東海道五十三次の約3割は特に見所もない「退屈道」。でも歩いた
杉江松恋と藤田香織という、ともに書評を中心に仕事をしている二人が、共著を出した。その名も『東海道でしょう!』。
かつて、自動車や鉄道などの交通機関がなかった時代。一般の人々は自分の足で歩くのが移動の基本だった。江戸から小田原へ。あるいは箱根へ、浜松へ。さらには桑名へ、草津へ。そして京都三条大橋へ。およそ500kmの道のりをすべて歩き通した。何日も何日もかけて。
この苦行を、交通網が発達したいまの時代に追体験してみよう! というのが「東海道五十三次ウォーク」だ。体力づくりやダイエットなど目的は様々ながら、けっこうなプレイ人口(という言い方でいいのかな?)がいて、そのためのノウハウを紹介したガイドブックやウェブサイトもたくさんある。
東海道を歩き通すと言っても、多忙な現代人が何日も仕事を休むことは難しい。だから1回のチャレンジで全行程を歩き通すわけではなく、休日を利用して1〜2日歩いては電車で帰宅し、また休みがとれたら電車で前回の終了地点まで行って、そこから続きを歩く。これを繰り返していくことで東海道を歩き尽くす、というのがいまのスタイルだ。
本書『東海道でしょう!』は、杉江松恋と藤田香織という運動不足には自信のある二人が、約1年半のあいだ17回に分けて東海道を歩き通し、その過程で見聞きし、身体で感じ取り、様々に思い巡らせた考えを書き記していった旅日記だ。二人が交互に書いているためでもあるが、400ページを越える読みごたえは、まさしく東海道を一歩ずつ進んでゆく道のりの長さでもある。
この企画、言い出しっぺは杉江(エキレビ仲間を呼び捨てで書くのもおかしな気分なので、ここからは敬称付きで行きます)杉江さんだ。藤田さんと一緒の仕事を終えた打ち上げの席で、編集者からの「お金と時間があったら何がしたい?」との問いに、杉江さんは学生時代に能登半島を一周した旅の楽しさを思い出し、「東海道を歩いてみたいですね」と答えた。これに編集者たちが食いつき、出版を前提とした企画として実行されることとなったのだ。
これに対して藤田さんは、お金と時間があったら「何もしたくない」。仕事も掃除も洗濯も料理もせず、あえて言うなら「だらだらしたい」と言い切る。だが、その場のノリで巻き込まれることになってしまった。つまり、同じ東海道ウォークに取り組むにしても、杉江さんと藤田さんとでは、モチベーションがまるで違う。そして、この二人の心構えの違いこそが、本書の最大の見所でもあるのだ。
十返舎一九『東海道中膝栗毛』を始めとして、東海道の各宿場町を舞台にした文学や映画、あるいは落語などを縦横無尽に引用して語る杉江さんの日記は、旅の楽しさを何倍にもふくらませてくれる。いずれ東海道ウォークをやってみたいと思っている者なら、知的好奇心を大いに刺激されることだろう。
一方、昔からとにかく歩くことが嫌いで、普段の移動はおもに電車かマイカー。飼い犬の散歩でさえも公園までは車で移動して、歩くのは園内だけという藤田さんは、初回から弱音の連続だ。道中の坂道を呪い、己の体力の無さに涙を流し、選択をしくじったウォーキンググッズの余計な出費を嘆く。しかし、この藤田さんの弱音芸こそが、杉江さんの文章といい対比になって、本書で描かれる東海道の旅を、いっそう立体的なものにしてくれる。
藤田さんはこう書いている。
「これから歩こうと考えている人の気持ちを削ぐようで申し訳ないが、東海道492kmの約3割は特に見所もない『退屈道』だ」
そりゃそうだよね。東海道そのものは観光地でもなければ、テーマパークでもない。でも、だからこそ旅した人によって見える景色は変わるし、旅日記のおもしろさも違ってくる。そして、ここがこの本のポイントでもあるのだけど、対照的な二人が書いた本だから、どちらの著者にシンパシーを抱いて読むかによって、本のおもしろさの質も変わってくるだろう。
