「氷河期世代の半数近くは保有資産500万円以下」現代日本のツケを背負わされた世代を待ち受ける"究極の選択"
■「氷河期世代は賃上げも鈍い」の衝撃
日本経済新聞「氷河期世代、昇進遅く賃上げ鈍く 老後は社会保障に懸念」(2024年7月27日)より引用
バブル崩壊後の1990年代後半から2000年代にかけて社会に出た、いわゆる「就職氷河期世代」が、ここ最近の業界各社で行われている賃上げラッシュの恩恵からも外れてしまっているという残念な統計データが日経新聞の記事で示され、すぐさま内外からどよめきの声があがっていた。
言葉では言い表せないほど残念な報せではある。だがそもそも論として、近ごろ世間で拡大している賃上げの流れは優秀な人材の獲得および他社への流出防止の策としての性質が強いため、その恩恵を得るのはどうしたって若手層(20〜30代)に偏ってしまうこともまた事実だ。
令和の時代には先頭がいよいよ50代に差し掛かる氷河期世代は、いくら世の情勢が売り手市場に沸いているとはいえ、年齢的には労働市場でそこまで高い需要があるわけではない。会社側にはこの世代の流出を心配して賃上げを行うインセンティブがそこまで高いわけではない。またこの世代は管理職の割合も多いわけではないので、役職ごとの給与テーブルの抜本的な上方修正(いわゆるベースアップ)の恩恵にもあまりあずかれていない。
■半数近くは保有資産500万円以下
氷河期世代が昇給から取り残されている現状は、かれらにとって資産形成の点でも不利に働いており、冒頭の記事によれば氷河期世代は半数近くが保有金融資産500万円以下となっている。まさに踏んだり蹴ったりというか、現代日本のツケを一身に背負わされた悲劇の世代と言っても過言ではないだろう。
「いやいや、氷河期世代ばかりではなく、リーマンショック氷河期世代も負けず劣らず大変な目に遭ったじゃないか」――という意見は一理ある。しかしながらリーマンショック世代は数年後に短期間ながら発生した転職バブルの際にそれなりの数の人が動き、好待遇な企業に転職することができた。もっとも、その転職が可能だったのもリーマンショック氷河期世代にとって初代氷河期世代が「他山の石」となってくれていたからだ。リーマンショック世代は就職難だからといって安易にフリーターになったりせず、「とりあえずなんでもいいから正社員にしがみついて嵐をやり過ごす」という方法を選び、それが功を奏した形となった。
■「買う側」としてはちゃっかりアテにされている
政治的・社会的・経済的には見棄てられているといっても過言ではない氷河期世代だが、しかしかれらは日本にとって「最後の人口マス層」という特性がある。
アニメやゲームの「リメイク(リブート)」作品が近ごろのコンテンツ産業では活発に発表されているが、そのほとんどは氷河期世代の多感な少年時代を彩った作品ばかりである。かれらは社会に出た直後を挫かれて見放され、その後のライフプランを大きく狂わされながらも、しかし人口ボリュームの大きさゆえの「マーケット」としてはちゃっかりアテにされており、当人たちが多感な時期に流行した思い出の作品の復刻版を令和の時代にも擦られつづけている。
かれらより下の世代は少子化が著しく、またインターネットやSNSの発達にともないコンテンツも多様化の一途をたどっており、「その時代を代表する作品」が生まれにくくもなってしまったため、氷河期世代向けのリメイク作品ほど「マーケット」が大きくなく、採算性が見込めないのもある。
■団塊世代が去った後は、氷河期世代の影響力が増大する
色々な意味で不遇な扱いを受けつづけてきたかれらだが、しかしながら先述したような人口ボリュームの大きさによって、今後の日本の未来の行く末を占う重要な役割を持つようになる。
いまそのほとんどが後期高齢者となった団塊世代はあと十数年もするとその大部分が世を去り(世を去らないで長生きしている人も投票行動は大幅に縮小していき)、氷河期世代の民主主義における発言権や影響力は相対的に急激に上昇することになるからだ。
豊富な金融資産をたくわえた高齢世代の遺産は、いきなり氷河期世代に継承されるよりも前に、バブル世代へとワンクッション継承されるが、そのあとは氷河期世代にもそのバトンが巡ってくる(もちろん相続税などが発生するため取り分は世代を継承するごとに小さくなってしまうだろうが)。自分たち後進世代を好き放題に「搾取」するスキームをつくってきた先輩世代が世を去り、その搾取スキームだけが残されることになる。
■「搾取」する側に回るのか、「搾取」の連鎖を止めるのか
