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戦後最大の冤罪事件「袴田事件」。見込み捜査と捏造証拠により袴田巌さんは死刑判決を受け、60年近く雪冤の闘いが繰り広げられてきました。88歳の元死刑囚と袴田さんを支え続けた91歳の姉、「耐えがたいほど正義に反する」現実に立ち向かってきた人々の悲願がようやく実現――。ジャーナリスト粟野仁雄氏、渾身のルポルタージュ『袴田巖と世界一の姉:冤罪・袴田事件をめぐる人びとの願い』から一部を抜粋して紹介します。

【写真】袴田巌さんと姉のひで子さん。釈放後、初めての記者会見にて

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ひで子さんが語る戦前・戦中の袴田家

2022年4月16日、袴田ひで子さんは浜松市復興記念会館で行われた「袴田事件がわかる会」(袴田さん支援クラブ主催)で弟の直近の様子について、「巖は4月から少し変わりました。『東大を首席で出た』って言うんですよ。

それで学校巡りしているんです。今まで乗らなかった方の車にも平気で乗ったりする。聞き分けがよくなりました。それまでは私の言うことなんか聞かなかった。

でも最近は『誰々が(マンションの)下で待っているよ』と言うと、『あっ、そう』と降りていって素直に車に乗るんです。ものすごく変わってね。

元に戻ることもありますが、いい傾向です。完全に治ることはなくてもこのくらいでいいかと思っています。

再審もいい方向へ行っていると思います。私も100歳くらいまでは大丈夫だと思います。頑張りますのでよろしく」と朗らかに語った。

「大学に席がある」などと言い出した巖さん。ひょっとすると、自分がとんでもない冤罪に巻き込まれたのは、大学などで受けられる教養が足りなかったからだと思うようになったのだろうか?

コロナ感染を心配する周囲の助言で、集会などへの出席も控えていたひで子さんが大勢の前に登場するのは久しぶり。

この日の講師役で、東京拘置所で巖さんを見守っていた元刑務官で作家の坂本敏夫氏は「出会った時、無実だと感じました」などと語っていた。

坂本氏がひで子さん宅を訪ねた時、巖さんは血相を変えて逃げた。絞首台に連れていかれると思ったのか。

浜名湖の自然に育つ

ここで袴田ひで子さん・巖さん姉弟の生い立ちを記す。

ひで子さんは1933(昭和8)年2月、巖さんは1936(昭和11)年3月、浜名湖のほとりの雄踏(ゆうとう)で、木材会社に勤める父・庄市さん、母・ともさんの間に生まれた。ひで子さんは6人兄弟の5番目の三女、巖さんは三男で末っ子だ。

ひで子さんは朝日が昇る頃に生まれたことから、庄市さんは「縁起がいい」と喜び、戸籍は「日が出る」の意味から「ひで子」として届けられている。


『袴田巖と世界一の姉:冤罪・袴田事件をめぐる人びとの願い』(著:粟野仁雄/花伝社)

ひで子さんは学校へ通う頃から、子役から後に『二十四の瞳』などに主演した大女優・高峰秀子の愛称と同じ「デコちゃん」と呼ばれていた。

母からは頼られ、バスで行く遠方の買い物なども頼まれた。子供たちの遊びに入っていけない内気な級友の手を取って引っ張ってきて参加させる、子供の頃から「姉御肌」だった。

末の2人は仲が良く、ひで子さんは弟に学校の勉強を教えてやったりした。幼い巖さんは、どこへ行くにも「頼れる姉」にくっついて遊んだ。

休みの日は一家で浜名湖に繰り出し、船大工の腕もある庄市さんが作った木の小舟を湖面に浮かべた。「兄たちが沖で魚を釣り、私と巖はアサリを獲ったりした。ボラなんかがおいしかった」とひで子さん。

兄たちから学び、泳力を身につけた小学生の巌さん

自給自足ができ、貧乏だったが栄養不足にはならなかった。夏休みには浜名湖で遠泳をやった。小学生になった巖さんは、兄の茂治さんや實さんに必死についていき、泳力も身に付ける。

浜松市は「フジヤマのトビウオ」古橋廣之進(1928〜2008)の故郷。ひで子さんや巖さんが通った雄踏小学校の出身で、浜名湖の遠泳で鍛えた古橋は中学校から卓越した泳力で有名になる。

戦時色が強まり学徒動員され砲弾工場で作業中、手の指を切断するが、戦後、日本大学に進学し競技に復帰すると破格の活躍を見せる。

1948(昭和23)年のロサンゼルス五輪に日本は参加できなかったが、同時に開催された日本選手権で古橋は、400、800、1500メートルの3種目で、金メダリストを上回る世界記録を打ち立てた。

