たった紙切れ1枚なのにがんじがらめになってしまう(筆者撮影)

厚生労働省によれば2017年の離婚件数は21.2万組、ピークだった2001年の28.9万組からは減っているものの、1970年の9.1万組と比べて2倍以上という高水準が続いている。2001年の婚姻件数は79.9万組、2017年は同60.7万組なので、単純計算すると3組に1組の夫婦が離婚している計算だ。
しかし、離婚とそこにいたるまでの理由は多種多様である。そもそも一組の男女が、どこでどうすれ違い、離婚という選択肢を選んだのか。この連載では、離婚を選択した一人ひとりの人生をピックアップ。離婚に至るまでの経緯をできるだけ明らかにすることで、現代社会が抱える家族観や結婚観の揺らぎを追う。

21年間連れ添った夫と離婚

54歳の斎藤百合子さん(仮名)は、柄物のTシャツにジーパンというラフないで立ちでJR中央線の某駅に現れた。斎藤さんは都内の老人介護施設で介護福祉士として働いている。


この連載の一覧はこちら

百合子さんは、9年前に21年間連れ添った夫と離婚。それまでは約20年間、専業主婦だった。子供は4人いるが、全員が成人している。

「今日も利用者さんのおうちを入浴介護で訪問したら、来てくれてありがとうって言われたんですよ。すごくうれしかったです。元旦那は、典型的なモラハラ男。馬鹿だクズだと、毎日のように言われ続けた生活だったから、まるで真逆の生活を送ってるんです」

午前中に、高齢者の女性の入浴介護を終わらせてきたという百合子さん。さすがに疲労感があるはずだが、そんな様子も見せずに、満面の笑みを浮かべる。入浴介護は、体力も使い、汗まみれになるため、ほぼノーメイクだが、童顔で痩せているため、年齢よりも若く見えて、かわいらしい印象である。

現在の職場の手取りは、約18万円。ボーナスはない。日によっては、夜勤も週3回でこなすこともあって、年齢的にも決して楽な仕事ではない。それでも離婚で手に入れた経済的、精神的な自立によって、身も心も自由になったと日々感じている。

百合子さんは、パソコン関係の専門学校を卒業後、20歳でデジタル体温計を製造しているメーカーに技術職として入社。7歳年上の夫・啓介(仮名)とは、そこで知り合った。よくある職場恋愛だ。たまたま百合子さんの後ろの席に背中合わせで座っていたのが彼だった。

啓介は、関東の工業大学を卒業後、技術開発部門に新卒で入社した、いわば先輩だった。バリバリ仕事ができるところに惹かれて付き合うことになり、あれよあれよという間にプロポーズされた。

飯田橋の東京大神宮で結婚式を挙げ、会社の近くのジャズバーで会社の関係者を呼んで披露宴を催した。幸せの絶頂だった。

「よくある職場結婚だったんですが、結婚したのが21歳で早かったんです。だから、職場の上司には『本当にいいのか?』って、説得されましたね。今思うと、自分でも周りが見えてなかったんです」

しばらくは啓介と同じ職場で働いていたが、会社の経営状態は次第に厳しくなっていった。そのため、百合子さんのみ退職を余儀なくされ、啓介はそのまま同じ会社で働き続けた。そこから、20年余りにわたる百合子さんの専業主婦としての生活が始まった。

地獄の結婚生活の始まり

夫婦生活は順調そうに見えた。2年後に長男が、そして次男、三男と次々と生まれた。

その頃に住んでいた埼玉のアパートが手狭になったことから、横浜市に一戸建てのマイホームを買った。しかし、それは地獄の結婚生活の始まりだった。新しい家に移り住んだ頃から、啓介の様子がおかしくなった。いわゆる、DVとモラハラが始まったのだ。

「私が年下だから、『お前は社会に出て何もわかってないんだから、俺の言うことを聞いていればいいんだから』って、言われ続けましたね。『お前は馬鹿だからと。お前は家にいておとなしくしていればいいんだからって。子供が粗相をすると、お前の育て方が悪いんだ。金属バットを振り回すような子供になるぞ!』とことあるごとに脅されました」

啓介は、自分の「家」と、正しい「家庭生活」に異常なほどにこだわりを見せた。

元夫の両親の職業は教師で、多忙な両親は、啓介の運動会などにほとんど顔を見せることもなかった。そのため、寂しい幼少期を過ごした。そんな両親を憎んでいた啓介は、まるでそれを反面教師にするといわんばかりに、百合子さんがつねに家にいる、正しい母であることを望んだ。特に家へのこだわりは異常なほどだった。