自分は杉江さん3割、藤田さん7割で読んだよ。
(とみさわ昭仁)
かつて、自動車や鉄道などの交通機関がなかった時代。一般の人々は自分の足で歩くのが移動の基本だった。江戸から小田原へ。あるいは箱根へ、浜松へ。さらには桑名へ、草津へ。そして京都三条大橋へ。およそ500kmの道のりをすべて歩き通した。何日も何日もかけて。
東海道を歩き通すと言っても、多忙な現代人が何日も仕事を休むことは難しい。だから1回のチャレンジで全行程を歩き通すわけではなく、休日を利用して1〜2日歩いては電車で帰宅し、また休みがとれたら電車で前回の終了地点まで行って、そこから続きを歩く。これを繰り返していくことで東海道を歩き尽くす、というのがいまのスタイルだ。
本書『東海道でしょう!』は、杉江松恋と藤田香織という運動不足には自信のある二人が、約1年半のあいだ17回に分けて東海道を歩き通し、その過程で見聞きし、身体で感じ取り、様々に思い巡らせた考えを書き記していった旅日記だ。二人が交互に書いているためでもあるが、400ページを越える読みごたえは、まさしく東海道を一歩ずつ進んでゆく道のりの長さでもある。
この企画、言い出しっぺは杉江(エキレビ仲間を呼び捨てで書くのもおかしな気分なので、ここからは敬称付きで行きます)杉江さんだ。藤田さんと一緒の仕事を終えた打ち上げの席で、編集者からの「お金と時間があったら何がしたい?」との問いに、杉江さんは学生時代に能登半島を一周した旅の楽しさを思い出し、「東海道を歩いてみたいですね」と答えた。これに編集者たちが食いつき、出版を前提とした企画として実行されることとなったのだ。
これに対して藤田さんは、お金と時間があったら「何もしたくない」。仕事も掃除も洗濯も料理もせず、あえて言うなら「だらだらしたい」と言い切る。だが、その場のノリで巻き込まれることになってしまった。つまり、同じ東海道ウォークに取り組むにしても、杉江さんと藤田さんとでは、モチベーションがまるで違う。そして、この二人の心構えの違いこそが、本書の最大の見所でもあるのだ。
十返舎一九『東海道中膝栗毛』を始めとして、東海道の各宿場町を舞台にした文学や映画、あるいは落語などを縦横無尽に引用して語る杉江さんの日記は、旅の楽しさを何倍にもふくらませてくれる。いずれ東海道ウォークをやってみたいと思っている者なら、知的好奇心を大いに刺激されることだろう。
一方、昔からとにかく歩くことが嫌いで、普段の移動はおもに電車かマイカー。飼い犬の散歩でさえも公園までは車で移動して、歩くのは園内だけという藤田さんは、初回から弱音の連続だ。道中の坂道を呪い、己の体力の無さに涙を流し、選択をしくじったウォーキンググッズの余計な出費を嘆く。しかし、この藤田さんの弱音芸こそが、杉江さんの文章といい対比になって、本書で描かれる東海道の旅を、いっそう立体的なものにしてくれる。
藤田さんはこう書いている。
「これから歩こうと考えている人の気持ちを削ぐようで申し訳ないが、東海道492kmの約3割は特に見所もない『退屈道』だ」
そりゃそうだよね。東海道そのものは観光地でもなければ、テーマパークでもない。でも、だからこそ旅した人によって見える景色は変わるし、旅日記のおもしろさも違ってくる。そして、ここがこの本のポイントでもあるのだけど、対照的な二人が書いた本だから、どちらの著者にシンパシーを抱いて読むかによって、本のおもしろさの質も変わってくるだろう。
自分は杉江さん3割、藤田さん7割で読んだよ。
(とみさわ昭仁)