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 ディズニーはこの世に送り出してきた作品とキャラクターについて自信とプライドを持っている。だからそのすべては“財産”であり、現代のクリエイターにとっては先人からの“遺産”(=レガシー)である。とは言え、『トロン』が30年近い時を超えて映画化されると聞いた当初は驚いた。なぜ、あえて、今(公開2010年)引っ張り出すのか、と。

 さかのぼること1982年、十歳そこそこだった筆者が持つ『トロン』公開時の記憶はこうだ――当時の邦画シーンはガンダムやイデオンといった和製SFが人間ドラマを描くことで新境地を開拓し、一方ではバリバリのアイドルだった近藤真彦や原田知世の映画もドル箱ヒットだった。そんなマーケットで、『トロン』は活気を見せ始めたPC雑誌の誌面を飾り、また映画雑誌やアニメ雑誌の誌面も飾った。しかしCGとアニメと実写の融合による斬新なキャラクターや革新的なグラフィックスの場面写真は、正直どの媒体にもジャストフィットすることなく、どこかシュールな存在感だった。

 そして実際に本編を目の当たりにすると、その感覚はさらに強く鮮烈な体験として飛び込んできた。そう、それはただただ《新しい、見たことの無い映像》だったのだ。コンセプトデザインを手掛けたのはジャン・ジロー・メビウスやシド・ミードといったデザイン界の巨匠だったとか、コンピューター世界の暴走と現実社会の人間の対峙というシノプシスは「鉄腕アトム」とも通じる部分があったのか、などといったあれこれを理解したのは、そこから十年以上も後のことだ。 

 2010年に公開された『トロン:レガシー』は、ある意味早過ぎた、しかし大いなる遺産である『トロン:オリジナル』に対する最大限のリスペクトがその出自である。人物の相関関係からメカやルールの設定とヒエラルキーまで、そのすべてが遺産からの正統なる継承だ。また、[フリンのゲームセンター]、[大げさで分厚いドア]、[“背後から”のビーム]など、初作を知る者ならニヤリとさせられる小ワザのひとつひとつにも抜かりが無い。

 

 ブルーレイ/DVDのリリースにあたり、家庭用3Dで本編を観て感じたことは、やはりこれほど優れた3Dグラフィックスが自宅で体験できる事実への率直な驚きと感動だった。グラフィックの圧倒的な立体感とクオリティを再認識できるし、ライト・サイクルのバトルシーンなどは何度リピートしても胸が躍り、まさに“フリンのゲームセンター”が自宅にやってきたようだ。

 別の角度からの楽しみ方も挙げてみよう。『レガシー』にはたとえばレディー・ガガなどに代表される、今日の音楽やモードに見られる80’sエッセンスのDNAが流れている。美しきヒロイン・クオラのクールかつモードコンシャスなルックスを含め、2000年代の仮想空間でありながら、そのベースはやはり80’sだ。特に本編中盤、サウンドトラックを手掛けるダフト・パンクが実際に出演(!)しているクラブのシーンにおける、彼らのサウンドとキャスターの乱痴気騒ぎとのハマり具合はそれを雄弁に物語っているし、92年にシーンへと躍り出たダフト・パンクが、結果的に『オリジナル(=80’s)』と『レガシー(=00’s)』のブリッジ(=90’s)のようで……と語るのはやや深読みが過ぎるか?(笑)

 

 家庭用3Dの普及。ジョセフ・コジンスキー監督をはじめとする今日のディズニーが用意した、サムとクオラの00’s的な結末。そしてティム・バートンやローマン・コッポラ、J.P.ゴルチエといった『トロン』に影響を受けたと語るクリエイターの登場。そのすべてが、冒頭に筆者が書いた“なぜ、あえて今”の回答のようだ。だから筆者は思う。『トロン』は再び現れる、と。コンピューターの世界が現実社会を侵略する事態だけは正直カンベンしてほしいが(笑)、映画が、そしてグラフィックス技術の進化というニーズが新たなステージを見せる時、きっと3作目の『トロン』が誕生する気がしてならない。それが何年、何十年先なのかは分からないが、この『トロン:レガシー』の最も本質的な価値は、実はその時にこそ語られるべきだと思うのだ。

※追記:それにしても本編でサムが住むガレージハウスは、『オリジナル』世代男子全員の憧れ、〈秘密基地〉そのものだったよ!

内田正樹 プロフィール
フリー編集者/ライター。元:雑誌『SWITCH』編集長。(現:コントリビューター)他にも数々の雑誌を経て、現在は電子書籍やファッションのディレクション、コラム執筆など、多方面で活動中。

『トロン:レガシー』特集 - MOVIE ENTER