描いた「震災後文学の最高傑作」とほめた理屈で言えば『君の名は。』も褒めないと一貫していないという自覚はある。だから新海誠の作品だと思って観なければ、いい作品なのかもしれない。

震災後のフィクションとしての『君の名は。



藤田 隕石が落ちて消滅してしまったクレーターの周りを立ち入り禁止にする必然性は作中でなかったけれども、原発事故の立ち入り禁止区域を想起させるフェンスがあったりしたので、震災を連想させる断片を散りばめてように作っていると考えて良いのだと思うのですよ。そう考えると、仰るとおり、結末の甘さはあまりにも「願望充足」すぎて、違うとぼくも判断しました。
 三分の二ぐらいのところまでは、傑作と言い得るなとゾクゾクする場面があったんですよ。単なる物語や意味に回収できない不穏なものが唐突に描かれたり、過去と未来、東京と地方とが行ったりきたりする認知症的、記憶障害的な構成になっているところとか、その構造のあり方は、震災という経験で揺さぶられたぼくらの内的経験を結構反映していると思った。震災後に書かれた文学(震災後文学)とも、その構造や主題は重なっていると思った。その構造は褒めてもいい。
 東京と地方の生活を交互に描く(男女の身体と中身が入れ替わる)ことと、時間の主題は、ぼくも実感としてよくわかるんですよ。ちょうど、この映画を観る数日前まで、瀬戸内国際芸術祭を観に行ってて、直島に三泊していたのですが、数分ごとに山手線が来る東京と、バスを一時間待ったりするのが普通の島との生活では、時間のリズムが変わるんですよ。空間感覚、時間感覚というか、生活のリズムが全然違う。そのズレを経験しながら、新宿の満席の映画館にいる状態だったので、リズムの違う二つのライフスタイルを対比させながらその時間の混乱を映像化したのは悪くないと思った(あの入れ替わり、もしできたら、いいとこどりの、理想の生活ですよね 笑。どっちも理想化されすぎてると思いますけど)

この結末を描いてしまっていいのか?



飯田 『秒速』は『君の名は。』と正反対のラストなんですが、国内外を問わずその終わりに「ショックを受けた」と言うファンが多すぎたので、新海さんは反省して、自身によるノベライズではそのショックがやわらぐような終わりを書き、次の作品『言の葉の庭』も前向きに見える終わりにするようになってしまったんですね。で、今回はさらに絵に描いたようなハッピーエンド。その割り切り? よくいえばファンに対するサービス精神が旺盛、わるくいえば「そんななんでも言うこときいちゃっていいんですか?」という居心地のわるさ。そこが僕はとっても気になってしまうのです。
 そのへんのグチみたいなものは「ユリイカ」の新海誠特集に寄稿した「新海誠を『ポスト宮崎駿』『ポスト細田守』と呼ぶのは金輪際やめてもらいたい」という評論にさんざん書いたのでそちらもご覧ください。

藤田 あの隕石が落ちる事故の悲劇をそもそもなくしてしまうわけですからね。潜在的に、それは、過去に戻って震災をなくしてしまいたいという幻想に近い。……しかし、それなら、東京や地方を、あんなに美しく描いてはいけない。不穏な、現実の、事故の記憶を想起させ、そして美しい「物語」と「映像」と埋め尽くして、記憶を摩り替えてしまうような効果を出してしまっては、ダメなのではないか。最後にもっと残酷な結末があれば、映像などの「美しさ」は許せる範囲になったと思うのですが…… ぼくも、会えない、救えないほうがいいと思ったんですよね。でも、まぁ、「会わないで終わるんじゃないか?」っていう可能性を示唆するシーンを何回も繰り返してた上なので、逡巡というかな、そっちの可能性に行きかけては行かない、っていう構成にしてはあったと思いますが。うーん。やっぱり、「切断」が足りない気が。

飯田 僕は「ハッピーエンドだからダメ」じゃなくて「それやっちゃったらあなたの今までの作品なんだったんすかってことになりませんか、作家として」というところが引っかかっているので、その点は藤田くんとは評価軸が違いますが、言わんとすることはわかります。

藤田 炎上狙い的な言い方をすれば、「ニュータイプの歴史修正主義」の映画(笑) 神社が出てくるし、「国家神道」のPRをするオカルトアニメじゃないの、っていう意地悪な批判もできなくはない。
 あまりに美しく、理想的に物事を描きすぎていると思うのですよ。それ自体は悪いことではないですが、現実に起きた震災という、汚れていたり不愉快だったり残酷だったり理不尽だったりする悲惨な事態を、こういうエンターテイメントの材料として扱っているわけですから、その手つきの是非は問われなければならない。その手つきについて、三分の二までは、何か必然性を感じて胸に来るところがあった。さっきも言いましたが、新海さんが編集もやられているようだし、構造や描写などに、必然性と言うか、言うべきこと、探りたいもの、自分でも解決したい何かに接近しようとする「本気」を強く感じた。でも、結末に向かう部分は、その必然性がなくなっていたように見えた。
 それまでは、観客に対して、裏切ったり、伏線や象徴のレベルなどで丁寧に驚きを与えてくれていたのに、最後は「それは誰でも思いつくことでしょ」って驚きのないままに時間が過ぎていった。「唐突さ」や「驚き」こそが〈リアリティ〉なんですよ。想定していないこと、想像していないことが「起きる」というのが震災後のリアルだとしたら、後半はその〈リアル〉の手触りを失っていた。

飯田 新海さんはずっと「宮崎駿や村上春樹くらい誰でも知っている作品をつくりたい」と言いつづけてきて、そのための選択肢として、今回の振り切ったわかりやすいキャラ造形やハッピーエンドがある。より正確に言えば、彼の中には作中人物が毎度抱えている「ここではないどこかへ行きたい」「今の自分は本当の自分じゃないんじゃないか」という想いがあって、それが彼の作品に必ずあらわれる分裂したふたつの世界、「ここではない」遠いどこかとして表出されていた。そして同時に彼自身の「ここではないどこか」の夢想先のひとつが駿・春樹的な有名作品をもつことだったのだと思う。つまり厭世的で逃避的に見える主人公造形、夢や異界といったモチーフと、「売れたい」という願いの根源は同じなんです。
おそらく興行成績を見るかぎり、「誰でも名前くらいは知っている国民的な代表作を持つ作家になる」願いは達成できたことになる。でもそれで作家として本当に彼は満たされるんだろうか。それまでめざすべきアガルタ、異界であった「大メジャー作家」の領域に踏み入れたけれど、新海さんは戻ってくるんだろうか。それとも『星を追う子ども』のモリサキみたいに異界に留まり続けるのだろうか。どちらにしても、彼の精神はどんな状態になるんだろうか。僕はそこがとても気になります。
余談ながら新海さんの実家は建設会社で、おそらくアニメ制作に理解があった家庭ではなかったと思うし、おそらくは「ここじゃないどこかへ行きたい」という想いを思春期に育てる原因になった場所だったのではないかと邪推するのですが、『君の名は。』での土建屋の扱いは「親父、これで俺の仕事認めろよ!」と言っているような感じがして、そこはとてもよかったですね。
後編に続く