レアル対バルサ 国の歴史を背負った“因縁の100年史”とは?
今年1月7日にスイスのチューリッヒでFIFAバロンドールの授賞式が行われ、FCバルセロナのリオネル・メッシが2012年の世界年間最優秀選手に選ばれた。年間ベストイレブンでは、選出された11人全員がスペインリーグのリーガ・エスパニョーラに所属。そのうち10人は、FCバルセロナとレアル・マドリードの選手だ。
まさに、現在のサッカー界のトップに君臨するクラブは、FCバルセロナとレアル・マドリードと言えるだろう。
『レアル・マドリード vs FCバルセロナ 因縁の100年史』(アルフレッド・レラーニョ/著、吉崎エイジーニョ/監修、上野伸久、田岡悠一/翻訳、ソフトバンククリエイティブ/刊)では、スペインという国の歴史をそれぞれの立場で背負いながら戦うレアル・マドリードとバルセロナの100年の歴史を紹介する。
スペインの首都マドリードに本拠地を置くレアル・マドリード(以下レアル)とスペイン北東部に位置するカタルーニャ州・バルセロナに本拠地を置くFCバルセロナ。
この2つのクラブは、ただのライバルクラブに留まらず、スペインの歴史・政治・文化といったあらゆる要素を含めて、良い意味でも悪い意味でもクラブ創設以来100年以上にわたり、しのぎを削って世界トップのクラブにまで成長した。そんな背景のある両クラブの伝統の一戦は「エル・クラシコ」と呼ばれ、スペイン国内のみならず、世界的に注目を集める対戦カードだ。公式戦におけるクラシコの通算成績はレアル88勝、バルセロナ87勝、引分け48(2013年1月末現在)。
近年はバルセロナの活躍が目立つが、最初のクラシコから約110年、両クラブが切磋琢磨してきた結果がこの勝敗に出ているだろう。そんな両クラブ間の移籍はタブーとされ、移籍が成立するとファンからの反発は激しいものとなる。これまでに何人かの選手が移籍したが、最も大きな反発を受けたのが、ルイス・フィーゴだ。
フィーゴは1990年代中盤から後半にかけてバルセロナでキャプテンを務め、チームの象徴的存在だった選手だ。優秀な選手だったが年俸はそれほど高くなく、自分はもっと高い年俸をもらっていいはずだとクラブの自分への評価に常日頃から不満を示していた。そんな状態のフィーゴを2000年、レアルは引き抜きに成功する。フィーゴはバルセロナに要求していた金額の5倍のオファーで、レアルへ電撃移籍したのだ。この移籍はバルセロナのサポーターの大きな遺恨となる。
2000年10月21日に行われた移籍後初のバルセロナのホームであるカンプ・ノウで、フィーゴを待ち受けていたのは残酷な現実だった。
その日のスポーツ紙には「守銭奴!」という見出しが躍り、札束にあしらわれた著名人の肖像のように描かれたフィーゴの写真が大きく掲載された。レアルがピッチに現れた時の観客の野次はきわめて厳しかった。サイドラインに近づくたびにバルセロナのサポーターから物を投げ入れられるので、フィーゴはいつもより中寄りでプレーし、普段なら自分の役割であるコーナーキックも諦めるほどだった。フィーゴのレアルでの2シーズン目は、怪我のためカンプ・ノウでの出場はなかったが、3シーズン目のカンプ・ノウで行われたリーグ戦のクラシコで大騒動が勃発した。フィーゴはサイドライン沿いでプレーし、コーナーキックを何本も蹴った。するとバルセロナのサポーターは憤慨し、フィーゴがわざと挑発していると受け取った。サポーターの怒りはしだいに増し、しまいにはゴミやペットボトルを投げつけた。さらにはコチニーリョ(子豚の丸焼き)の頭までピッチに投げ入れられ、あまりにも大量の異物がピッチに投げ込まれたので、試合の一時中断をよぎなくされる事態にまでなった。このようなことがあり、世界でもトップクラスの選手でありながら、フィーゴにはダーティーなイメージが付いてまわることになった。
両クラブの100年史を振り返ると、試合中、試合外でのフェアではない衝突、因縁は多くある。そういったあらゆることを含め、選手、監督、審判、ファン、マスコミ・・・その土地の人々がここまで熱狂するクラブが、自分の街に存在するというのは羨ましくもある。
