同校との別れを惜しんだ佐藤忠男学長と集まった人々

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 数々の映画監督・映画スタッフを輩出してきた日本映画学校の閉会式が7日、川崎市内にある同校旧校舎にて行われ、同校のOBや講師、学生たちが同校との別れを惜しんだ。卒業生である三池祟史(映画監督)、李相日(映画監督)、長谷川初範(俳優)、ニッチェ(お笑い芸人)らもビデオメッセージを寄せ、思い出などを語った。


 1975年、今村昌平監督が「既設のレールを走りたくない若者たち、常識の管理に甘んじたくない若者たちよ集まれ」と呼びかけて始まった日本映画学校(旧横浜放送映画学校)。元今村プロのプロデューサーで、同校の創始メンバーである武重邦夫は当時について「ブルース・リーの没後1年くらいで、ちょうど香港にいた。リーの映画を撮っていたカメラマンと今村プロで当時映画を撮っていて、そこへ今村さんから突然電話が来た。『学校を作るから帰ってこい』と。指定されたボーリング場だった場所に行ったら今村さんがいて、『ここに学校を作るから、お前は教育をやれ』と言われた」と振り返った。


 「最初は泥舟も泥舟。荒波なんてとうてい乗り切れない、いつつぶれるか。せめてわたしがいる間だけでも保ってくれという思いでした」と武重。だが、今村の「人間の多面性を求め、面白いものを作ろう。変人を期待している」という思いの元、三池、李、長谷川、ニッチェ、また、ウッチャンナンチャン、ケラリーノ・サンドロヴィッチ、阿部和重ら多くの人材を輩出するほどに学校は成長。2011年には日本初の映画学部のみの単科大学として日本映画大学が開校し、日本映画学校は大学への改組移行により今年3月に閉校した。


 生徒を10日間、福島の農村に送り込んで農村教育を行ったり、人間総合研究と題したカリキュラムを行ったり、ユニークなことで知られた同校の授業。三池はビデオメッセージの中で農村教育を振り返り「農村での経験は貴重な体験だった。宇宙を感じることができた」と述べ、長谷川も「ものを作るということは種から始めて実りを祈ること」という今村の言葉を紹介した上で、「一つ一つ精魂込めてお米を植えた」とコメント。李も「具体的な技術を学んだ記憶はない。どうすれば自分の考えたことを面白く伝えられるか。技術より感覚を磨いた」と同校での成果を明かした。


 また、この日は同校OBの中得一美(小説家)、野木亜紀子(脚本家)、石井泰寛(農家・元録音部)、前田正秀(映像制作・リバーサー)らも登壇してトークセッションを行い、最後は今村プロの伝統であるという一本締めで式を締めくくっていた。(取材・文 名鹿祥史)