替え玉? 自殺? アメリカの謀略? 戦後最大級の未解決事件・下山事件2
いまから65年前の7月、その前月に発足したばかりだった日本国有鉄道(国鉄、現JR)の総裁・下山定則が怪死するという事件が起こった。いまなお謎の部分の多いこの事件は、前回紹介したとおり、手塚治虫の長編マンガ『奇子(あやこ)』(1972年)でもとりあげられている(ただし作中では下山は霜川となっている)。
とある地方旧家の人々を描いたその作品中、一家の次男である天外仁朗がGHQの秘密工作員として、下山事件の予行練習として行なわれたと思しき殺人事件に関与する。殺害対象となったのは民進党(共産党がモデルだろう)の地方支部長・江野正。仁朗は、地元の駅で下車した江野を指定された場所まで連れて行き、べつの男たちに引き渡すという指令を与えられる。さらに30分後、同じ場所に戻り、そこに停められた車のなかにある人間の死体を、車ごと指定の線路まで運ぶ。そして死体を線路上に置き、車は放置したままさっさとその場を離れろ――というのが、GHQから仁朗に課せられた使命だった。
実行当日、仁朗はたしかに駅から江野と思しき男を指定場所まで案内し、そこで待っていた男たちに引き渡す。30分後、仁朗は同じ場所に戻り、停められていた車のなかの死体を確認するが、それはさっき彼が案内した男とはそっくりだが別の人間であった。死体は指令どおり線路上に置かれ、翌朝、バラバラになって発見される。
タネ明かしをすれば、仁朗が案内したのは江野ではなく替え玉であり、車の死体こそ江野本人であった。江野は東京ですでに殺されており、車で運んだうえ、わざと列車に轢かせて自殺に見せかけたのだった。
じつは下山事件でも替え玉説が取り沙汰された。手塚治虫はおそらくそれを踏まえて、先のような話を描いたものと思われる。替え玉説の前提となるのは、行方不明となっていた下山定則を、遺体発見現場近くの旅館やその周辺で目撃したという複数の証言だった。
■失踪後も何度か目撃された下山総裁
下山が行方不明となったのは1949年7月5日のこと。その朝、東京都大田区の自邸を、運転手つきの乗用車で出発した下山は、午前9時37分ごろ、三越日本橋本店に車を着けさせ、そのまま店内へ入って行った。下山は普段より車を何時間も待たせる癖があったので、この日も運転手は夕方まで待っていたが、午後5時になってカーラジオからのニュースで初めて総裁が行方不明になったことを知り、警察に通報する。
遺体発見後の捜査のなかで、三越に入って行ったあとの下山を目撃したとの証言があいついだ。それらを総合すると、下山は午前11時半すぎに三越周辺を離れ、地下鉄で浅草に移動、さらに午後には、東武伊勢崎線に乗り五反野駅(足立区)にて下車、末広旅館で3時間半ほど休憩した。五反野は、下山の遺体が発見された、東武伊勢崎線と常磐線の交差地点のすぐ北側に位置する。午後6時から7時にかけて、その現場付近を下山がうろついていたという目撃情報を警察はいくつか得ている。
下山の死をめぐる議論は、前回紹介したように自殺説と他殺説で大きく二分される。これら目撃例は、下山の自殺説の有力な根拠とされた。とりわけ、下山を接客したという末広旅館の女将の談話は、7月8日付の毎日新聞でスクープされ、自殺説を後押しすることになる。
その後、捜査によって浮かび上がったいくつかの証拠をもとに、ますます自殺説に傾いた毎日新聞は、8月3日付の第一面に「特捜本部・自殺と断定、きょう合同捜査会議」との見出しを掲げた。事実、捜査会議も「下山自殺」を発表する方向であった。が、当時の警視総監により「目下の捜査段階では自・他殺いずれとも決定はできない」と断定は見送られることになる。
■下山の替え玉は存在したのか?