氷河期世代はそこで大きな選択を迫られる。
今度はそれを使って自分たちがそのスキームを使い「美味しい思い」をする番にありつくのか、あるいは自分たちの世代を苦しめてきた「搾取」の連鎖をここで断ち切り、自分たちだけが痛みを引き受ける形で次世代の“取り分”を残すのか、その選択だ。
「自分たちはひどい目に遭ってきた分、今度は自分たちがその論理でやり返してやる」――という理屈はわからないではないが、しかしその論理の矛先がゆとり世代やZ世代、あるいはいまだ生まれていない将来世代に向けられてしまうのでは筋が通らない。後進世代は氷河期世代を搾取したわけでも迫害したわけでもないからだ。
氷河期世代は2040年代には立派な高齢者層になるが、そのときかれらが、現在と同じクオリティの社会保障や社会福祉の享受を強引に求めれば――人口ボリュームによる発言権の大きさを鑑みれば政治的には理屈のうえでは可能なのだが――若い世代にはすさまじいリソース負担を強いることになる。
自分たちがされてきた「搾取」の論理を、後進の世代にも継承するかどうか。その究極の選択が氷河期世にはまもなく迫られる。
■「永遠の少年期」に閉じ込められた世代
氷河期世代が「搾取」の連鎖を終わらせる方向、つまりバブル世代以上ではなく将来世代の味方に付いてくれることを個人的には期待しているが、しかしかれらがそうしない可能性が高いとも感じている。
かれらは結婚せず家庭を持っていない人も多く「自分の子どもや孫、あるいはその子孫たちの代まで、この国や社会が安寧に続きますように」という価値観に共感しづらいからだ。かれらのなかに多く含まれる(生涯)独身者は、未来の日本に生きる世代のためを思って政治的意思決定をするメリットがない。「自分が死んだあと」にもずっと尾を引くであろう諸問題に対して、自分が割を食う形で解決の筋道をつなげたいというコンセプトをそもそも抱けない。
断っておくが、責めているわけではない。かれらは世代を継承する「大人」として歴史的連続性のなかに身をゆだねるチャンスを奪われてしまい、いうなれば「永遠の少年期」に閉じ込められてしまっていたのだ。
かれらの少年時代を彩ったコンテンツのリメイク・リブートがいつまでも繰り返されるのもそうだ。いつまでも社会から「少年」のように扱われていることの裏返しだ。かれらが歴史的連続性からはじき出され、自分の人生(≒金銭的・時間的リソースの総和)を「自分だけのもの」として消費しながら生きている・生きざるをえないことを、社会の側が見透かしているから、とりあえず「マーケット」としてだけはアテにしているのである。
■「自分が死んだ後の未来なんて、どうでもいい」
いずれにしても「自分で得たものは、自分ひとりで使い切る」という社会観から、「子どもや孫のために自分が得たものを与え、継承していく」という社会観への移行ができるようなライフイベントを氷河期世代に適切に提供してこなかったこと――それがいわば遅効性の毒あるいは時限爆弾のように、日本社会に大きな禍根を残すことになる。
氷河期世代からすれば「次世代のことを考えて政治的な意思決定をしてくれ」と頼まれても、「なんで自分が死んだあとの、自分とは縁もゆかりもない連中のことを考えないといけないんだ?」と考えてしまう人も少なくはないだろう。繰り返しになるが私はそれを責める気にはならない。そういう考えを持つ以外のライフコースを用意できなかった社会にも相応の責任があるからだ。
大げさな表現をすれば氷河期世代は、これまで自分を虐げてきた日本社会に対する復讐のスイッチを手にしている。これを押さずに捨てることもできるし、押すこともできる。
2040年ごろには、かれらを「ロスト・ジェネレーション」にしてきた世代も完全に世を去っている。
そのときには、否応なく選択が迫られる。
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御田寺 圭(みたてら・けい)
文筆家・ラジオパーソナリティー
会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「SYNODOS(シノドス)」などに寄稿。「note」での連載をまとめた初の著作『矛盾社会序説』(イースト・プレス)を2018年11月に刊行。近著に『ただしさに殺されないために』(大和書房)。「白饅頭note」はこちら。
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(文筆家・ラジオパーソナリティー 御田寺 圭)