チュニジアワインと言っても千差万別。飲み比べてみるのも楽しい。

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チュニジアワインの道に足を踏み入れると、まず出会う古代都市カルタゴの農学者がいる。その名をマゴ。チュニジア国内ではワインの代表銘柄「Magon」としても有名だ。禁酒の教えがあるイスラム教国のチュニジアだが、同国におけるワインの歴史は、それよりも長い。しかし、現在までの道のりは波瀾万丈だったという。現地で聞いてきた。

同国ワインの歴史はギリシア人とフェニキア人とともに始まった。その当時、ワインは地中海貿易を通してもたらされ、今日ワイン産地として有名なイタリア、フランス、スペインなどへ渡ったという。当時、地中海貿易を中心に栄華を誇ったフェニキア人のカルタゴだが、紀元前149年にはじまった第3次ポエニ戦争で古代ローマに滅ぼされてしまう。その際にローマ軍は、前述したマゴの農書28冊を持ち帰ったという。その中にはブドウの栽培方法なども書かれていた。

ヨーロッパにおける初期のブドウ畑は北アフリカの他に南スペイン、南仏プロヴァンス、イタリア・シチリア島、イタリア本土、黒海周辺で、広範にワイン醸造はおこなわれていった。そして、現在のイタリア半島中部トスカーナや、さらに北へと彼らのやり方が伝わったのだ。当時、古代ローマでは多くのワインに関する書物があり、詩人ウェルギリウスもワインについて著している。

しかし、610年現在のサウジアラビア・メッカで興ったイスラム教が急速に勢力を増してくる。布教を名目に力を増していったウマイヤ朝は、エジプトなど北アフリカへも進出。695年にはカルタゴを攻略し、701年にはチュニジアの地を完全に制圧した。このようなイスラム教による支配もあって、次にチュニジアワインが日の目を見るのは、はるか1881年に同国がフランス保護領下に置かれるまで待たねばならない。

19世紀、チュニジアにフランス文化が流入するとともに、元来ブドウ栽培に適した同国の土地に、ワイン文化は再び少しずつ花開いていく。特に、19世紀から20世紀にかけて、ブドウの病気であるフィロキセラがフランスを襲った際は、多くのチュニジアワインがフランスへ輸出されたそうだ。

一方でフィロキセラは1936年から1947年にかけて、同国ブドウ畑の8割が集まっていたボン岬半島も襲った。その危機に際し、ワイン醸造者は協力して同国ワインの向上とAOC(原産地統制名称)のアウトラインを描いた。そして1948年に立ち上げられたのがUCCV(Union Centrale des Cooperatives Viticoles de Tunisie:チュニジアワイン醸造中央連盟)であり、現在へと続く同国ワイン産業の一翼を担っているのだ。
(加藤亨延)