「部屋の壁に手をついて歩くなって言うんです。壁に手をつくと、汚れがつくから嫌だって言うの。だからなるべく壁に手はつかないように、生活していました。自分たちの家なのに、つねにビクビクして生活していましたね」

ある日、友人からビーズの手作りのアクセサリーが送られてきた。段ボールのまま机に置いていたら、庭で焼かれて、燃えカスになっていた。

「つらくて声も出なかったですね。人間って、あまりにつらいときは、声すら出なくなるんだなって思いました。自分の部屋なんてないから、悔しくて、悲しくて、キッチンで一人で泣いていました」

母親からもらった長男の入学祝いも啓介によって燃やされた。テーブルの上に封筒を置いていると、「机が散らかってるぞー!」と怒鳴り散らし、そのまま同じように庭で火をつけられた。

「おカネなんて、あッという間にメラメラ燃えて、灰になるんです。そのときもすごく恨みましたね。母の気持ちを思うと、切なくて悔しくて、もうどうしようもなかった」

マイホームは、啓介にとって、ようやく手に入れた自分の城――。城の王様である啓介は、城に奴隷たちの私物があることが気に入らなかったのだ。ブーツやサンダルなどの靴も気がつくと、物が多いとの理由で、庭でいつの間にか燃やされている。そんな日々が続いた。

さらに、啓介は九州男児で田舎育ちとあって、とにかく野菜の鮮度や味には異様に敏感だった。

「2日くらい経った野菜に、『何年物のナスなんだ?』と罵倒するんです。おかずを作っても、『こんなの家畜が食べるんじゃねぇぞ!』と、すべてけなされるんです。そのたびにドキドキして、胸の動悸が止まらなくなる。なに?また何か私やったの?と委縮してしまうんです」

ファミレスは禁止、電子レンジは料理を楽にするものとして、買うことすら禁止された。気に入らないことがあると頭を小突かれ、平手打ちはしょっちゅうだった。

「夫は家の中にいるお人形が欲しかったんだと思います。家の中だけにいると、世間がわからないから、旦那さんに言われたことが全部正しいと思ってしまうし、ダメな自分が悪いんだと思うんです。一種の洗脳ですよね」

監禁と紙一重の夫婦生活

そんな啓介との生活に息が詰まりそうになった百合子さんは、外でパートでもいいから、働きたいと懇願した。そのたびに「そんなに外に出たいのか! 俺の稼ぎじゃ足りないのか!」と啓介に怒鳴られた。そのため、事実上の軟禁状態だった。

「外に働きに出るのは、すごく嫌がっていました。人間性を奪って、奴隷みたいに家に監禁しておきたかったのかなと思う。そういう事件ってよくありますよね。でも、私たちの夫婦生活も紙一重だったと思うんですよ。それでも、結婚は男の人の言うことを聞くものだと思ってたんです。お前は社会に出て何もわかってないんだからと言われると、そうだよね、私、何も世間のこと、わかってないよね、と」

ある日、出席した子供のPTAの勉強会で、子供のセルフスティーム(自己肯定感)を育てるという講義があった。

「今思うと、自分がいちばん自己肯定感を奪われていたのに……って突っ込みたくなります。でも、子供の教育に関することは、熱心にノートを取ってるのに、DVとか、モラハラで悩んでいて、自己肯定感がズタズタにされていることにすら、気がついてなかったんです。そのときはモラハラという言葉すらなかった」

携帯電話が出始めたころに0円で使える携帯電話をコンビニで手に入れた。うれしくて、ソファーで寝っ転がって夢中になっていると、「いつまでそんなので遊んでるんだ!!」と激高した啓介に、馬乗りになって首をギューッと絞められた。命の危険を感じたが、そのすさまじい力になす術がなかった。

「首を絞められたときに、『やめて――!』って叫んだ気がするけど、あまり記憶がないんです。私が夢中になってることに、焼きもち焼いたんでしょうね。なんでこんなことするんだろうって、薄れゆく記憶の中で感じたのだけ覚えています」

子供ができてから百合子さんは実家の両親に子供を見せたいと思った。

しかし、実家に子供を連れて帰ると、「何を吹き込まれてきたんだ?」と啓介は露骨に嫌悪感を示すのだ。啓介が不機嫌になるのが怖くて、実家にもなかなか帰れない日々が続いた。そのため、ますます百合子さんは孤立感を深めていった。