全米選手権にも参加し、米国選手を破って次々と世界記録を残し、米国の新聞が「フジヤマのトビウオ」と命名した。体格に勝る米国選手に勝つ勇姿は、敗戦に沈む日本人を勇気づけた。

ひで子さんは「古橋さんは長兄の茂治と雄踏小学校の同級生でした。まだ有名になる前、学校に来たのを見ましたよ」と振り返る。

幼い頃のひで子さんと「弟の思い出」

ひで子さんが幼い弟のことでよく覚えているのは、1941(昭和16)年に雄踏幼稚園で開かれた学芸会だ。「とうちゃんだい」というタイトルで、園児が父親の格好をして踊るという出し物で、幼い巖さんが抜擢されて舞台に立った。

大人の服装にぶかぶかの革靴を履き、ステッキを持って舞台を歩き回った。その滑稽で真剣な姿が可愛らしく、家族や父兄たちは大笑いになった。

「あの時の巖は本当に可愛かったね」と、筆者の取材中もひで子さんは奥の部屋でテレビを見る巖さんを見やりながら目を細めるのだ。

しかし、その年の12月8日、帝国海軍はハワイ真珠湾の米艦隊を急襲、日本は一挙に戦時体制に突入する。

勉強もスポーツも万能でクラスメイトから一目置かれたひで子さんは、よく学級委員長に選ばれていた。

ある時、浜松の甥が来てひで子さんが子供時代の通信簿や役所の辞令など持ってきた。通知表は「オール優」だ。ひで子さんは今も小学校時代の通知表を持っている。「母が自慢したくて取っていたみたい」と打ち明けた。

負けん気も強かった。「何かやられたら黙っちゃいない。6年生のクラス替えの直後、隣の女の子が授業中につねってきたので、その子がやめるまでつねり返しましたよ。

私はそんな性格でしたが、上の兄の實がものすごくおとなしいもので、周囲からはよく『實兄さんとデコちゃんの性格が逆ならよかったのに』なんて言われていましたよ」と笑う。

家族愛に包まれ、すくすくと育つ姉と弟。しかし、戦局は悪化する。

空襲と大地震

陸軍浜松飛行場や中島飛行機などの軍需工場もあった浜松市は、1944(昭和19)年11月の空襲を皮切りに、1945(昭和20)年2月から7月までに6回にわたる激しい攻撃を受け、終戦までに、当時人口17万人弱の浜松市で約4000人近くが落命している。

米国の爆撃機B―29はもちろん、最後の7月の攻撃では沖合の米英艦隊からの艦砲射撃を受けた。

最初の空襲で「工場や海に近い家は危険」と感じた袴田一家は、母親の実家のあった浜北町(現・浜松市浜名区)の中瀬にある親類宅に身を寄せた。

「狭い家に大勢で転がり込んだものだから先方も大変。私たちは遠慮がちに小さくなっていましたよ」次第に食糧も不足する。

「疎開後は雄踏のように貝や魚も獲れないし、米の配給も少ない。おなかがすいたらカボチャかサツマイモしかなかった。そのせいで私は今もカボチャとサツマイモだけは食べる気しないんですよ」と振り返る。

一家での「居候同居」は狭すぎた。兄の茂治さんと實さんは残ったが、両親とひで子さん、巖さん、二女の5人は、父の弟の家があった浜名郡赤佐村 (現・浜松市浜名区於呂)に長屋の一角を借りて移った。

さらに同年12月7日の昼過ぎに「昭和東南海地震」が起きた。紀伊半島東部の熊野灘を震源とし三重県の津市や四日市市などで震度6、名古屋市や浜松市などは震度5だった。津波も発生し1223人が死亡したとされる。

だが、多くの軍事施設が壊滅的被害になったことを米国に察知されないため、市民は口外を厳重に禁じられた。

頻発する空襲で防空壕生活になる。しかし、体を動かすことが大好きな少女ひで子さんは、狭い防空壕が嫌でたまらない。ある時、母の制止を振り切って自宅に戻って1人で寝ていた。

「朝になると箪笥に囲まれていたんですよ。寝ている間に母がタンスを移動させて、地震で屋根が落ちてきても大丈夫なようにしてくれていたんですね」

※本稿は、『袴田巖と世界一の姉:冤罪・袴田事件をめぐる人びとの願い』(花伝社)の一部を再編集したものです。