さて、替え玉説を最初に唱えたのはおそらく、下山のもとで国鉄副総裁を務めた加賀山之雄(のちの第2代国鉄総裁)だろう。加賀山は事件から10年後の1959年、雑誌への寄稿で「私は恐らく末広旅館の下山氏は替玉だと思う。旅館の人々も下山氏を知っているわけではない。それらしき替玉を使えば容易にごまかせるというものだ。私がこの日以来今日まで考え続けていたことは、下山さんは殺されたのだということである」と書いた。
加賀山の替え玉説をさらに発展させて、事件を推理したのが松本清張の『日本の黒い霧』(1960年)である。松本もまた他殺説を主張するなかで、旅館にいた下山は替え玉と断じた。その根拠として松本は、部屋に吸殻が一つも残っていなかったことをあげる。ヘビースモーカーと知られ、しかも思い悩んでいたはずの下山が、1本もタバコを吸っていないのは不自然だというのだ。吸わなかった理由もあきらかで、吸殻についた唾液から下山と違う血液型が検出され、偽者だとバレてしまうことを恐れたからだという。
しかし夕暮れ時に外で見たのならともかく、男に何回か間近で顔を合わせ、言葉も交わした女将が、下山本人かどうか見抜けないということがあるだろうか。事件から56年を経て発表された、柴田哲孝『下山事件 最後の証言』(2005年。のち07年に完全版が刊行されている)は、それに一つのヒントを示した。女将は誰かに頼まれて、“偽証”したのではないか、というのだ。
柴田がその論拠としたのは、ほかならぬ彼の祖父宛てに女将から1949年から彼女が亡くなる59年まで毎年、年賀状が届いていたとの事実である。そもそも柴田の取材は、この祖父が下山事件に関与していたかもしれないと親類から聞かされたことから始まった。祖父の勤めていた亜細亜産業という会社は、GHQのキャノン中佐と深いかかわりを持ち、その下請け機関として数々の非合法工作に関与していたというのだ。先の女将からの年賀状も、亜細亜産業の下山事件への関与を示す証拠、ということになる。
代表者の名前をとって「矢板機関」とも呼ばれた亜細亜産業の存在がクローズアップされたのは、柴田の著書が初めてではない。その少し前、1999年に「週刊朝日」で連載されたドキュメンタリー映像作家の森達也らによるレポートで初めて、事件への矢板機関の関与が示唆された。その後、同連載に取材協力した社員記者の諸永裕司が『葬られた夏 追跡 下山事件』を、さらに森達也が『下山事件(シモヤマ・ケース)』を発表、いずれも連載の内容を発展させたものであり、そこで情報源として登場する「彼」こそ柴田であった。
3作はいずれも柴田(の親類)の発言が発端となって取材が始まっているだけに、もちろん内容的に重複する部分もあるが、構成や結論は三者三様なのが興味深い。『葬られた夏』ではアメリカでの取材成果も反映されている。他方、その取材・発表の過程では三者のあいだで対立も生じたようだ。これについては森の著書にくわしい。
■謀略論を否定した論者も
話は前後するが、松本清張の替え玉説に真っ向から反論した人物がいる。『下山事件全研究』(1976年)の佐藤一だ。
佐藤は、松本清張が根拠にあげた「旅館に吸殻が残っていなかった」との話について、旅館に滞在した男が下山を装う偽者だったとすれば、《その偽装を自然に見せるため、むしろ煙草のすいがらを残すほうが理にかなうのではないだろうか》と疑問を呈した。「吸殻についた唾液から下山と違う血液型が検出される懸念」についても、《パイプをつかうことによって無用となる。本物の総裁所持品リストのなかには、パイプがはいっていて平素使用していたと認められているのだから、この考えは事実から遊離した勝手なものでなく、逆に実際に即したものといえよう》と反証している。