体を求められるのは年に、4、5回。それもつねに啓介の自分勝手な行為だった。思い付きでいきなり襲ってきて、ムードも何もなく一方的に果てて終わり。

「我慢するものだと思っていた。我慢していたら、夜のお勤めが終わっているという感じです。それでも、私も女だから、たまに、抱きつきたくなったりキスしたり、スキンシップしたくなったりする。それで、ベタベタすると、『うざいわ』と言われて突き放されるんです」

そのため、排せつ行為のような性生活に寂しさだけが募る日々が続いた。女性としての喜びのかけらも感じたことはなかった。それでも、女として、満たされない思いだけは募っていた。しかし、運悪く数カ月ぶりの性交渉で、4人目の子を妊娠してしまった。

「子供を産みたくなくて、お腹をボカボカ叩きました。流産しないだろうかって。この人との縁をつなぐようなものはいっさい欲しくなかったんです。上の男の子たちも大きくなっていたし、やっとこの子たちが離れるのに、それ以上この男とつながりを持たなきゃいけない何かが生まれるのがすごく嫌だった。経済的に自立してなかったから、頭を下げてこれから生まれてくる子のために、お父さんに、かしずいていかなきゃいけないんだと思うと、嫌で嫌でしょうがなかったんです。だけど、いざできちゃうと、中絶はできないんですよね」

百合子さんは、毎日が無性に寂しくて、たまらなかった。4人目の子供が生まれてからは、夫とは完全にセックスレスとなった。

「なんで、私、こんな生活しなきゃいけないんだろう」

百合子さんは次第にそう考えるようになっていった。啓介からは生活費として、月に8万円を貰っていたが、百合子さんが衣類など、自分のものを買うと怒りだす。スカート1枚も買えずに、美容院に行くこともできなかった。髪の毛は荒れ放題で、服は首の伸びたTシャツをいつも着ていた。友達にランチを誘われても、あまりのみすぼらしさに恥ずかしくて断る日々が続いた。

小さい穴が、どんどん大きくなっていく感じ――。百合子さんは、そう例える。そして、その穴はもはや塞げないくらいに広がり、修復のしようもなかった。精神的にも肉体的に限界が近づいていた。

「周りの世界がチラチラ見え始めてきて、『あれ、おかしいな』と思うようになったんです。周りのママ友なんて、当然ながらファミレス禁止令なんかない。好きな洋服を買って、ランチもしている。うちの事情を話したら、笑って馬鹿にされました。“私、ここまで我慢しなくてもいいのかもしれない”そう思い始めたんです。このまま家庭生活が続いたら、私の頭がおかしくなってしまうというのもありました。それに気づくまで、20年かかりましたね」

結婚20年目は、百合子さんにとって区切りでもあった。ちょうど20年、この人にお仕えしたから、1回だけ休憩をください――。そんな思いから、離婚を夫に懇願した。しかし、いざ勇気を持って夫に離婚届を見せると、激高して、ビリビリに破られるという日々が続いた。

しかし、百合子さんの離婚の決意は固かった。そのため、離婚は調停にもつれ込むこととなった。

思ってもみなかった調停委員とのバトル

夫婦だけの話し合いで離婚が成立しない場合、家庭裁判所の調停で、調停委員と裁判官という、第三者を挟んで双方の意見を調整し、話し合うことになる。

この調停委員を交えての話し合いが幾度となく繰り返された。

「調停委員は、なるべく離婚をさせまいと、強引に、元のさやに戻そう戻そうとするんです。DVやモラハラがあったというと、『私たちが旦那さんに一筆書かせて、ないようにするから、あなたもちゃんと家に戻りなさい』と言われる。ただでさえ、参っているのに、このやりとりでかなり精神的に追い込まれましたね」

さらに専業主婦で行き場のない百合子さんは、調停中でも、啓介のいるマイホームで、寝食をともにせざるをえなかった。親の反対を押し切って結婚した百合子さんにとって、実家に帰るという選択は毛頭なかったからだ。

「とにかく、調停中、家の中では気まずいですよね。『私の胸の内は全部調停員に話してありますから、話を聞いてきてください』そう言うしかない。家で話をしても離婚の話はしないようにしていました。夕飯の支度はするけれど、食事は別で、私だけトイレにこもったり、台所にこもったりして、やり過ごしていましたね。本当につらい日々でした」

まるで冷戦のような離婚の調停中、あまりのストレスから耳が聞こえなくなった。度重なる調停委員との話し合いの後に、夫が根負けする形で離婚が成立した。離婚当日のことを、百合子さんは今でも鮮明に覚えている。

