手塚治虫のもとへ乗り込み、山下達郎とツアーを回り…キーボード奏者・難波弘之の“鍵盤人生”
バンド「金子マリ&バックスバニー」や「SENSE OF WONDER」のほか、ソロアーティストとしても活躍する一方で、1979年から断続的に参加する山下達郎のツアーでもおなじみのキーボードプレーヤー、難波弘之(70)。2026年にはデビューから50周年を迎える難波は「古希を迎えても音楽やってるなんて思わなかった」としながらも、自身の“鍵盤人生”を「できる限り続けていく」と高らかに宣言した。
【写真】大学時代のバンド風景から“金子マリ&バックスバニー”、山下達郎リハ… 貴重写真で振り返る“鍵盤人生”
嫌いだったピアノ
「ピアノは気付いたら習わされていたので、あまり好きじゃなかったんです」
鍵盤人生を歩んできた人の口から出たとは思えない言葉である。
父がジャズアコーディオン、ハモンドオルガン奏者。母は東京芸大声楽科卒で、戦後にはフランス近代歌曲を歌っていたという音楽一家で育った。それだけでなく、「母は今でいうところのボイストレーナーとして、そのレッスンなどで生計を立てていた」といい、ダーク・ダックスや立川清登らがレッスンに訪れていたという。
まさに音楽サラブレッドであり、だからこそ、物心ついたときにはピアノを習わされていたわけだが、「昭和30年代で男がピアノを習ってるなんて、当時はいじめられる要素でもあったので」というのが、ピアノが嫌いだった理由でもある。
「子どもの頃から大人の音楽の現場に連れていかれて。楽屋でバイオリニストとマネージャーが喧嘩しているのを見たりしたこともありました。『君には僕の芸術はわからないんだよ』と、下手なドラマのセリフみたいに怒鳴っているのを聞いたこともありますね」
と、音楽やエンターテインメントの裏の世界までが身近すぎた故に、そういう世界を冷めた目で見ていたとも話す。
落語、手塚治虫、SF…興味はそちらに
そんな難波少年を癒してくれたのが、手塚治虫の漫画や落語。落語は日々、ラジオで聞いており、小学校から早くも寄席に通うようになる。学習院中等科時代、学校帰りに制服のままで寄席へ行くと、高座から「今日は学習院の坊ちゃんが来てるからね。いつものアタシの艶っぽい話はできないよ」とイジられたこともしばしばだったとか。
寄席では歌謡漫談などのネタもあったことから、それなりに歌謡曲は知っていたが、友人らがこぞって興味を持っていたビートルズなどにも関心がなく、「リンゴ(・スター)の話をしていたら、単純に果物の話だと思って聞いていたほど」だったという。
小学生時には手塚治虫のファンクラブ「鉄腕アトムクラブ」に入会、やがてSFやミステリを読み漁るようになり、日本最古のSF同人誌である「宇宙塵」にも参加。中学生の参加者など極めて少数だったが、「たまたまいた同学年の会員と友達になったら、そいつがGS(グループサウンズ)が好きだったんです」。
SF受賞歴も、ロックに傾倒
その友人の影響で聞き始めたのが、GSの中でも音楽性が高かったザ・スパイダースやザ・ゴールデン・カップス。オルガンの大野克夫やキーボードのミッキー吉野に「何じゃこれ?」と衝撃を受け、彼らの演奏する洋楽に心を奪われていった。
「時代はサイケデリック・ロックの時代に入っていた。他の同級生がエレキギターから入ってベンチャーズやビートルズを通っていったのに対し、僕はいきなりドアーズやヴァニラ・ファッジ、ジェスロ・タルなんかを聞き始めたんです」
ここに落語、SFに続き、ロックという趣味が加わった。「それが変わらないままずっと来ました」と、50年以上をそれらの趣味とともに歩んできた。
SFでは中3時にサイボーグを扱った短編「青銅色の死」で、初等科から大学生まで学習院全体を対象とした「安部能成文学賞」を受賞した経験もある。同世代のライバルには、後に「傷だらけの十六歳」を著した柴田成人や「善人は若死にをする」の大西赤人がおり、「“花の15歳トリオ”とも呼ばれていた」というが、「僕は量産できず、安定供給できなかった。売れ線には行けなかったんです」と作家の道は諦めたという。
一方でロックへの情熱はますます深まり、高校、大学はひたすらバンド活動に夢中になった。大学の学年が進み、友人らがリクルートスーツに身を包むようになっても音楽を続けていたという。
同人誌「宇宙塵」の編集長から、小説家・半村良のアシスタントの打診もあったが、同じ頃に開かれた文化祭で演奏していた際、音響の仕事をしていた人に声を掛けられた。
「お前、プロになれるよ。なんでこんな下手な奴と一緒にやってんの? とっととプロになれ」
山下達郎との出会い
この文化祭に当時、新人歌手だった太田裕美が訪れ、そのバックをベースの鳴瀬喜博、ギターの中島正雄、ドラムスの橋本英晴らが務めており、金子マリも遊びについてきていた。難波の演奏を見ていた鳴瀬に「Charと組んでいたスモーキー・メディスンが解散するので、新しいバンドを組む。一緒にやらないか」と声を掛けられ、鳴瀬、金子、橋本に、ギターの永井充男を加えた5人で「金子マリ&バックスバニー」を結成してデビューすることとなる。
最初に声を掛けられた音響スタッフの事務所を訪れた際、山下達郎が組んでいたバンド「シュガー・ベイブ」のデモテープがあり、それを聞いたという。
