「道長も態度一変」運に見放された"伊周の悲劇"
伊周ともゆかりがある太宰府。写真は太宰府天満宮(写真: 夢中人 / PIXTA)
NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第28回は藤原道長の甥、藤原伊周の度重なる不運を紹介する。
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失脚から巻き返す「しぶとい伊周」
「一瞬にして目に見えていた景色が、ガラリと変わってしまっても、いつも通り朝がやってきます」
好評を博しているNHK連続テレビ小説「虎に翼」では、人生の核心を突いたナレーションが不意に流れてくるので、思わずハッとさせられる。
予期せぬ不幸に見舞われたり、とんだ失敗をしたりしてしまい、深く絶望してもなお、明日は同じようにやってくる。それが人生のしんどいところでもあり、また、救いでもあるところだろう。
藤原伊周ならば、このナレーションが心に染みたに違いない。自業自得とはいえ、「長徳の変」という不祥事をしでかしたことで、状況は一変。関白だった藤原道隆の嫡男として出世街道をひた走っていたにもかかわらず、太宰府に左遷されることになった。
この「長徳の変」は、伊周が好いた女性のところに花山法皇が通っていると勘違いし、矢を放ったことで大騒ぎとなった。何とも間が抜けた事件だが、伊周からすれば、叔父にあたる道長に追い込まれて、精神的に不安定だったのではないだろうか。
日の出の勢いで出世した伊周は、道長をも追い抜いたが、『大鏡』によると、競弓においても双六においても、やたらと強気な道長に圧倒されて惨敗を喫したらしい。
父・道隆が病に伏せると、後継者たらんと焦ったのか、内大臣でありながら「関白と同じ警護をつけてほしい」と一条天皇に直訴するなど、伊周は暴走し始める。
傲慢な伊周への反発が宮中で高まるなかで、道隆の死後は、道長が内覧・右大臣へと昇格。そんななかで起きたのが「長徳の変」だった。
前代未聞の不祥事への処分は伊周だけにとどまらず、居合わせた弟の隆家も出雲への左遷が決定する。病気を理由に但馬に留まったものの、京からは遠ざけられることとなった。さらに妹の定子も、一条天皇の中宮でありながら、責任をとって出家してしまう。中関白家の栄華は完全に潰えた……かに見えた。
だが、伊周はしぶとかった。ここからまさかの巻き返しをはかることになる。
道長が「伊周を内大臣に」の真意とは?
いったい、太宰府に左遷されたはずの伊周が、いかにして宮中に戻ってきたのか。
それは長徳3(997)年3月25日のことだ。母の詮子が病に伏せて回復しないことから、一条天皇が大赦の詔を下すこととなる。
「常の恩赦では赦免しない者も、ことごとく赦免する」
大赦とは、国家に吉凶があったときに、罪を許すこと。とはいえ、大罪を犯した者については、この限りではない。であれば、花山法皇に矢を放った藤原伊周と弟の隆家については、大赦を適用するかどうかの検討が必要となる。
一条天皇ゆかりの行願寺(写真:金土日曜 / PIXTA)
『小右記』によると、公卿たちが話し合った結果、「罪は恩詔を霑(うるお)すべし」と、罪は軽減するべきだという点ではみな一致したが、都に召喚するかどうかは、意見が分かれたようだ。
道長はというと、自分の意見を明確にすることなかった。一条天皇の結論は初めから決まっていると、踏んでいたのだろう。結局は、一条天皇が伊周と隆家の赦免と召喚を決定している。
というのも、一条天皇は出家した定子を変わらず寵愛し、第1子となる脩子が生まれたばかりだった。定子の兄・伊周を復帰させることで、定子が宮中で過ごしやすい環境を作ろうしたのだろう。一条天皇の「大赦の詔」から2カ月足らずの5月21日に隆家が、さらに半年後の12月には伊周が入京を果たしている。
その後、定子は一条天皇の第2子にして第1皇子となる敦康を出産。中関白家がかつての勢いを取り戻そうとするなか、道長は一条天皇のもとに、11歳の娘・彰子を入内させて中宮とするなど、定子に対抗している。
