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 以降は、「ニコニコ大百科出張所」にご寄稿いただいたアカギカイジさんによる「アウスグライヒ」という単語の解説記事となります。

文/アカギカイジ

アウスグライヒ(アウスグライヒ)

アウスグライヒとは、妥協である。

概要

1867年にオーストリアとハンガリーの間で結ばれた協定とそれに伴って行われた諸改革を指す。我が国では幕末にあたり、大政奉還が起きた年でもある。オーストリア側から見ていや(18)ぁむな(67)しい、アウスグライヒの語呂合わせで覚えるとよいだろう。

オーストリアは長年深刻な民族問題を抱えており、特に首都のウィーンよりすぐ東にあるハンガリーを構成する主要民族、マジャール人たちの自治権要求は強かった。

時の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、ハンガリー嫌いで有名な実母であるゾフィー大公妃や、自身が固く信じている王権神授説からその要求を固く退けてきた。しかし、時の情勢はそれを許さず、1859年のソルフェリーノの戦いの大敗や、前年の普墺戦争でプロイセンに大敗したことで最早往時の威勢はなりをひそめてしまっていた。

フランツ・ヨーゼフは立て直しのためには最早手段を選んでいられないということで、1866年にハンガリー側の代表アンドラーシ・ジュラと会見。その後様々な調整を経て1867年にドイツ人とハンガリー人がそれぞれ折り合いをつけた上で、対等な政府という建前をもつアウスグライヒの協定が発効された。

歴史

元々オーストリアとハンガリーというのは別々の国であり、中世までオーストリアは神聖ローマ帝国の一領邦に過ぎなかったし、ハンガリーも独立した東欧の国家にすぎなかった。

だが、14世紀末よりオスマン帝国の伸長が著しくなるとハンガリーは彼の国の圧迫を受けるようになり、1541年には首都のブダが陥落して旧領がオスマン帝国とオーストリアによって分割されるようになった。これが一応アウスグライヒまで続くオーストリアとハンガリーの支配・被支配の関係であった。

オーストリアは17世紀末にカルロヴィッツ条約でハンガリーの全域をオスマン帝国より割譲を受け、以後は本格的に自国内の領域として統治を開始した。当初のころはそれなりにうまくやれていたが、フランス革命からのナポレオン戦争の時代を経験すると、ハンガリー領内では民族運動の波が高まり、ハプスブルク家の悩みの種となっていく。

1848年の諸国民の春とよばれるヨーロッパ全土に吹き荒れた自由主義運動の嵐はそれを象徴する出来事といえるだろう。他の国々と同じくオーストリアの首都ウィーンでは自由主義的改革を求めて暴動が発生し、一時は王室がウィーンよりの避難を余儀なくされるほどの事態に陥った。

ときを同じくしてハンガリーではコシュートを中心とする勢力が一方的に独立宣言を発出し、オーストリア皇帝・フェルディナンド1世につきつけた。首都の混乱もあってとりあえず皇帝はそれを受け入れ、ハンガリーは同じ皇帝を頂く同君連合になった。しかし、フランスにおける失敗などから自由主義運動自体が衰退に向かうと、皇帝側は反撃に出始め、マジャール人に対し激しい因縁を持つクロアチア人の将校イェラチッチを指揮官としてハンガリーに送り込んだ。戦局は二転三転するが、1849年8月にようやく鎮圧にこぎつけられた。

コシュートは亡命し、オーストリアでは退位したフェルディナンド1世にかわってフランツ・ヨーゼフ1世が即位した。しかし、一度ついたナショナリズムの火はそう簡単に消えることはなく、まさに喉にささった小骨のようにこの問題はオーストリア・ハプスブルク家を苦しめ続けることになる。

新皇帝を迎えたオーストリアであったが、当然ながら昔ながらの王権神授説と国家的統一を重視する勢力がウィーンの宮廷の大半をしめており、ハンガリーをはじめとする諸民族の独立要求など歯牙にもかけられなかった。しかし、その中で一筋の光明がさしこんできた。フランツ・ヨーゼフの后・エリーザベト、通称シシィの名で知られる女性である。

