(撮影:梅谷秀司)

人生100年時代。自らの意思と行動で何度も花を咲かせる人たちがいる。 歌手の相川七瀬さんは、その1人だ。デビュー曲『夢見る少女じゃいられない』がメガヒットして、CDの売上枚数は累計1200万枚超。

今年、歌手生活29年目を迎えるが、「歌を続けていくか否かは葛藤もありました」と語る。3人の子育て、40代からの学び直しで大学院に通うなど、多忙な日々。彼女が今、半生を振り返って思うこと、そして、人生後半からの希望ある人生計画とは?

(前後編の後編/前編はこちら

全盛期はモンスターを操っているような気持ちだった

――歌手としては今年でデビュー29周年。ライブなどの映像を拝見しましたが、歌声、声量が変わらないことに驚きました。ちなみに、スタイルも全然変わらない!

この29年間、紆余曲折ありましたが、今は迷いなくずっと歌い続けたいと思っています。だから可能な限り、体を労ってます。歌手は自分の体が楽器ですから、食事も制限するし、運動もしっかりやる。お酒も昔ほど飲まなくなりました。歌とお酒を天秤にかけたら、歌の方が遥かに大事ですからね(笑)。

――歌手活動に関しては、これまでどんな葛藤がありましたか?

まず、デビューからの数年間は本当に苦しかったです。そのほんの数カ月前までは普通の女の子だった私がいきなり大きな舞台に立たせてもらって、自分の歌を多くの方々に受け入れていただいて。自分の知らない自分が意思とは関係なくどんどん大きくなっていく感覚でした。

――別人格が生まれたような感覚?

はい。見知らぬモンスターが出来上がっていく感じでした。私自身は何も変わっていないのに、そのモンスターを操らなきゃいけなくなった。そこに慣れるまでに何年もかかって……苦戦していましたね。

――当時、私たちがTVで観ていた相川さんは虚像だった?

メディアに出ているときはそんな感覚もありましたけど、歌っている時は私自身でした。“ロック少女”である相川七瀬は、プロデューサーである織田哲郎さんが私の中に眠っていたものを掘り出して磨いてくれたものなんです。10代の頃から一番信頼し、私を一番知っていてくれたのも織田さんでした。だから織田さんが書く歌詞は私がモデルになっていることは明確で、楽曲の主人公像と自分が乖離しているとは、歌ってきて一度も思ったことがありません。アーティストとしては幸せですよね。


(撮影:梅谷秀司)

――今も織田さんと交流は?

ついこの間も2人でご飯を食べました。来年の30周年記念ツアーは織田さんとまた一緒にまわりたいなと思っているんです。私たちは、プロデューサーと歌手というよりは、師匠と弟子という感じで。それは今も変わりません。織田さんには娘さんが2人いらっしゃいますが、私も織田さんの娘の1人という気持ちです(笑)。

20代前半は創作する苦悩が大きくなっていった

――よい関係を築かれてきたんですね。

そういう師匠に出会えてここまで来れたことは、自分でも奇跡だなと思います。でも、師匠は当時、本当に厳しかったです(笑)。20代前半の全盛期、本当に苦しかった。どんどん歌詞を書いて、曲を出さなきゃならないと追われていました。だんだんと、好きなことが仕事になった喜びよりも、創作する苦悩がはるかに大きくなっていって…….。

――90年代の音楽業界は、ミュージシャンも3カ月に1度はシングル、アルバムも1年に何枚も出すというハイペースなリリースが主流でした。

常に締切に追われていました。徹夜で考えても全くいいフレーズが浮かばない。100枚書いても全部ボツなんてこともありました。1998年頃はもう心身の限界でした。あの頃、リリースしたアルバムには、そんな傷んでいた自分が出ていると思います。

今でこそ、時代に求められていた幸せも理解できますし、あの経験も価値のあるものだったと思えますけど、そのアルバムを冷静に聴けるまでは長い時間を要しました。

――1998年は、相川さんがイギリスに短期留学して神道に出会った年でもありますね。(詳細は前編)

苦しかったから、この先どうしていったらよいのかを模索していたんでしょうね。

26歳で出産。「相川七瀬は終わったね」と言われて。

――そんな中、26歳の時にご結婚され、初めての出産を経験されました。私は相川さんと同世代ですが、晩婚化が進んだ世代。20代半ばの結婚と出産はわりと早い決断だなと。迷いはなかったですか?

迷いました。でもあの時、迷いながらも「一生、自分は歌手ではないかもしれない」と思ったんです。歌手じゃなくなっても私は私の人生をこれから生きていく。それならば、人間としての自分を支える選択をしたいと思いました。しかし、キャリアを続けていく上での新たな葛藤が始まりました。

――新たな葛藤とは?

