100万部突破の『嫌われる勇気』は本当に人生の役に立つ本なのか?
自分磨きに熱心で、読書に余念がないビジネスパーソンならば、「アドラー心理学」の名前は知っているのではないだろうか。
「アドラー心理学」が一躍有名になったのは3年前、アルフレッド・アドラーによるこの心理学を対話形式で分かりやすく解説した『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社刊)の大ヒットが発端となった。
しかし、19世紀生まれの心理学者が唱えた学説についての本が、なぜ21世紀の今これほど売れたのか?
■「人に認められたい!」承認欲求は善か悪か?
アドラーの教えは端的に言うと、「すべての悩みは対人関係にある」という立場に返って「悩まない自分」に生まれ変わるために、物事の解釈を考え直していくというもの。
つまり、『嫌われる勇気』は職場や学校、家庭での対人関係に悩む人にとって非常にクリティカルな内容だったといえる。
その一例が「承認欲求」の扱いだ。
「人から好かれたい」「認められたい」という、誰もが多少なりとも持っている「承認欲求」を、アドラー心理学では否定している。
人から認められることは確かに自信につながるが、それはともすると何かを判断する際の基準が自分の意思ではなく「他者からどう思われるか」にすりかわってしまう危険も孕む。何より、「他者からの承認が得られるかどうか」というのは、そもそも他人が判断する領域の課題であり、自分の課題ではないからだ。
=====以下、『嫌われる勇気』147ページより引用
“自らの生について、あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけです。一方で、その選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話です”
=====
承認欲求に縛られている人は、本来、考える必要のない問題に悩まされているとも言えるのだ。
■アドラーにハマる人たち
そうはいっても、自分の行動を肯定したいのが人間というもの。他人からの承認なしでそれは可能なのだろうか。アドラーは「承認欲求」の呪縛から放たれるため考え方を「共同体感覚」という言葉で説明している。
「共同体感覚」とは、自分を学校や職場、国家、世界、さらには宇宙といった共同体の一部だという感覚を指す。
そして、その共同体のメンバーである他人に対して「何ができるか?」と視点で行動することが、「承認欲求」からの解放につながるというのだ。
思えば「他人に認めてほしい」というのは、他人から「評価」という贈り物を求める姿勢である。他人を見ているようで自分しか見ていない。
これに対し、「他人に何を与えられるか」という「与える姿勢」は、きちんと他者を見据えた姿勢だといえよう。これらは対極にある。
アドラー心理学は、我々が常日頃から悩んでいることを、考えもしなかったような切り口と解釈で新しい価値観を提示する。『嫌われる勇気』をきっかけに、このパラダイムシフトの快感にハマる人が急増し、「アドラーブーム」なるものも起きた。
しかし、ふと立ち止まって考えてみると、こんな疑問がわく。
アドラーの教えは「実践できる」のだろうか?
実現不可能な机上の空論なのではないだろうか?
■続編『幸せになる勇気』で示されるアドラー心理学の実践性
『幸せになる勇気』は、「勇気の二部作」完結編に当たる作品だ。『嫌われる勇気』で哲人との問答の中で答えを見つけた青年は、小学校のクラスを受け持つ教育者となった。そして3年後、再び哲人のもとを訪れ、こう言い放ったのだ。
=====以下、『幸せになる勇気』3ページより引用
“結論から申し上げると、アドラーの思想はペテンです。とんだペテンです。いや、それどころか、害悪をもたらす危険思想と言わざるをえません。”
=====
青年は教育の現場でアドラーの教えを実践するも、「とても実用に耐えない空虚な理想論」と、アドラーとその伝道者である哲人を強烈に非難した。一方、哲人は、アドラーの心理学は誤解している人が大半で、青年もその一人だと指摘する。
◆ ◇ ◆
前作と比べて、より実践的な内容が『幸せになる勇気』には書かれている。
アドラー心理学を「実用に耐えない」とした青年の誤解とは何だったのか?
