今年の鈴鹿8耐に見た「ヤマハvsホンダ」時代、再来の予感
鈴鹿8時間耐久ロードレースでは、毎年必ず、予想もしない出来事が次々と発生する。眼前で展開する事実だからこそ、人々の心を強く揺さぶるこれらのドラマに一度でも魅了された者は、このレースから二度と目を離すことができなくなる。今年の8耐は、ファクトリー活動を再開したヤマハが19年ぶりに優勝を飾って、酷暑の熱気を残すサーキットに鮮やかな幕を引いた。
YAMAHA FACTORY RACING TEAMが表彰台の頂点に再び登り詰めるまでの過程は、けっして平坦だったわけではない。1996年に芳賀紀行とコーリン・エドワーズのペアで優勝し、史上最年少優勝記録(当時:芳賀21歳、エドワーズ22歳)を樹立したとき以来、ヤマハは何度も優勝に手を伸ばしながら、さまざまな障害が彼らの前に立ちはだかってきた。今年のレースも、けっして順風満帆に推移したわけではなく、その意味ではこの19年の彼らの活動を集約したような8時間になったともいえるだろう。
企業設立、そしてレース活動の60周年を記念してファクトリー体制で挑んだ今年のヤマハは、全日本ロードレースを3連覇している中須賀克行と、MotoGPのモンスターヤマハTech3チームに所属するポル・エスパルガロ、ブラッドリー・スミスという強力な布陣を敷いた。
レースウィークに入ると、2015年型YZF-R1も前評判どおりの高い戦闘力を発揮し、金曜日のプラクティスでは一頭地を抜くラップタイムを連発した。土曜日の「トップテン・トライアル」は、金曜日の上位タイムを記録した10チームが進出して、それぞれ2選手ずつ計20名が1周だけのタイムアタックを行なうスーパーポール方式でタイムを競う。ここでも、中須賀とエスパルガロはともに他を圧する驚異的なラップタイムで、ポールポジションを獲得した。
彼らとかろうじて互角のタイムを記録することができたのは、全日本ロードレースで著しい成長を見せる渡辺一樹(カワサキ:Team GREEN)と、あまりにも早すぎる引退から一戦限りの現役復活を果たしたケーシー・ストーナー(MuSASHi RT HARC-PRO.)のみだった。特にストーナーの場合は、本人のずば抜けた速さと高い安定感はもとより、2013年と2014年の8耐を制したチームで、そのときに勝利をもぎ取った高橋巧とマイケル・ファン・デル・マークというチームメイト――という戦闘力の高い陣容を得たことにより、ヤマハファクトリーとともに優勝候補の最右翼と目されていた。
決勝レースのスタートライダーは8耐をよく知る高橋が務め、スタート直後からトップグループで高水準の走りを続けた。予定どおり24周の走行を終えた高橋はピットへ戻り、ストーナーに交代した。文字どおり世界中の熱い注目を一身に集めながら、ストーナーは現役時代を彷彿させる危なげない速さで周回を重ねていった。が、コースインして7周目のデグナーカーブ2の立ちあがりでマシンが挙動を乱し、立て直すことが不可能と判断したストーナーはマシンを倒してグラベルゾーンへ滑っていった。
マシンは大きく回転しながらヘアピンコーナーのコース上まで転がっていき大破。ストーナー自身も土煙を上げながらグラベルゾーンをもんどり打つように転がっていった。一度は身体を起こしたストーナーは、しかし、マーシャルに抱えられながらメディカルセンターへ向かった。初期の診断結果は、右肩甲骨と左脛骨の骨折(のちに本人が左脚の負傷はかかとであるとツイッターで報告)。コース上に残ったマシンと破片は、セーフティカーが導入されて処理された。
ことほど左様に、8耐では誰にも想像し得なかったことがいとも簡単に、そしてあっという間に発生する。だが、それこそが8耐であり、これらの不確定要素をも乗り越えることができなければ、8耐の優勝を掴み取ることができない。そしてそれこそが、このレースの最大の難しさであり、魅力でもある。