生活環境が変わり、今までの自分ではないのに、それまで通りの相川七瀬として仕事をしようとしていました。まだ20代後半。同期のアーティストたちはまだまだテレビに出て、活躍し活動の場を海外に広げたりしている中焦りました。

みんながキャリアを高める中で、私だけ取り残されていくような気がして。自分で選択したことなのに、社会と自分との関係性が絶たれてしまうような感覚もあって悶々としていました。

――子育てによってキャリアの転換をした女性の多くが抱く葛藤です。

20代後半は、このまま仕事を続けていくべきなのか、もう辞めた方がいいのか悩み続けていました。現場でも、「相川さんはもう終わりだよね」と悪気ない口調で、言われたこともありました。

――今や不適切な冗談ですね。

仕事とプライベートの両立に対する葛藤だけでなく、自分の音楽性についてもここから10年、出口の見えないトンネルの中に入りました。プロデューサーの織田さんの元を離れてからは、自分たちであのレベルの楽曲に到達できるわけもなくて。あらゆる面で、自分の未来を見失っていました。歌はずっと好きだし続けていたけれど、もう完全に辞めた方がいいのかなと、35歳くらいまではもがき続けた感覚がありました。

40代になって全てが欲しいと初めて思った

――トンネルを抜けたきっかけは?

東日本大震災です。「自分は何のために歌うのか?」という大きな問いかけが自分の中に生まれました。被災地に入るたびに、また「私はどうして生かされているのか?」といった自問自答を繰り返しました。そして、被災地と繋がりを持たせてもらう時間の中で、私は「もう過去の自分を生きるのではなく、今の私を生きていくんだ」と心から納得しました。


(撮影:梅谷秀司)

織田さんが作ってくれたような曲を真似して作ることなんてできない。だから、自分が心から今歌いたいと思うメッセージがロックじゃなくても歌えばいいんだと、初めて自分一人で作っていくこれからの音楽を肯定できました。

それは過去から解放された瞬間でした。私は楽しい時だけではなく、悲しい時や辛い時にも寄り添える歌も歌いたいのだと思って、震災後に初めて作ったのが『ことのは』という曲でした。

――新たな決意と覚悟ですね。

歌手として本気でリスタートしようと思ったし、キャリアについての悩みや、母親である自分もありのまま受け入れて、最大限やれるだけのことをやろうとも決意しました。その軸をぶらさずに、使える時間やエネルギーを音楽に余すことなく使えばいいと思いました。すると、すごく楽になったんです。

――人生のプライオリティが明確になった?

あの時、やっと本当の意味で自分として生きていけるようになったし、一方では、等身大の自分として音楽に向き合えるようになりました。

それまでの私は、「仕事とプライベートは分けています。玄関のドアを開けた瞬間に相川七瀬になります」なんてカッコつけてたんですけどね。今は公私の境界線はありません。ステージに上がる直前に、楽屋で息子から「明日、提出しなきゃいけない書類が……」なんていうこともしばしば(笑)。でも、境界線をなくしたら、気負いもなくなって、どちらも自然体でいられるようになったんです。

――大きな転機ですね。

いい意味での諦めも肝心なんだなと思います。どの世界にいても同じだと思いますが、他人と張り合うことに意味がないように、昔の自分を追いかけるのもエネルギーを浪費するだけ。過去はもう停止している時間で、新しい自分だからこそできる可能性は無限なんですよね。だから今は、自分をアップデートさせていくことを楽しんでいます。

「やってみたいこと」を諦めたくない

――心のままに変化・アップデートした結果が、大学進学だったんですね。

40代で大学に入学して卒業して、まだまだ私はやれるんだという自信がつきました。それから、人生で初めて、「全部欲しい!」って心から思えたんです。それまではどこかで夢は1つにしなければならないと思っていました。でも40代後半になって、人生は意外と短いのかもしれないと感じ始めて、「何でもやってみたらいいじゃない」「中途半端でもいいじゃない」って自分の「やってみたいこと」を諦めたくないという気持ちになっています。

――50歳を目前にして健やかな野心が育っている!

別に不完全だっていいんですよね。誰かの目や評価を気にして可能性の芽を摘んでしまうのではなく、失敗してもいいから行動して挑戦していきたいなと思っています。

――具体的にはどんなことに挑戦していきたいですか?

やっぱり歌い続けたい。ライブでは原曲のキーのままで歌い続けられるような歌唱力を保ちたいし、それを支える体力づくりを可能な限りやりたい思ってます。

また、春から大学院に進学したので、2012年から関わってきている赤米神事に関する、知識や学びの蓄積を自分にしかできない研究として、論文化すること。これは、50代からの大きな挑戦です。

大学院では挫折ばかりの日々ですが、みんな最初から完璧ではない。平等にみんな手探りの状態からスタートして歩んでいる。だから、未来を必要以上に恐れずに、自分らしく50代を進んで行けたらいいなと思っています。


芳麗さんによる連載12回目です

(芳麗 : 文筆家、インタビュアー)