彼女は旧態依然としたしきたりが支配するウィーンの宮廷に嫌気が指しており、あちこちに出かける事が多かった。帝国から近く保養地も多く存在するハンガリーはその一つで彼女はよく足を運んでいった。その中で彼女はハンガリー語を身に着け、また独立穏健派であるアンドラーシとも親交を深めていったとされている。そのため、度々彼らの肩を持つ手紙を夫のフランツに送り続け、内側よりある種の圧力をかけ続けた。

概要にも書いたとおり、フランツ・ヨーゼフは伝統的な帝王学を叩き込まれた旧来型の君主であるため、そう簡単には彼らの要求を受けようとはしなかった。しかし、眼の前に迫りくる現実は彼に味方しようとはしなかったのである。まず、1861年にイタリアにおいてはサルデーニャ王国に手痛い敗北を喫してオーストリアが影響力を持っていたイタリア半島内の領土や諸公国から手を引かざるを得なくなったし、新興国のプロイセンにも1866年の普墺戦争で敗れ、ドイツ統一の主導権をプロイセンに引き渡さざるを得なくなった。このような国威を大きく引き下げる事態が続き、フランツ・ヨーゼフはまさに”妥協”策の一つとしてハンガリー人との融和を真剣に考えねばならなくなった。また、長年友好関係を築いてきたロシアともクリミア戦争で対立した経緯から疎遠になっており、対外的には孤立に近い状況になりつつあったことも大きい。

このような経緯から1866年よりハンガリー側と交渉が重ねられ、1867年にハンガリーとのあいだでアウスグライヒと呼ばれる世界史的にも稀な協定が結ばれることに成った。この協定ではオーストリアをツィス・ライタニエン、ハンガリーをトランス・ライタニエンと呼び、同じ皇帝を頂きつつも、それぞれ別々の政府と議会を有し、内政の大半はそれぞれの政府が担い、外交・軍事とそれに係る財政については帝国全体で一元管理するという事が主に定められた。ただの同君連合にしては統制されており、属領にしては対等関係というどちらでもない奇妙な関係がここに構築されたのである。ここから、第一次世界大戦終結までの彼の国を『オーストリア・ハンガリー二重帝国』と呼ぶことがあるが、それはまさに同じ国の中に2つの国が重なっているかのような状態を形容した言葉なのである。

こうしてバラバラになりかけていた帝国はアウスグライヒによりどうにかその命を繋ぎ止めることに成功したが、山積している問題が消えたわけではなく、むしろ新たな問題が浮上していくことになる。まずアウスグライヒ内では財政や軍事は共同処理となっていたが、ハンガリー側はこれらについてもオーストリアとの完全分離を目指しており、度々それらについてはオーストリア政府と対立を重ねることになる。また、一度帝国内の一民族に特権を与えてしまったため、他の民族、特に現在のチェコあたりに相当するボヘミア人たちが自分たちにもよこせとばかりにアウスグライヒを要求するようになった。彼らはオーストリア議会で議事妨害を行ったり、事によっては他の議員と乱闘に及ぶなどやりたい放題を行うようになった。オーストリア側はさすがにアウスグライヒは認めなかったものの、役所内でのチェコ語使用を認めるなど一定の譲歩をせざるを得なくなった。

このように政治的にはもうてんでバラバラで収拾がつけられないといった有り様ではあったが、文化的・経済的には産業革命の恩恵を受けてオーストリア・ハンガリーは大きく発展を遂げ、帝都のウィーンは大きな繁栄を遂げることに成り、世紀末ウィーンとして文化史上の大きなマイルストーンとして刻まれている。心理学者として高名なアドラーや、『変身』などで知られる小説家、カフカなどはこの時期の人物である。

このアウスグライヒの体制は第一次世界大戦で協商国の前に屈するまで続けられた。どうにかこうにか続けられてきたこの体制もさすがに敗戦という現実には耐えることができず、ハンガリー人やチェコ人などが次々と独立を宣言してオーストリア・ハンガリーの解体と共に終焉することになる。

関連項目

 

世界史オーストリアハンガリー