2人でそろって、調停委員の前で離婚届にサインした。特に取り乱した様子もなく、静かに淡々と作業を進める夫。しかし、横目で様子を窺うと、これまでに見たことがないほど悲痛な表情を浮かべていた。その感情が痛いほどに伝わってきて、涙がボロボロ出てきた。

「あれだけ、離婚したいと言ってたのに、いざ離婚となると、体の半分が引きちぎられるような感覚が襲ってきたんです。夫のことを心の底から憎かったわけじゃないし、私が依存している部分もあった。今でも、なんでこうなったんだろうという思いが強いんです。あのときのことを思い出すと、今でも涙が出そうになります。確かにやっと解放されるという安心感もあったんですが、それよりも、とにかく悲しかった。離婚は、結婚よりも何十倍もエネルギーを使いましたね。でも後悔はないです。とにかく悲しかったですね」

当時のことを鮮明に思い出すと、こみ上げてくるものがあったのか、百合子さんはハンカチでとめどなくあふれ出る涙をぬぐった。

私はもう自由なんだ、と思う半面、20年連れ添った男を見捨てたという罪悪感に襲われ、胸が苦しくてたまらなかった。離婚が成立したのは、百合子さんが、42歳のときだった。

結局、調停の結果、4人目の子供でまだ幼かった娘だけ自分が引き取ることになった。長男は20歳を超えていたし、三男も中学3年生。男の子たちは、父親と向き合うべきだ、そう感じた。

何とかして、おカネを稼がなくては――。そう思った百合子さんは、家を出て、他県に移り、新聞配達員として5年間、がむしゃらに働いた。娘との生活を成り立たせるために、仕事を選んではいられなかった。しかし、働くことによって少しずつ、世の中の仕組みが見えてきた。

元夫と、子供たちとの不思議な共同生活

自立した生活を送り始めていた頃、夫の元にいた子供たちにどうしても家に帰ってきてほしいと懇願された。「お父さん変わったよ、とても弱ってる。だから帰ってきて、面倒を見てほしい」子供たちは、異口同音にそう言った。自分にとっては、もはや啓介は他人だが、子供たちには父親であることには変わりなかった。あまりの子供たちの真剣な勢いに断りきれずに、考えに考えた末、家に戻った。

元夫と、子供たちとの不思議な共同生活が始まった。

あんなに昔は恐怖心を抱いていた元夫だったのに、5年ぶりに会うと、頭には白いものが多くなっていた。信じられないくらいに、性格もめっきりと弱く、優しくなっていた。何よりも、百合子さんを支配しようという態度もすっかり影を潜めていた。

元夫との共同生活を始めると同時に、百合子さんは地元のハローワークに行った。百合子さんは、学生の頃にバイトした喫茶店の雰囲気が好きだった。漠然とだが、もっと人とかかわる仕事をしたい、そう感じていたからだ。

50歳で介護福祉士の資格を取得

中年の女性の相談員に「あなた、これからどうするの?」と聞かれ、何も考えていなかった百合子さんは、「スーパーのレジ打ちとかありますか?」と恐る恐る聞いた。すると、「何バカなこといってんの!」と語気を荒らげられた。

「『あなた母子家庭でしょ? 母子家庭だったらなおさら、東京都で応援してくれるいろんな制度があるんだから、そういうのを使いなさい』と、いろいろな制度を調べてくれたんです。それで結局、介護福祉士の資格を取るために2年間学校に通うことになったんです」

授業料や交通費は、全額免除、さらに通学期間は失業手当も出るとのことだった。百合子さんは、その制度を利用し、50歳のときに介護福祉士の資格を取った。そして、現在は、都内の介護施設で働いている。介護の仕事は楽ではないが、とてもやりがいを感じている。

「私が家を出ていた5年の間に、元夫は確かに180度変わったし、歳も取ったんだなと思いました。子供たちのために毎日料理を作ったり、家事も一人でこなしていたみたいです。それで私に対する考え方が変わったんだと思います。介護福祉士の資格を取ると言ったら、すごく賛成してくれました。仕事をし始めたら夜勤があることがわかって。

それを元夫に言うと『じゃあいつお前は家に帰ってくるんだ。もう、帰ってこなくていいよ』と苦笑いしていましたね。結婚していたときみたいに、暴れることもないし、ワーッと怒鳴ることもない。私が夜勤で夜帰ってこなくても、そんな私の生活を尊重してくれるようになったんです」

