『バーナード嬢曰く。』施川 ユウキ/一迅社

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読んでもいない難しそうな本を持ち歩いて「オレは賢い」アピールしてる子はいねがー。
何かの本がベストセラーになると読んでもいないのに「ああ、村上春樹にしてはイマイチだね」とか、読んだふりをすることばかり巧くなっている子はいねがー。

そういう「賢い」お子さんたちにお薦めしたいのが、施川ユウキ『バーナード嬢曰く。』である。5月初めに施川の単行本が3冊同時発売された。すでにこのエキサイトレビューでも紹介されているが、終末SFっぽい設定なのにちっとも緊迫感がない『オンノジ』、グルメ漫画風なのにまったく食べものがうまそうに見えない『鬱ごはん』が秋田書店刊、そして本書が一迅社刊である。異例のことだ。『バーナード嬢曰く。』を一言で表すなら、あまり本を読んでいない少女が主人公の読書漫画、である。

本書の主人公・町田さわ子は、いかにして本を読まずして「自分は本読みであるか」を周囲にアピールするか、という非生産的なことばかりを考えている少女である。その無駄な努力ぶりと、彼女が交流を持つ図書館仲間の、本に対して各自が持っているそれぞれのこだわりを描き、作者は「本を読むのは賢い人の趣味」という幻想を相対化していく。「趣味:読書」と履歴書に書いたことがある人の琴線には触れまくるはずである。

ちなみにバーナード嬢というのは、町田さわ子が自称するあだなで、英国の作家バーナード・ショーから来ているらしい。表紙見返しの作者のことばを見ると本書は「当初、名言漫画だったはずが、いつの間にか浅い読書漫画に転向していた」ものなのだという。あー、だからさわ子は特に読書家のイメージもないバーナード・ショーを自称しているのか。

いくつかのマストアイテムについて失礼極まりない本音が書かれている。以下、ファンの人が激怒することを承知で書くよ(適宜句読点を補う。以下同)。

「『シャーロック・ホームズ』のDVDかなり繰り返し見たから、そろそろ原作も読んだことにしちゃっていいんじゃないかな…?」

「(三浦しをん『舟を編む』は)タイトルと装丁から結構難しい純文学的なフンイキの小説だと思ってたんだけど…超読みやすいライトなエンタメ作品だった……(中略)この本……読破したところで自慢できないよ!!!」

「宇宙生物が攻めてきたり世界の終わりがやってきた時に立ち尽くして聖書の一節をつぶやきたいんだけど使えそうなのが載ってない…」

怖くなってきたのでこのへんにしておく。
『バーナード嬢、曰く』の転回点は明らかに第3回(「3冊目」)だった。前回から登場したサブキャラクター、神林しおりがキーパーソンである。神林は熱心なSFファンで「ジャンル愛」のない人間がそのジャンルに関して決まり文句で批判をしたり、表面的なことで浮かれ騒いだりすることに苦い思いを抱いている。そしてそういう自分であるということに若干の恥じらいも感じているようなのだ。
だがその「3冊目」で、さわ子は禁断のセリフを口にしてしまう。

「SFって何?」

それがなぜSFファンにとっての禁断のセリフになるのかは、説明が長くなるのでここでは触れない。その質問を聞いたときの神林しおりの反応からだいたい察してやってもらいたい。

「それは例のアレか? SFはサイエンスフィクションじゃなくてスペキュレーティブ・フィクションの略だとか、いやいや「少し不思議」だとか。いやいや「少し不思議」だとか。じゃあガンダムはSFか否か的なアレがって、拡散と浸透がどうとか、ラノベがうんたらかんたら、SFマインドがあるとかないとか、結局センス・オブ・ワンダーだとかなんとか云々…(注:ここから活字サイズを4ポイントぐらい脳内で上げて読んでください)ウンザリだよ!! 町田さわ子! オマエはそーいうのとは無関係だと思ってたのに……ガッカリだ!!!」

たぶんこのセリフを読んだ人の9割が今町田さわ子と同じで「さっぱりわかんないけどごめんなさい!」と涙目で思ったはずだ。そう、「さっぱりわかんないけど」無用意に外部の人間から踏み込まれることを嫌う領域というものがどんなジャンルにもある。SFだけに限らない。ミステリーファンにとっての「本格って何?」なども同じ意味を持つ言葉だ。
この「SFって何?」のエピソードを書いたことによって『バーナード嬢、曰く』は「賢いふりをするために名言を本から借用する漫画」から、完全に「読書漫画」に変化したのである。まったく新しい要素が追加されたからだ。