「達郎と最初に会ったのもこの事務所でした」
同じ1953年生まれだが、早生まれの山下が学年は1つ上。1975年にレコードデビューした山下に続き、バックスバニーは1976年にデビュー。難波は22歳を迎えていた。かつてその活躍に目を奪われたミッキー吉野が10代半ばでデビューしたのに比べると、遅いデビューではある。
「僕はどちらかというとネガティブで。自分に自信がなく、この程度でプロなんてなれるわけがない、とどこかで思っていたんですね」
とはいえ、会社員や半村良のアシスタントなどになる自身も想像できなかった。自身の将来像は「消去法」でもあったが、バンドデビューという形で現実となったのだ。バックスバニーでは、東大の五月祭で、山下のシュガー・ベイブとの対バンも実現。都内のライブハウスでセッションをやっていた頃に、山下が歌いに来ることなどもあったという。
難波はバックスバニーで、2枚のオリジナルと1枚のライブアルバムを出した後、1978年に所属事務所を離れてフリーとなり、バンドを離脱。1979年にアルバム「センス・オブ・ワンダー」でソロデビューするまでの間に、いろんなバンドから誘いの手が伸びていた。後のスペクトラムや、ozを解散したばかりのカルメン・マキからも誘いがあった。そして山下からも誘いを受ける。
「達郎とは同じ豊島区生まれで一番気が合ったし、インドアオタクでSFオタク。ライブハウスのセッションで来ていた頃から意気投合していた」といい、「デッカ/デラムといったレーベルのサウンドやアニマルズなどのブリティッシュロックなど、音楽的な嗜好も合っていた」と山下のツアーに参加することを決めた難波。山下もあまり言うことを聞いてくれない先輩格のミュージシャンよりも「同年代のミュージシャンと和気あいあいとやりたい」と難波の参加を喜んでいたという。
ライブ会場で公開炎上劇も…熱かった聴衆
1978年末に発売された山下のアルバム「GO AHEAD!」にドラムの上原裕、ギターの椎名和夫、ベースの田中章弘とともに「達郎バンド」として参加。翌年から1982年まで、山下のツアーに参加した。
「参加し始めた頃、杉並公会堂でのライブがあったんですが、達郎のMCタイムに客席の女の子がすっくと立ちあがって言ったんです。『最近の達郎さんの音楽は、私はあまり好きではありません!』と。達郎も『あんたね…』と応酬し、他の客そっちのけで舌戦を始めて。最後には女の子が『わかりました。失礼しました』と座ったんですが」と苦笑しながら述懐する。
「今の良くも悪くもアーティストに優しい予定調和の客に比べ、あの頃はライブ会場も熱く、緊迫感があったものです。言うなれば、今でいうネット上の炎上をライブ会場において、公開でやっているような感じでしたよ」
十年間は自分のソロ活動に専念した後、山下のツアーには1991年から復帰、難波は山下のツアーに欠かさざるべきプレーヤーとなっている。
フラヴィオ・プレーモリのこぶしにそっくり
バックスバニー時代、セカンドアルバムを作る際に縁ができた、ギタリストでキーボーディストの成毛滋に、こんな言葉を投げかけられたことがある。
「君、PFM、好きでしょ」
PFM。プレミアータ・フォルネリア・マルコーニ。1970年から活動するイタリアのプログレッシブバンドだ。そのキーボーディストがフラヴィオ・プレーモリ。難波自身が「日本なら大野克夫さん、ミッキー吉野さん、海外ならキース・エマーソンやビリー・プレストン」と列挙する憧れのキーボーディストと同列で名を上げる一人だ。
成毛の言葉に「どうしてわかったんですか」と驚いたが、成毛からは「シンセのこぶしがプレーモリのこぶしにソックリだもん。それは地中海のこぶしだよ」と賞賛されたという。
音楽とSFが融合し…
自身のソロデビューアルバム「センス・オブ・ワンダー」では、少年時代から憧れた手塚治虫との“コラボ”も実現させた。
「自分の好きなSFをテーマにしたアルバムを作ろうと思いましてね。今にして思えば、完全な独りよがりのアルバムだったと思いますが、当時、好きなようにやらせてもらった」
その中で、ジャケットを描いてもらいたいと手塚プロに単身乗り込み、多くの編集者が待機する中を手塚治虫の部屋に通され、デモテープを聴いてもらった上で、ファミリーツリーのような絵を描いてもらったという。
「それ以前にも『鉄腕アトムクラブ』などで何度もお会いしたことはありました。描いていただけたことを不思議に思う人はいっぱいいたと思いますが」
こうしてこれまで得てきた縁を、後進に伝える機会も多い。1985年にNHK教育テレビ(当時)の「ベストサウンド」の司会・講師を務め、作曲家の三枝成彰の紹介で1988年、東京音大の講師となり、後には作曲科主任教授となった。
「行き当たりばったりだったので、まさか70歳になってまで音楽をやっているとは。達郎バンドでもベースの伊藤広規と達郎と僕とで、アコースティックのトリオを組むことがあるんですが、ちょっと前には還暦トリオなんてふざけて言っていたのが、もう古希トリオになっちゃったんですから、すごいですよね」
と、苦笑しつつも「知り合いが知り合いを呼んで、いろんな人と仕事ができた。これからもできる限り続けていきたい」という決意にはわずかの揺らぎもない。
デイリー新潮編集部