『嫌われる勇気』で啓発されてやる気になっていたが、どうにも行動に出せていなかったり、行動してみたけどうまくいかなかったという人は、青年の気持ちになって読んでみるといいだろう。
(新刊JP編集部)
「アドラー心理学」が一躍有名になったのは3年前、アルフレッド・アドラーによるこの心理学を対話形式で分かりやすく解説した『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社刊)の大ヒットが発端となった。
しかし、19世紀生まれの心理学者が唱えた学説についての本が、なぜ21世紀の今これほど売れたのか?
アドラーの教えは端的に言うと、「すべての悩みは対人関係にある」という立場に返って「悩まない自分」に生まれ変わるために、物事の解釈を考え直していくというもの。
つまり、『嫌われる勇気』は職場や学校、家庭での対人関係に悩む人にとって非常にクリティカルな内容だったといえる。
その一例が「承認欲求」の扱いだ。
「人から好かれたい」「認められたい」という、誰もが多少なりとも持っている「承認欲求」を、アドラー心理学では否定している。
人から認められることは確かに自信につながるが、それはともすると何かを判断する際の基準が自分の意思ではなく「他者からどう思われるか」にすりかわってしまう危険も孕む。何より、「他者からの承認が得られるかどうか」というのは、そもそも他人が判断する領域の課題であり、自分の課題ではないからだ。
=====以下、『嫌われる勇気』147ページより引用
“自らの生について、あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけです。一方で、その選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話です”
=====
承認欲求に縛られている人は、本来、考える必要のない問題に悩まされているとも言えるのだ。
■アドラーにハマる人たち
そうはいっても、自分の行動を肯定したいのが人間というもの。他人からの承認なしでそれは可能なのだろうか。アドラーは「承認欲求」の呪縛から放たれるため考え方を「共同体感覚」という言葉で説明している。
「共同体感覚」とは、自分を学校や職場、国家、世界、さらには宇宙といった共同体の一部だという感覚を指す。
そして、その共同体のメンバーである他人に対して「何ができるか?」と視点で行動することが、「承認欲求」からの解放につながるというのだ。
思えば「他人に認めてほしい」というのは、他人から「評価」という贈り物を求める姿勢である。他人を見ているようで自分しか見ていない。
これに対し、「他人に何を与えられるか」という「与える姿勢」は、きちんと他者を見据えた姿勢だといえよう。これらは対極にある。
アドラー心理学は、我々が常日頃から悩んでいることを、考えもしなかったような切り口と解釈で新しい価値観を提示する。『嫌われる勇気』をきっかけに、このパラダイムシフトの快感にハマる人が急増し、「アドラーブーム」なるものも起きた。
しかし、ふと立ち止まって考えてみると、こんな疑問がわく。
アドラーの教えは「実践できる」のだろうか?
実現不可能な机上の空論なのではないだろうか?
■続編『幸せになる勇気』で示されるアドラー心理学の実践性
『幸せになる勇気』は、「勇気の二部作」完結編に当たる作品だ。『嫌われる勇気』で哲人との問答の中で答えを見つけた青年は、小学校のクラスを受け持つ教育者となった。そして3年後、再び哲人のもとを訪れ、こう言い放ったのだ。
=====以下、『幸せになる勇気』3ページより引用
“結論から申し上げると、アドラーの思想はペテンです。とんだペテンです。いや、それどころか、害悪をもたらす危険思想と言わざるをえません。”
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青年は教育の現場でアドラーの教えを実践するも、「とても実用に耐えない空虚な理想論」と、アドラーとその伝道者である哲人を強烈に非難した。一方、哲人は、アドラーの心理学は誤解している人が大半で、青年もその一人だと指摘する。
◆ ◇ ◆
前作と比べて、より実践的な内容が『幸せになる勇気』には書かれている。
アドラー心理学を「実用に耐えない」とした青年の誤解とは何だったのか?
『嫌われる勇気』で啓発されてやる気になっていたが、どうにも行動に出せていなかったり、行動してみたけどうまくいかなかったという人は、青年の気持ちになって読んでみるといいだろう。
(新刊JP編集部)