当初の『バーナード嬢曰く。』は、「本の名言を口にすることによって他人の目を引き自己承認欲求を満足させたい」(これ、今思ったけど、話題のパクツイとかに近いよね)かなり痛い主人公を描くことに主眼があった。そこに加わったのが、「本を読むことで自己実現なんか本当にできるの?」という「王様は裸だ」式の身も蓋もない疑問呈示である。そうして一歩を踏み出すことによって「6冊目」の神のようなエピソードは生まれたのである。

グレッグ・イーガンというSF作家がいる。ハードSF、すなわち物理学などの科学知識に立脚した着想を、いささかも妥協することなく開陳しながら物語化するという、重厚な作風を得意とする作家である。その作家の本を神林さおりに借りて読んだ町田さわ子だが、まったく理解できない個所ばかりであるということに絶望し、「バカだったんだ! 私バカだったんだね!」と号泣する。だが、神林しおりは彼女にこう告げるのである。

「グレッグ・イーガン、現代を代表するハードSF作家、SF好きなら誰もが彼の作品を読んでると思って間違いはない。しかし……しかしだ。実は私も結構な部分、よくわからないで読んでいる。私だけじゃない…みんな実は、結構よくわからないままに読んでいる…(注:はい、ここだけ4ポイント上げて)……に決まっている!」

さらに神林さおりは「イーガン自身結構よくわからないまま書いている」という仮説を開陳し、それをイーガン風のよくわからない重厚な文章で説明しようとする。この展開でもう私はゲラゲラ笑ってしまったのだが、最後に神林さおりの独白という形でこんな箴言が置かれていて、思わず居ずまいを正してしまった。

ーーハードSFを読む上で求められるリテラシーとは、「難しい概念を理解できる知識を持っているか」ではない。「よくわからないままでも、物語の本質を損なわずに作品全体を理解するコトが可能な教養のラインを感覚で見極められるかどうか」……だ。

ああっ、どうだろうこの言葉の切れ味。この説得力。この一文が『バーナード嬢曰く。』を他の読書エッセイ漫画とは別格の存在にする。本書以外にも、SFに限らずさまざまなジャンルの「本好きの人たちの奇妙な習性や気質」をネタにし、半ば自嘲気味に笑う作品というものは存在した。しかしそれは、はっきり言ってしまえば内輪受けということである。
「俺たち変だよねー」という指摘は内輪の人間だからこそ可能であり、周囲から許される。その内輪にいる人間の数がある程度多ければ、商業出版が可能になるほどの需要もあるだろう。需要があって本が出て、内輪の人に受ければそれはそれでなんの問題もない。しかしその盛り上がりは外部の人間には理解不能なものだ。それはそれでいいじゃん? もちろん。需要と供給の関係が満足されるのだから、外野がどうこう言う問題ではない。

だが、『バーナード嬢曰く。』の作者は、そうした関係だけで充足することを選ばす、「外へ」出てしまった。
たまたまグレッグ・イーガン作品を題材にした話なのでSFファンにだけ当てはまる話をしているように聞こえると思うが、どうか気を悪くしないでもらいたい。先のエピソードの「グレッグ・イーガン」のところにはどんな固有名詞でも代入可能だ。「ドストエフスキー」? いいじゃないか、いいじゃないか。「埴谷雄嵩」? おー、いい名前持ってくるねえ。「後期クイーン問題」? ほう、そんなのもあるのか。
要するになんでもいい。ぱっと聞いて難しそうだな、と感じる名前だったら。そのいずれの場合においても、先述の神林しおりの独白は妥当性を持つのである。
読書という行為を題材としてこれほどの普遍性を獲得する作品が他にあっただろうか。

本を読むという行為の中には対象を理解したいという気持ちが動機として含まれる。しかしそれがすべてではないだろう。文章を読むということ自体が楽しく、その中に没頭する快感というものだってある。エステでマッサージを受けるような感覚で、言葉の奔流に身をゆだねたって別にいいわけだ。

わかりたいのにわからない。
わからないものはダメだ。
わからないものはつまらない。
つまらないものばかりだから楽しくない。

そういう「わかりたい病」へのアンチテーゼをこの作者は書いてしまった。しかも単に「わからない」ことを甘やかすのではなく「物語の本質を損なわずに作品全体を理解するコトが可能な教養のラインを感覚で見極められるか」が重要なのであるという明白な必要条件まで提示して。すごい。ここまで「わからない」ことの意味を自分はつきつめられるだろうか。

『失われた時を求めて』とか『死霊』とかを持ち歩いていまだに「賢いアピール」をしている諸君(いれば)に教えてさしあげたい。2013年6月現在、もっとも読んでいて尊敬される作品は施川ユウキ『バーナード嬢曰く。』であると。

ああっ、最後の最後で賢いアピールをしてしまった。
(杉江松恋)