日本選手のアマチュア意識に…来日スター訴え「ダメだ」 激しい口調で伝えた“プロとは何か”【コラム】
神様ジーコが縁もゆかりもない日本へ…J開幕前に示した世界の当たり前
1991年5月20日、世界のサッカー界にその名をとどろかすジーコが日本にやってきた。
当時、日本サッカーリーグ2部に属する住友金属工業蹴球団(鹿島アントラーズの前身)と契約するためだった。すでに現役から退き、母国ブラジルのスポーツ庁長官を務めていたが、再びピッチに立ち、新たな挑戦に身を置くことを決意した。
ジーコにとって特段、縁もゆかりもない日本。だが、日本サッカー界初のプロリーグであるJリーグの創設に魅力を感じ、そして何より初年度の参入10チームに選ばれていた住友金属工業が周辺自治体とともに推し進める壮大なプロジェクト「サッカーを通じた街おこし」にいたく感銘したからだった。
世界の第一線で培ってきた知識と経験をJリーグの発展のために、アマチュアからプロに移行するチームの強化のために、一選手としてだけではなく、さまざまな面から貢献できるのではないか。ジーコはそう考え、住友属工業との契約書にサインしたと、のちに語っている。
1993年のJリーグ開幕まで、あと2年というタイミングでのビッグニュース。日本国内はもとより、海外のサッカーファンもまた驚きをもって迎えたに違いない。
「本当に、ジーコが来るとは思わなかった」
実際に世界のスーパースターを前にした時、住友金属工業の鈴木満監督(当時)をはじめ、コーチ陣や選手たちは一様に目を白黒させていたと聞く。だが、そんな嬉しい驚きも束の間、Jリーグ開幕に向けてチームを強くしたい、いや、強くしなければいけないと考えていたジーコの本気度を目の当たりにする。ピッチの中はもちろん、ピッチ外の隅々に至るまで、どんなに些細な点でも気がついたことがあれば、すぐさま改善を求めた。
ジーコの加入以来、ともにチーム強化に努めてきた鈴木監督(現・フットボールアドバイザー)は、当時をこう回想する。
「世界的な名選手であり、華々しい実績もある。自己主張が確かに強く、“こうしないとダメなんだ”と激しい口調で言ってくることもありました。ただ、チームを成長させたいという思いがすごく伝わってきたし、理不尽なことを求めていたわけではない。言い方がきついというか(苦笑)、直接的にバシッとくるので、怯んでしまう時もあったけれど、その内容は的を射ていることばかり。チームの置かれた状況やこちらの考えもよく聞いて理解してくれましたし、すぐに改善できること、できないことを分けながら、ジーコの意見を取り入れていこうと思っていました」
選手それぞれが思い思いのウェア着用…一体感作りを訴えたジーコ
例えば、その1つがトレーニングウェアの統一だった。
「当時は、選手それぞれが思い思いのウェアで、練習していました。(移籍してきた選手などは)以前のチームの古いモデルのユニフォームを着ていたりして(苦笑)、まったくバラバラだったのです。そういう状況を目にしたジーコから“プロになっていこうというチームなのだから、みんなが同じウェアを着て練習しよう。そういうところから一体感を作っていこう”と提案されました。正直、チームの予算はそれほど多かったわけではないのですが、赤と白と青のトレーニングウェアを各1着ずつ買い、選手たちに渡して、みんなが同じ色のウェアを日替わりで練習できるようにしました」
住友金属工業は日本サッカーリーグの1部に属していた時代もあったが、主戦場は2部。そのような企業チームを取り巻く環境や予算規模は推して知るべしだろう。バラバラのトレーニングウェアで練習するのが当たり前。そこに何ら疑問を挟む余地はなかった。
だが、世界のトップレベルで戦ってきたジーコの視点は違った。日本の当たり前と世界の当たり前。このギャップを少しでも埋めるべく、ことあるごとに提案し、チーム改革に乗り出していく。
アマチュアからプロへ、住友金属工業から鹿島アントラーズに変わっていく、まさにJリーグ夜明け前。こうしたエピソードから、試行錯誤していたであろう日々の一端に触れることができるのではないか。(小室 功 / Isao Komuro)