ちなみにHRC(ホンダ・レーシング・コーポレーション)によれば、ストーナーが転倒をする前のマシンは、スロットル開度が26°であったことをデータが示していたということだ。原因の詳細を究明し、判明すれば発表をする予定だという。
一方、ポールポジションからスタートしたヤマハは、中須賀がスタートライダーを務めたがスタートで大きく出遅れてしまい、オープニングラップでは20番手前後に順位を落とした。そこから懸命の追い上げで、ハイレベルのラップタイムを連発しながら前方を追走していった。他チームがライダー交代でピットに戻っても、中須賀は長くコース上に残って周回を続ける頭脳的な戦略で順位を回復し、ブラッドリー・スミスへ交代。スミスも周回遅れを巧みにかわしながら切れ味の鋭い走りでトップに浮上し、エスパルガロにマシンを託した。
だが、彼らとて以後の周回で安定してアドバンテージを築いたわけではなく、いくつかの波乱も待ち受けていた。今回の大会では転倒車の処理のため、セーフティカーが計6回導入された。セーフティカーがコースにいる間、その後ろについて走る選手たちは追い越し行為を禁止されているが、エスパルガロが不注意でその禁を破ってしまったため、スミスの走行時間にピットへ戻って一定時間バイクを停止させる「ストップアンドゴー」のペナルティを受けることになった。
せっかく築いたアドバンテージを振り出しに戻してしまう痛恨のミスだったが、それでも彼らは集中力を途切れさせることなく高水準の走りを維持した。最後は中須賀からスミスへマシンを託し、夕闇の鈴鹿サーキットにヘッドライトを灯したヤマハYZF-R1が午後7時30分、トップでチェッカーフラッグを受けた。
「バイクの上でフィニッシュラインを通過するのは格別の経験だった。来年もぜひ、ここへ戻ってきたい」とスミス。ペナルティの原因を作ってしまい、アドバンテージを削いでしまったエスパルガロは、全員の力で掴んだ勝利に心から嬉しそうな笑みを見せた。「僕のミスでチームの仲間には申し訳ないことをしてしまった。だから、次に自分の担当でコースへ出たときには200パーセントの力で走ったんだ。伝説的なライダーたちが活躍してきた8耐で自分たちが勝ったことで、歴史に1ページを刻むことができたと思う。とても光栄だ」。
チームリーダーの中須賀は、ファクトリー活動を再開した初年度に勝利をもたらすことができて、それがなにより嬉しい、と述べた。
「8耐はいつも指をくわえて見ている側で、3位でいいから表彰台に上がりたいといつも思っていた。それがいきなり、1番高いところに上がれて本当に幸せです。自分がしっかりやれば、ポルとブラッドリーも頑張ってくれると信じていたので、19年ぶりに勝てて本当に嬉しく思っています」
今年のヤマハとホンダの戦いは、かつて1980年代から1990年代にかけて、彼らがメーカーの威信をかけて真っ正面からぶつかっていた時代を彷彿させるものがあった。その時代に本田技研工業の元社長・福井威夫はHRCの社長を務めていたが、ヤマハに惨敗を喫したある年、福井は従業員たちに対して以下のような言葉を発している。
「結果には必ず原因がある。運が悪かったということでごまかさず、本来、絶対あってはならないのだということをベースに、来年に対する対応をきっちりやっていただきたい」。そして、デイヴィッド・ハルバースタム(アメリカの著名なジャーナリスト)の著書を例に挙げ、こうも述べた。「『覇者の驕(おご)り』という言葉ほど、レースにピッタリな言葉はありません」。
ヤマハは来年、鈴鹿8耐2連覇を賭けてさらに強力なファクトリー体制を敷くだろう。そして、今年の敗戦を糧(かて)として、来年のホンダはさらに強さを増して戻ってくるだろう。その意味で、はからずもエスパルガロが言ったように、今年の鈴鹿8耐は新たな歴史の始まりとなるのかもしれない。
西村章●取材・文 text by Nishimura Akira