また、レアルとバルセロナのこれまでの100年の歴史には、残念ながら日本人の名前はまだ刻まれていない。しかし、バルセロナの下部組織には久保建英君が所属しており、今後、日本人の選手がクラシコのピッチに立つ日もそう遠くではないかもしれない。
クラシコの背景には、バルセロナとレアルの長きに渡っての歴史的な背景がある。本書を通して、人気チーム同士の試合という見方ではなく、もっと深い意味でクラシコを楽しめるはずだ。
(新刊JP編集部)
まさに、現在のサッカー界のトップに君臨するクラブは、FCバルセロナとレアル・マドリードと言えるだろう。
スペインの首都マドリードに本拠地を置くレアル・マドリード(以下レアル)とスペイン北東部に位置するカタルーニャ州・バルセロナに本拠地を置くFCバルセロナ。
この2つのクラブは、ただのライバルクラブに留まらず、スペインの歴史・政治・文化といったあらゆる要素を含めて、良い意味でも悪い意味でもクラブ創設以来100年以上にわたり、しのぎを削って世界トップのクラブにまで成長した。そんな背景のある両クラブの伝統の一戦は「エル・クラシコ」と呼ばれ、スペイン国内のみならず、世界的に注目を集める対戦カードだ。公式戦におけるクラシコの通算成績はレアル88勝、バルセロナ87勝、引分け48(2013年1月末現在)。
近年はバルセロナの活躍が目立つが、最初のクラシコから約110年、両クラブが切磋琢磨してきた結果がこの勝敗に出ているだろう。そんな両クラブ間の移籍はタブーとされ、移籍が成立するとファンからの反発は激しいものとなる。これまでに何人かの選手が移籍したが、最も大きな反発を受けたのが、ルイス・フィーゴだ。
フィーゴは1990年代中盤から後半にかけてバルセロナでキャプテンを務め、チームの象徴的存在だった選手だ。優秀な選手だったが年俸はそれほど高くなく、自分はもっと高い年俸をもらっていいはずだとクラブの自分への評価に常日頃から不満を示していた。そんな状態のフィーゴを2000年、レアルは引き抜きに成功する。フィーゴはバルセロナに要求していた金額の5倍のオファーで、レアルへ電撃移籍したのだ。この移籍はバルセロナのサポーターの大きな遺恨となる。
2000年10月21日に行われた移籍後初のバルセロナのホームであるカンプ・ノウで、フィーゴを待ち受けていたのは残酷な現実だった。
その日のスポーツ紙には「守銭奴!」という見出しが躍り、札束にあしらわれた著名人の肖像のように描かれたフィーゴの写真が大きく掲載された。レアルがピッチに現れた時の観客の野次はきわめて厳しかった。サイドラインに近づくたびにバルセロナのサポーターから物を投げ入れられるので、フィーゴはいつもより中寄りでプレーし、普段なら自分の役割であるコーナーキックも諦めるほどだった。フィーゴのレアルでの2シーズン目は、怪我のためカンプ・ノウでの出場はなかったが、3シーズン目のカンプ・ノウで行われたリーグ戦のクラシコで大騒動が勃発した。フィーゴはサイドライン沿いでプレーし、コーナーキックを何本も蹴った。するとバルセロナのサポーターは憤慨し、フィーゴがわざと挑発していると受け取った。サポーターの怒りはしだいに増し、しまいにはゴミやペットボトルを投げつけた。さらにはコチニーリョ(子豚の丸焼き)の頭までピッチに投げ入れられ、あまりにも大量の異物がピッチに投げ込まれたので、試合の一時中断をよぎなくされる事態にまでなった。このようなことがあり、世界でもトップクラスの選手でありながら、フィーゴにはダーティーなイメージが付いてまわることになった。
両クラブの100年史を振り返ると、試合中、試合外でのフェアではない衝突、因縁は多くある。そういったあらゆることを含め、選手、監督、審判、ファン、マスコミ・・・その土地の人々がここまで熱狂するクラブが、自分の街に存在するというのは羨ましくもある。
また、レアルとバルセロナのこれまでの100年の歴史には、残念ながら日本人の名前はまだ刻まれていない。しかし、バルセロナの下部組織には久保建英君が所属しており、今後、日本人の選手がクラシコのピッチに立つ日もそう遠くではないかもしれない。
クラシコの背景には、バルセロナとレアルの長きに渡っての歴史的な背景がある。本書を通して、人気チーム同士の試合という見方ではなく、もっと深い意味でクラシコを楽しめるはずだ。
(新刊JP編集部)