佐藤は東芝松川工場の人員整理反対闘争に参加していた1949年8月、工場付近を通る東北本線で起こった列車転覆事件(松川事件)への関与を疑われ逮捕・拘留された経験を持つ。1963年に無罪確定後、学者や作家によって結成された下山事件研究会に参加。もともとは他殺説を支持していたのが、検証作業を進めるうちに疑念を抱くようになり、自殺説を主張するにいたった。やがて研究会を離れ独自に進められることになった佐藤の研究の集大成が『下山事件全研究』である。そこでは精緻な分析のもと、下山が謀殺されたとする根拠が一つひとつ斥けられている。
佐藤は2009年に87歳で亡くなるまで下山事件研究に一生を捧げた。遺著となった『「下山事件」謀略論の歴史』(2009年)では、前出の柴田哲孝『下山事件 最後の証言』をはじめ諸永裕司・森達也らの謀略論を、苛烈ともいえる筆致で批判している。
佐藤の各著書を読んでいて痛感したのは、歴史的事件というのは、その背景にあるものをさまざまな視点からとらえながら、あらためて位置づけなければならないということだ。彼のそうした姿勢はとりわけ、下山事件の検証においてあまり顧みられてこなかった、事件当時の国鉄労働組合および全逓信労働組合の人員整理反対闘争の実態に迫った『戦後史検証 一九四九年「謀略」の夏』(1993年)に顕著である。
下山事件の前後には、政策にもとづく人員整理に対し、国鉄内で反対闘争が起こったものの、けっきょく計画どおり10万人近い職員が削減され、闘争は沈静化していった。この闘争に際しての日本の反体制勢力の対応を、佐藤は次のように批判している。
《国鉄労働組合をはじめ日本の左翼、進歩的勢力が、それにどう対抗すればよかったのか、方針や闘争態勢の整備を具体的に検討したという話は一度として聞いたことがない。聞こえてくるのは、労働者や進歩勢力が強力な闘争を組織すると、権力の座にあるものは必ず謀略事件を仕組む、それが「日本の黒い霧」であり、「下山事件」であったという話だ。だから、表面的には勇ましくても、その裏ではたえず、そういう闘争は避けようと、優しくささやく声がある》(『戦後史検証 一九四九年「謀略」の夏』)
この一文からは謀略論の危うさも読み取れる。それは何も昔の労働運動や左翼運動にかぎらず、現在のあらゆる社会運動にも当てはまりそうだ。自分たちの方針や手法もろくに検討しないまま、為政者(にかぎらずアメリカでも現在の中国でもいいが)の力を過大に見積もって、必要以上に恐怖を煽ることは、かえって相手を利することになってしまうのではないか。下山事件から私たちが学ぶべき最大の教訓は、これに尽きるように思う。
(近藤正高)
とある地方旧家の人々を描いたその作品中、一家の次男である天外仁朗がGHQの秘密工作員として、下山事件の予行練習として行なわれたと思しき殺人事件に関与する。殺害対象となったのは民進党(共産党がモデルだろう)の地方支部長・江野正。仁朗は、地元の駅で下車した江野を指定された場所まで連れて行き、べつの男たちに引き渡すという指令を与えられる。さらに30分後、同じ場所に戻り、そこに停められた車のなかにある人間の死体を、車ごと指定の線路まで運ぶ。そして死体を線路上に置き、車は放置したままさっさとその場を離れろ――というのが、GHQから仁朗に課せられた使命だった。
タネ明かしをすれば、仁朗が案内したのは江野ではなく替え玉であり、車の死体こそ江野本人であった。江野は東京ですでに殺されており、車で運んだうえ、わざと列車に轢かせて自殺に見せかけたのだった。
じつは下山事件でも替え玉説が取り沙汰された。手塚治虫はおそらくそれを踏まえて、先のような話を描いたものと思われる。替え玉説の前提となるのは、行方不明となっていた下山定則を、遺体発見現場近くの旅館やその周辺で目撃したという複数の証言だった。
■失踪後も何度か目撃された下山総裁
下山が行方不明となったのは1949年7月5日のこと。その朝、東京都大田区の自邸を、運転手つきの乗用車で出発した下山は、午前9時37分ごろ、三越日本橋本店に車を着けさせ、そのまま店内へ入って行った。下山は普段より車を何時間も待たせる癖があったので、この日も運転手は夕方まで待っていたが、午後5時になってカーラジオからのニュースで初めて総裁が行方不明になったことを知り、警察に通報する。
