阪神で活躍した田村勤さん【写真:山口真司】

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田村勤氏は少年時代に川で石投げを繰り返した

 元阪神守護神の田村勤氏は幼い頃、近くの川でよく「石投げ」や、石を川面で何度もジャンプさせる「水切り」で遊んだという。社会人野球・本田技研時代にオーバースローからサイドスローに転向して成功。それには横から投げる「水切り」効果もあったのかもしれないが、当時、川で何よりも意識していたことがあったとも明かす。それは巨人で活躍した怪物右腕・江川卓投手の小学生時代の伝説だった。

 静岡県榛原郡川根町出身の田村氏は、川根小時代から肩の強さに定評があった。父・甲子夫さんとのキャッチボールなどでも鍛えられたようだが、もうひとつ、よくチャレンジしていたのが大井川での石投げだった。「水切りとかよくやっていましたからね。(のちに)僕はサイドスローになりましたが、何かそれがあったのかなというのはありますよ。水切りってピッピッピッピッピッピッっていくじゃないですか。あれがインコースの高めに行くイメージですね」。

 もちろん、その頃からサイドスローを意識していたわけではない。結果的に役立ったかもしれないという話だ。当時、田村氏が川で思い切り意識していたのは怪物右腕のこと。「江川さんが天竜川の石投げで向こう岸まで届いたという伝説を聞いたことがあったんですよ。(同じ)静岡ですからね」。江川氏は少年時代に静岡県磐田郡佐久間町に住んでおり、石投げ伝説はその小学生の頃のもの。「僕らのところの大井川はすごい広い。ここはいくら江川さんでも無理だろうと思いながらね」。

 それでも挑戦した。思い切り投げた。「やりましたよ。遊ぶことといったらそういうことしかないんで。でも僕らの川は何百メートルもあるので、そりゃあ無理でしたけどね。江川さんも1キロもあるような遠投は無理やろう。天竜川の上の方の狭いところだったんちゃうかなと想像はしましたけど、とてつもない肩を持っていたんだろうなっていうのはありましたからね。親父も江川さんが好きで『江川みたいになれ』とも言われていましたし……」。

小学5年で中学生と試合…三振の山築き「すごく嫌な顔をされた」

 1976年、小学5年の時にスポーツ少年団の軟式野球チームができた。田村氏はエースで4番。投げては球が速かったという。「中学の先輩と試合をして、バッタバッタと三振をとって、“お前、調子に乗っているんじゃねーぞ”って感じで、すごく嫌な顔をされたのは覚えています」。それほど、その地域ではズバ抜けた存在だったわけだが、“江川伝説”への挑戦によって自然と肩が強化されたことも、いい影響を与えたようだ。

 田村氏は川根中3年時にエース左腕として静岡県大会で準優勝と優勝を経験。島田高進学後は県内屈指の好投手と評判になった。駒沢大学では調子を落としたものの、本田技研でサイドスローに転向後、練習を重ねてプロ注目の投手となり、ドラフト4位で阪神入り。プロ2年目の1992年前半戦に抑えとして活躍するなど、大きな戦力となった。怪我に何度も泣かされながら不屈の闘志でよみがえり、最後の2年はオリックスに移籍して通算12年の現役生活を終えた。

「2、3年前かな、テレビで江川さんのその話をドキュメンタリーでやっていました。向こう岸で投げた場所も出ていました。やっぱり何百メートルとかではなかったですね。あっ、こういうことかと。いやぁ、さすがにこれくらいやんなっていうのはわかりました」と田村氏は納得顔で言う。2002年の現役引退後、20年近く経って、やっと子ども時代の“謎”が解けた形だが、それぐらい思い出深い川での挑戦だったということだろう。

「地元・静岡のことでしたからね。そういう伝説はパッパッパッと入ってきたんですよね」と田村氏は笑う。伝説だけで成長させてくれた10歳年上の江川氏は1987年に現役引退。1990年ドラフト4位で阪神入団の田村氏は、“静岡の先輩”とプロで対戦することもなかったが、いつまでも忘れられない人であることも間違いない。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)