だが、彰子が将来的に一条天皇の子を産むかどうかはわからないなかで、定子は第3子を懐妊。先行きが見えないストレスからだろうか。道長は重病に伏すが、驚くべきことを口にしている。
「前師を本官・本位に復されるように。そうしたら、私の病も治るでしょう」
前師とは伊周のことだ。道長は「伊周を内大臣に復帰させれば、私の病も治る」というのだ。
道長と伊周も新しい関係へと発展するが…
もちろん、一条天皇の本音を探る道長の駆け引きである。それを知っている天皇も、これには応じていない。それでも、伊周がどん底から這い上がり、かつての勢いを取り戻そうとしていたことがよく伝わってくる。
定子が第3子を出産後、まもなくして崩御すると、母を亡くした敦康の養母を彰子が務めて、さらに道長と彰子が後見人になっている。
というのも、一条天皇の次に天皇になるのは、道長の甥で皇太子である居貞親王というのが既定路線であり、居貞親王のもとには、第1皇子となる敦明親王が生まれている。
道長からすれば、居貞親王から息子の敦明親王へと皇位が引き継がれれば、今後、一族が影響力を持つことは難しくなる。現時点で娘の彰子に懐妊のきざしがなく、第1皇子が敦康親王である以上、道長としてはバックアップするほかなかった。
敦康の重要性が増せば、おのずと伯父である伊周の地位も引き上げられていく。長保5(1003)年に従二位に叙せられると、その2年後の寛弘2(1005)年には座次を大臣の下、大納言の上と定められた。
「帥来り」
藤原道長が残した『御堂関白記』には寛弘元(1004)年から、そんな記述が見られるようになる。「帥」とは、藤原伊周のこと。当時、頭痛を患っていた道長を見舞おうとしたようだ。
一度、どん底を知っているだけに、伊周も慎重に地歩を固めようとしたのだろう。道長もまた伊周の詩に唱和するなど、静かな交流が生まれていくこととなった。
しかし、そんな道長と伊周との間に生まれた「新しい関係」も早々に崩壊する。道長の娘・彰子がついに懐妊したのだ。
寛弘5(1008)年9月9日、彰子は産気づくが、なかなか生まれない。しばらく状況は変わらなかったようだ。実資は藤原懐平から伝え聞いたこととして、「小右記」に「已に御産の気無し。但し邪気、出で来たる」と書いている。生まれる気配はなく、邪気が出てきた……というのだから、ただ事ではない。
さらに懐平からは「昨日、右府・内府、参入せらるるに、左相府、謁談す。而るに帥、 参入するに、謁せられず」と聞かされたという。つまり、道長はこんな行動をとったというのだ。
「右大臣の藤原顕光と内大臣の藤原公季が参られたときには、道長は会って話もしたが、藤原伊周が参ったときには、会おうとしなかった」
道長のあからさまな態度に懐平は「事の故有るか」、つまり、「何か理由があるのだろうか」と疑問に思ったようだが、その答えは明確であり、実資にはわかっていたことだろう。
当時、難産は物の怪のしわざとされていた。彰子の出産を阻む者といえば、どうしても亡き定子のことが思い出される。みなが「難産は定子の仕業だ」と噂するなかで、定子の兄である伊周も遠ざけられたようだ。
そんな物々しい雰囲気のなか、彰子は11日、30時間以上の難産の末、無事に敦成を産んだ。道長の喜びは、どれほどのものだっただろうか。
またもや運命に見放された伊周
お祝いムードのなか、またも運命に見放されたのが、伊周だった。伊周の外戚や縁者が、彰子や敦成、さらに道長も呪詛したとして処罰される。併せて、伊周も処分を受けて、再び表舞台から立ち去ることとなった。
伊周にとって一度目の挫折となった太宰府への左遷も、花山法皇に矢をかけたことだけではなく、一条天皇の母・詮子を呪詛した疑いもかけられた結果だった。
どん底から這い上がるも、またもや呪詛の疑いによって失脚した伊周。上昇志向が強い性格は、どれだけ抑えようとしても、どこかで出てしまったのかもしれない。何かと周囲に警戒心を抱かせてしまったことが、致命傷となった。
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
(真山 知幸 : 著述家)