遺体発見後の捜査のなかで、三越に入って行ったあとの下山を目撃したとの証言があいついだ。それらを総合すると、下山は午前11時半すぎに三越周辺を離れ、地下鉄で浅草に移動、さらに午後には、東武伊勢崎線に乗り五反野駅(足立区)にて下車、末広旅館で3時間半ほど休憩した。五反野は、下山の遺体が発見された、東武伊勢崎線と常磐線の交差地点のすぐ北側に位置する。午後6時から7時にかけて、その現場付近を下山がうろついていたという目撃情報を警察はいくつか得ている。
下山の死をめぐる議論は、前回紹介したように自殺説と他殺説で大きく二分される。これら目撃例は、下山の自殺説の有力な根拠とされた。とりわけ、下山を接客したという末広旅館の女将の談話は、7月8日付の毎日新聞でスクープされ、自殺説を後押しすることになる。
その後、捜査によって浮かび上がったいくつかの証拠をもとに、ますます自殺説に傾いた毎日新聞は、8月3日付の第一面に「特捜本部・自殺と断定、きょう合同捜査会議」との見出しを掲げた。事実、捜査会議も「下山自殺」を発表する方向であった。が、当時の警視総監により「目下の捜査段階では自・他殺いずれとも決定はできない」と断定は見送られることになる。
■下山の替え玉は存在したのか?
さて、替え玉説を最初に唱えたのはおそらく、下山のもとで国鉄副総裁を務めた加賀山之雄(のちの第2代国鉄総裁)だろう。加賀山は事件から10年後の1959年、雑誌への寄稿で「私は恐らく末広旅館の下山氏は替玉だと思う。旅館の人々も下山氏を知っているわけではない。それらしき替玉を使えば容易にごまかせるというものだ。私がこの日以来今日まで考え続けていたことは、下山さんは殺されたのだということである」と書いた。
加賀山の替え玉説をさらに発展させて、事件を推理したのが松本清張の『日本の黒い霧』(1960年)である。松本もまた他殺説を主張するなかで、旅館にいた下山は替え玉と断じた。その根拠として松本は、部屋に吸殻が一つも残っていなかったことをあげる。ヘビースモーカーと知られ、しかも思い悩んでいたはずの下山が、1本もタバコを吸っていないのは不自然だというのだ。吸わなかった理由もあきらかで、吸殻についた唾液から下山と違う血液型が検出され、偽者だとバレてしまうことを恐れたからだという。
しかし夕暮れ時に外で見たのならともかく、男に何回か間近で顔を合わせ、言葉も交わした女将が、下山本人かどうか見抜けないということがあるだろうか。事件から56年を経て発表された、柴田哲孝『下山事件 最後の証言』(2005年。のち07年に完全版が刊行されている)は、それに一つのヒントを示した。女将は誰かに頼まれて、“偽証”したのではないか、というのだ。
柴田がその論拠としたのは、ほかならぬ彼の祖父宛てに女将から1949年から彼女が亡くなる59年まで毎年、年賀状が届いていたとの事実である。そもそも柴田の取材は、この祖父が下山事件に関与していたかもしれないと親類から聞かされたことから始まった。祖父の勤めていた亜細亜産業という会社は、GHQのキャノン中佐と深いかかわりを持ち、その下請け機関として数々の非合法工作に関与していたというのだ。先の女将からの年賀状も、亜細亜産業の下山事件への関与を示す証拠、ということになる。
代表者の名前をとって「矢板機関」とも呼ばれた亜細亜産業の存在がクローズアップされたのは、柴田の著書が初めてではない。その少し前、1999年に「週刊朝日」で連載されたドキュメンタリー映像作家の森達也らによるレポートで初めて、事件への矢板機関の関与が示唆された。その後、同連載に取材協力した社員記者の諸永裕司が『葬られた夏 追跡 下山事件』を、さらに森達也が『下山事件(シモヤマ・ケース)』を発表、いずれも連載の内容を発展させたものであり、そこで情報源として登場する「彼」こそ柴田であった。