それどころか、元夫は、百合子さんの夜勤をねぎらうようになった。朝、夜勤明けに帰宅すると、ハムとチーズとトーストを準備して待っていてくれるのだという。

一番下の娘も最近巣立ち、現在は、元夫と2人きりの生活を送っている。

「とっくに離婚してるのに、まだ一緒に住んでいるなんて、外から見たら変だと思われるかもしれないですね。でも、どうしても元夫とは縁がある人なんでしょう。そこは、切れなかった。介護福祉士の資格を取ったのは、元夫を看取るというのが運命としてあるような気がするんですよ。だからといって、元夫と再婚するつもりは、ありません。結婚はもうこりごりだから」

そう言って、百合子さんは笑った。そう、男女の関係性に正解なんてないのかもしれない。

結婚、離婚なんて、紙入れ1枚――、しかし、それに縛られるからつらいのだ。

百合子さんが離婚という経験を通じて感じたこと――。それは、物事を始めるのに、何事にも遅すぎるということはないということだ。

「私みたいに結婚生活で苦しんでいた人に言いたいのは、殻は破ったほうがいいということです。専業主婦という生活を手放すのは、すごく怖いと思うんですけど、意外に世の中、どうにかなるもの。さまざまな制度もあります。私なんて、介護福祉士の資格を取ったのは、50歳なんですから」

介護福祉士という職業柄、百合子さんは、これまで、4人の利用者を夜勤の時間に看取っている。さっき歩いてトイレに行ったばかりの男性が、寝室の電気がつけっぱなしだと感じて、ベッドを確認すると、そのまま息を引き取っていたこともある。管理者やナースが心臓マッサージをするが、息を吹き返した例はこれまで見ていない。

百合子さんがさまざまな人の死を通じて感じたのは、人間って死ぬときは、あっけないなということだ。明日、自分が死ぬかもしれない。それなら、1分1秒を好きに生きたほうがいい。百合子さんは、今、彼氏がいる。その彼と、旅行に行ったり、セックスをしたりもする。もちろん、元夫はその存在を知らない。知らなくていいこともある、そう感じている。

離婚して初めて夫と対等に向き合えた

ある日、百合子さんは、桜の季節に思い切って、長男夫婦と元旦那を屋形船に招待した。決して安い金額ではなかったが、百合子さんはどうしても自分でそのすべてのおカネを出したかった。会計時に、元夫もおカネを出そうとしたが、今回は、私に出させて――そう言った。「そうか」と少し戸惑いながら、手持ち無沙汰に財布を引っ込めた。

屋形船の船上から、散りゆく満開の桜は、まるでかつての結婚生活の門出のように、はかくなくて、それでいて美しかった。それを、童心に帰ったかのように楽しんでいる元夫を見て、ここに連れてきて良かったと心から思った。

「それができるのは、やっぱり働いて、自立しているからというのが大きいんです。昔は、財布からおカネを出すことすら怖かった。ニンジンを買うにしても、キャベツを買うにしても、これを買ったら、またお父さんに怒られるのかなとつねに怯えていました。『腐らせるだけだろ!』って、いつも怒鳴られてたから。

でも、今は自分で稼いだおカネだから、誰にも文句を言われずに、好きなように使える。離婚することでいちばん犠牲にしたのは子供だと、思います。それは今でも反省しています。だけど、離婚したこと自体は後悔していないんです。元夫とこんな関係になれたのも、離婚したからというのがあるから」


結婚しているときは、自分に酔っていたという(筆者撮影)

そうしっかりとした眼差しで百合子さんは答えた。今考えれば、結婚しているときは、自分に酔っていたと百合子さんは振り返る。

「結婚は一言で言うと、しんどかった。婚姻届って、たった紙切れ1枚なのに、それにがんじがらめになってしまうんです。結婚で、女は我慢するもの、男の言うことを聞くものって最初から決めてたから。悲しくてもつらくても、実家には戻れなかった。だけど、そんなふうに耐えている自分そのものが、かわいく見えていたのも事実なんです。

『こんなかわいそうな私、でも一生懸命頑張っていて、偉い』って。でも、そんな自分とも、離婚したときにさよならしました。離婚して、家を出て子供は傷ついた部分もあったと思います。でも、私は経済的に自立して、成長できたんです。それは大きい」

DV、モラハラと、結婚生活で地獄を見てきた百合子さんが、離婚で手に入れたのは、自由と自立だ。それは、何物にも代えがたい、かけがえのないものであった。そして離婚によって、皮肉にも初めて元夫と人間として対等に向き合うことができた。今、百合子さんは心底幸せだという。

それを手に入れられたのは、何よりも百合子さん自身が、一歩踏み出す勇気を持ったからだ。その教訓を百合子さんの半生が身をもって教えてくれている。