阪神で活躍した田村勤氏【写真:山口真司】

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元阪神の田村勤氏が語る野球人生…巨人ファンの父から熱血指導

 左のサイドスローで愛称は「たむじい」。帽子を目深にかぶり、雄叫びを上げながらキレッキレのボールを投げ込み、三振の山を築いた伝説の阪神守護神が田村勤氏だ。プロ2年目の1992年は、7月上旬までに5勝1敗14セーブをマーク。後半戦は左肘痛で登板できなかったが、“暗黒期”の1990年代、阪神が唯一2位に躍進した年で「田村が最後までいたら優勝できたのでは」と言われたほど。そんな田村氏の野球人生は「飛雄馬を見習え!」から本格化したという。

 田村氏は静岡・島田高、駒沢大を経て社会人野球・本田技研から1990年ドラフト4位で阪神に25歳で入団。プロ1年目から中継ぎ、抑えで活躍した。ニックネームの「たむじい」は本田技研時代につけられたもの。「社会人の時、僕は部屋に来る先輩や後輩を静岡のお茶でもてなしていたんですよ。急須に入れてお茶を出してね。僕、静岡(出身)だから。そしたら『お前、何かじじくさいな』って。それから『たむじい』ってなったんです」。

 それが阪神入団後も継続。「『何て呼ばれていたんだよ』と聞かれて『たむじいと言われていました』と答えたら『そのままやないか』ということでね」。当時の阪神には本田技研の先輩・金子誠一外野手も在籍。「金子さんに『おい、じい』って言われたり、(1991年は阪神1軍総合コーチで1992年から解説者に復帰した)川藤(幸三)さんが朝の番組で『昨日、たむじいが……』とか言うじゃないですか、そしたらファンにまで『たむじい』と言われるようになりました」。

 マウンドでも結果を出して「阪神」の守護神として一気に知名度もアップした田村氏だが、少年時代の関心はもっぱら「巨人」だった。「親父がすごい巨人ファンだったんです。で、いつもナイター中継とかも見ますよね。巨人が負けると親父の機嫌が悪くなるし、勝ったらすごく平穏に眠れるというか、そういう時代でした。それにあの頃は(野球漫画の)『巨人の星』が流行っていて、親父が(主人公の)星飛雄馬を推すわけですよ。『飛雄馬を見習え』ってね」。

 1965年8月18日生まれの田村氏は静岡県榛原郡川根町出身。野球との出会いは「静岡の山の中で、他にすることがないというか、柔らかいボールでの遊びといったらそれしかなかったんです」という。「静岡はサッカーのイメージがあると思うんですけど、山間部はソフトボールであるとか、テニスボールで遊んだりとかが皆さんの娯楽というか……。町の中にも割と野球好きなおじさんがいて教えてもらったりとか、気がついたら野球をやっていましたね」。

めきめき上達した野球「お山の大将でした」

 田村氏は父・甲子夫さんともキャッチボールをよくやったという。「小学校低学年くらいの時に親父に『お前の夢は何だ』と言われて『プロ野球』と言ったら『無理だと思うまでやれ!』って。親父は若い時に家庭の事情とかもあって、好きなことをできなかった。野球もできなかった。それを僕に託してくれたというか……。球がめちゃめちゃ速いんですよ。『俺も野球やっていたらプロぐらい目指していたわ』って。まずは親父のスピードを超えることからでしたね」。

 そんな甲子夫さんがよく引き合いに出したのが、父親の「星一徹」に厳しく育てられ、鍛えられて野球選手に成長していく「星飛雄馬」だったという。「『飛雄馬は練習をちゃんとやっているやないか!』ってね。親父は自分を『星一徹』とダブらせるわけですよ。怖かったですねぇ。百獣の王ライオンが子を崖から突き落とすとか言うじゃないですか。そういう感じの親父でした」。そんな環境で、田村氏は野球の力をどんどんつけていった。

「小学校の時から目立ちたい、中心選手になりたい。試合に勝ちたい、そういうのがすごく芽生えました。肩は自分でも強いという自覚があった。ソフトボール投げでは地区で優勝したりしていたんで。打ったら打ったでめちゃくちゃ飛ばすじゃないですか。そしたら田舎では『お前はひょっとしたら』なんて言われて、それにも乗せられましたね。小学5年の時に軟式チームができてピッチャーで4番。お山の大将でした」

 当然、プロ野球選手になりたいという夢も膨らむばかりだった。そして、田村氏は小学校低学年時に父から野球を「無理だと思うまでやれ!」と言われたことをずっと忘れなかった。この先、高校時代にも、大学時代にも、社会人時代にも、阪神時代にも苦しいことが山ほどありながら、2002年にオリックスで引退するまで、くじけなかったのもその言葉がずっとずっと響いていたからだ。波瀾万丈の「たむじい」の野球人生。すべては父との“約束”から始まった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)