Netflix映画『レベル・リッジ』

写真拡大

 9月6日にNetflixで配信され、世界各国で連日「今日の映画TOP10」入りを果たしているオリジナル映画『レベル・リッジ』は鬼のように渋い作品だ。痺れるほどに。

参考:『誰もいない森の奥で木は音もなく倒れる』の“強いテーマ”を解説 鎮魂歌としての役割も

 本作のあらすじはこうだ。ルイジアナ州にある小さな田舎町シェルビー・スプリングスの警官は従兄弟の保釈に来たという男から不当に金を押収する。その男が元海兵隊員とは知らずに……。こう書くと、『ランボー』(1982年)を下敷きにした一種の再生産的ジャンル映画のように思える。しかし実際に見始めてみると、『レベル・リッジ』はジャンル映画に留まらない(無論ジャンル映画の娯楽性を含みながら)独自の鋭さをもった作品であることがわかる。

 まず、本作の監督・脚本を務めたのがジェレミー・ソルニエであることに注目したい。彼の代表作である『ブルー・リベンジ』(2013年)は路上生活者のドワイトの終わりのない復讐と、その暴力の空虚な痛ましさを描いた傑作スリラーだ。淡々とした演出ながら痛烈に心揺さぶられる瞬間があり、その独特な作風から『レベル・リッジ』もまた一筋縄ではない作品なのは明らかだった。

 本作は自転車を走らせるテリー・リッチモンド(アーロン・ピエール)がパトカーに背後から追突されるところから始まる。警官はテリーに対する嫌疑を信号無視の交通違反から麻薬の違法所持にまで発展させ、テリーの従弟を保釈するために用意した金を麻薬密売の疑いがあるものとして押収する。

 静かに、淡々と、リズミカルとすら言えるテンポで構造的差別とシステム化された腐敗が描かれており、同時に警察の横暴に対しあくまで冷静に対処しようとする主人公の姿と、心の奥底に流れる濁流のような怒りが劇的な緊張感を生み出している。

 テリーはその後、あくまで正規の手続きで保釈金を支払おうとし、その過程で弁護士志望のサマー(アナソフィア・ロブ)の協力をとりつける(彼女もまたシステムに排除された存在だ)。しかし、テリーの奮闘も空しく警察の陰湿な妨害によって従弟のマイク(C・J・ルブラン)は州刑務所へ移送されてしまう。マイクはギャングによる殺人事件の裁判で証人になった過去があり、このまま移送されれば州刑務所にいるギャングから報復される可能性がある。あらゆる手を尽くしたが、保釈は失敗に終わった。テリーはついに行動(アクション)に出る。

 本作で最高の瞬間のひとつは、テリーがただの海兵隊員ではなく、また、不正に泣き寝入りする男でもない……MCMAPの元教官であることがわかるシーンだろう。MCMAPはMarine Corps Martial Arts Program(海兵隊マーシャル・アーツ・プログラム)の略であり、テリーは素手での戦闘のスペシャリストなのだ。このシーンは『バーフバリ 王の凱旋』(2017年)で愚鈍な青年シヴドゥの服を松明で叩くとマヒシュマティ王国の次期国王アマレンドラ・バーフバリの鎧が出てくるような興奮(つまり、ジャンル映画における真名判明シーンのような興奮)に満ちているだけでなく、本作が重武装化する警察に主人公が素手と非殺傷武器のみで立ち向かう映画であることを明確にする。

 腐敗したシステムと警察の残虐行為に対し、徹底した不殺で対抗する姿は全く新しい興奮に満ちている。筆者はアクション映画は死者数が多ければ多いほどいいと思っている口だが、『レベル・リッジ』に関しては「自分はいままでずっと非殺傷武器と徒手空拳だけで腐敗に立ち向かうサスペンス映画が見たかったんだ!」と思わされた。自分の中にある未知の願望を照射される、今までにない体験である。

 記憶が正しければ10年代近辺は不殺主人公が嫌われていたように思えるが、その嫌悪感の本質は不殺それ自体ではなく優柔不断なことにある。一方『レベル・リッジ』の主人公はいざという時に不殺の暴力を行使することに一切の迷いはなく、武装化した権力に無手で立ち向かうその姿はMCMAPの信条「One mind, Any Weapon(精神が最強の武器)」を体現している。

 そして絶対に言及しなければならないのは、そんなテリー・リッチモンド役を務めたアーロン・ピエールの存在感だ。バリー・ジェンキンスに見いだされ、本作でジェレミー・ソルニエに抜擢され初の実写主演映画を務めたアーロン・ピエールは、決してスター俳優ではない。現時点では。少なくとも5年以内、アーロン・ピエールは世界で知らない人がいない俳優になると思う。

 アーロン・ピエールはテリー・リッチモンドという深い怒りと哀しみを抱え、時に苦悩し、それでいてなお常に理性的で決断的な男をとても巧みに表現している。彼の枯草色の瞳はその奥底に繊細な感情があることを想起させ、とても魅力的に映る。……そういう言葉を抜きにしても、アーロン・ピエールは見るからにカッコいい。ルイジアナ州の大地に直立するその立ち姿はまるで岩に打ち付けられた鉄杭のようであり、どう見てもただ者ではない存在感がある。

 本作は元々ジョン・ボイエガが主演する予定だったそうだがある事情で降板し、後にアーロン・ピエールが起用された。仮にジョン・ボイエガが主演を務めたとしても『レベル・リッジ』は素晴らしい作品になっただろうが、それでもアーロン・ピエールがこの作品で独自の存在感を発揮し、『レベル・リッジ』をより素晴らしい高みに押し上げたことは疑いようがない。少なくとも、これからアーロン・ピエールが主演を務めるアクション映画を見たくなるのは間違いない。仮にアーロン・ピエールがこのまま鳴かず飛ばずで終わったとしても(既にバリー・ジェンキンス監督『ライオンキング:ムファサ』で主演を務めることが確定しているが)それはハリウッドに欠陥があることの証明にしかならないだろう。

 本作は「警官と黒人」のシンプルな対立ではなく、問題の本質は常に物語の外側にある。それでもなお不正に対抗し、己の筋を通す主人公の姿が熱い。そしてテリーの行動の果てにシステム化と略号によって省略されがちな人間性が光る。

  『レベル・リッジ』は控え目な演出なれど、静かな興奮と痺れるような瞬間がある。また、悪党の頭をふっ飛ばさなくても、観客の血を沸き立たせることができると証明して見せた(開放骨折はあるが)。イリヤ・ナイシュラー監督のジャンル映画『Mr.ノーバディ』(2021年)が主人公から正義感と正当性を排してアクションの娯楽性の本質は暴力であると提示したように、『レベル・リッジ』は不殺を貫いたことでアクションの娯楽性の一つは決断的であることだと提示している。ジェレミー・ソルニエ監督は確かな手腕と独自のセンスと着眼点によって、ジャンル映画に留まらない無二の傑作を生み出した。

(文=2号)