3作はいずれも柴田(の親類)の発言が発端となって取材が始まっているだけに、もちろん内容的に重複する部分もあるが、構成や結論は三者三様なのが興味深い。『葬られた夏』ではアメリカでの取材成果も反映されている。他方、その取材・発表の過程では三者のあいだで対立も生じたようだ。これについては森の著書にくわしい。
■謀略論を否定した論者も
話は前後するが、松本清張の替え玉説に真っ向から反論した人物がいる。『下山事件全研究』(1976年)の佐藤一だ。
佐藤は、松本清張が根拠にあげた「旅館に吸殻が残っていなかった」との話について、旅館に滞在した男が下山を装う偽者だったとすれば、《その偽装を自然に見せるため、むしろ煙草のすいがらを残すほうが理にかなうのではないだろうか》と疑問を呈した。「吸殻についた唾液から下山と違う血液型が検出される懸念」についても、《パイプをつかうことによって無用となる。本物の総裁所持品リストのなかには、パイプがはいっていて平素使用していたと認められているのだから、この考えは事実から遊離した勝手なものでなく、逆に実際に即したものといえよう》と反証している。
佐藤は東芝松川工場の人員整理反対闘争に参加していた1949年8月、工場付近を通る東北本線で起こった列車転覆事件(松川事件)への関与を疑われ逮捕・拘留された経験を持つ。1963年に無罪確定後、学者や作家によって結成された下山事件研究会に参加。もともとは他殺説を支持していたのが、検証作業を進めるうちに疑念を抱くようになり、自殺説を主張するにいたった。やがて研究会を離れ独自に進められることになった佐藤の研究の集大成が『下山事件全研究』である。そこでは精緻な分析のもと、下山が謀殺されたとする根拠が一つひとつ斥けられている。
佐藤は2009年に87歳で亡くなるまで下山事件研究に一生を捧げた。遺著となった『「下山事件」謀略論の歴史』(2009年)では、前出の柴田哲孝『下山事件 最後の証言』をはじめ諸永裕司・森達也らの謀略論を、苛烈ともいえる筆致で批判している。
佐藤の各著書を読んでいて痛感したのは、歴史的事件というのは、その背景にあるものをさまざまな視点からとらえながら、あらためて位置づけなければならないということだ。彼のそうした姿勢はとりわけ、下山事件の検証においてあまり顧みられてこなかった、事件当時の国鉄労働組合および全逓信労働組合の人員整理反対闘争の実態に迫った『戦後史検証 一九四九年「謀略」の夏』(1993年)に顕著である。
下山事件の前後には、政策にもとづく人員整理に対し、国鉄内で反対闘争が起こったものの、けっきょく計画どおり10万人近い職員が削減され、闘争は沈静化していった。この闘争に際しての日本の反体制勢力の対応を、佐藤は次のように批判している。
《国鉄労働組合をはじめ日本の左翼、進歩的勢力が、それにどう対抗すればよかったのか、方針や闘争態勢の整備を具体的に検討したという話は一度として聞いたことがない。聞こえてくるのは、労働者や進歩勢力が強力な闘争を組織すると、権力の座にあるものは必ず謀略事件を仕組む、それが「日本の黒い霧」であり、「下山事件」であったという話だ。だから、表面的には勇ましくても、その裏ではたえず、そういう闘争は避けようと、優しくささやく声がある》(『戦後史検証 一九四九年「謀略」の夏』)
この一文からは謀略論の危うさも読み取れる。それは何も昔の労働運動や左翼運動にかぎらず、現在のあらゆる社会運動にも当てはまりそうだ。自分たちの方針や手法もろくに検討しないまま、為政者(にかぎらずアメリカでも現在の中国でもいいが)の力を過大に見積もって、必要以上に恐怖を煽ることは、かえって相手を利することになってしまうのではないか。下山事件から私たちが学ぶべき最大の教訓は、これに尽きるように思う。
(近藤正高)