奈良公園といえばシカと鹿せんべい。でも、そのシカの糞は誰が掃除しているのか。それは「糞虫」だ(写真:著者撮影)

多くの歴史的建造物や文化財、さらには芝生広がる若草山などの美しい自然が残る古都奈良。春日大社や奈良の大仏など歴史を感じるスポットのほか、野生のシカと触れ合える奈良公園も全国的に知られている人気観光地だ。

なぜ、奈良公園はシカのフンまみれにならないのか?

奈良公園といえばシカである。人に慣れており、観光客が鹿せんべいを購入した途端われ先にと近寄って食らいついてくる。せんべいを与える前にお辞儀をするなど、ここならではの光景も見られる。

ふと視線を落としてみると、地面にはたくさんのフンが落ちていることに気づく。奈良公園に生息するシカの数は約1300頭といわれており、フンが落ちているのは当然だ。

しかし、シカの数に対してフンの量はさほど多くなく、ハエが大量発生している様子もあまり見ない。ならばこれらのフンは日々どのように片付けられているのか疑問が湧いた。

鹿せんべいの売店はたいていホウキを備えており、手すきの際は周辺のフンを清掃してくれているが、もちろんこれだけでフンをすべてきれいにしているわけではないだろう。一体どうなっているのか?

【画像14枚】なぜ、奈良公園はシカのフンまみれにならない? 「毎日約1トンの糞を分解」「奈良財政に100億もの貢献」をする“糞虫”の奥深き世界

この謎に答えをくれたのは、昆虫の中でも糞虫という実にユニークなテーマを扱う「ならまち糞虫館」。奈良公園からほど近い路地を散策していた際に見つけた昆虫博物館で、“フン虫王子”を自称する館長の中村圭一(なかむら・けいいち)さんが個人で運営している。


ならまち糞虫館の館長・中村圭一さん。着ているのは、オリジナルグッズである糞虫Tシャツ(写真:著者撮影)

なぜ、奈良公園はシカのフンまみれにならないのか? 中村さんが疑問に答えてくれた。

奈良公園は糞虫の聖地だった


「ならまち糞虫館」。昭和40年築の古家を改修した館内は、1階が展示室、2階にはイベントで使用するセミナールームや非公開の飼育室・研究室がある(写真:著者撮影)

―奈良公園はなぜフンまみれにならないのでしょうか?

それは糞虫のおかげなんです。奈良公園に生息する糞虫たちが、シカのフンを分解して粉にして土に還してくれています。

―糞虫はどんな昆虫ですか?

糞虫は「フンを食べるコガネムシの仲間」のことを指します。ファーブル昆虫記の影響から、糞虫と聞くと“フンコロガシ”を連想して、フンを転がすイメージを持つかもしれませんが、実は日本にいる糞虫の99%はフンを転がさないんです。

木に登らず地面にしかいないので爪が発達していないなどの特徴がありますが、言ってしまえば、フンを食べている普通のコガネムシです。


奈良公園に生息する糞虫たちが、シカのフンを分解して粉にして土に還してくれる(提供:中村圭一さん)

―大きさや見た目はどんな感じですか?

国内に生息するものだと、大きさは米粒サイズのものから3cm程度のものと比較的小さめです。見た目は、黒っぽい地味な色の種類が多いですが、金属光沢があり赤や緑、紫など地域によりさまざまな体色のあるオオセンチコガネなどもいます。

奈良公園には瑠璃色をしたオオセンチコガネがおり、通称「ルリセンチコガネ」と呼ばれています。大きさは12.4mm〜22.0mm程度で、瑠璃色に輝く体がとてもきれいで“日本で一番美しい糞虫”とも言われているんですよ。


ルリセンチコガネはレアであるが、奈良周辺のほか、伊勢神宮や熊野など三重の一部、屋久島などでも見られる。なぜか神秘的なところでよく見られているのが不思議だ(写真:著者撮影)

―糞虫は何種類くらいいるのですか?

日本国内では現在、約170種類の糞虫が見つかっています。その中でも奈良公園では約40種類と、日本で一番たくさんの種類が見つかっています。

世界中どこでも、動物のフンがある場所であれば糞虫は生息しています。しかし、水洗トイレが普及し、ペットのフンも持ち帰るのがマナーとなっている今の時代、日本では糞虫は身近な虫ではなくなりつつあります。

だからこそ、そこら中に餌となるシカのフンがあるという恵まれた環境が保たれてきた奈良公園は、数多くの糞虫が観察できる貴重な場所です。奈良公園は“糞虫の聖地”とも言われています。

糞虫は、鹿せんべいを食べたシカのフンを好む?

―奈良公園を散策しましたが、糞虫の存在に気が付きませんでした。こんなに活躍しているのにどうしてでしょう?

糞虫はフンの中に潜り込むか、フンの下に隠れている状態じゃないと落ち着かないんですね。そのため、フンの表面を見るだけでは見つかりません。木の枝などを使ってひっくり返したりほじくったりすると、わりと簡単に見つかります。

とはいえ、どんなフンにもいるわけではありません。排泄されて間もない湿り気が残っているようなフンだと見つかりやすいです。干からびたようなカピカピになってしまったフンにはいません。

―湿り気のあるほうがいいんですね。

狙いめは鹿せんべいを食べたシカのフンです。鹿せんべいを食べているシカは、野生のシカがするコロコロしたフンとは異なり、自然界では見られない柔らかくて大きな塊となるフンをするんですね。そうなると、フンの中が乾燥しにくく長くにおいが残ります。糞虫はフンのにおいをもとに集まってくるので、糞虫にとっては見つけやすく良いフンになるわけです。

しかし、そうした良いフンがある場所は鹿せんべいの売店の近くになるので、観光客も多く、踏まれるリスクが高いことなどから糞虫にとっては棲みづらいわけです。そのため、良いフンがあるのにその場所が糞虫にとっては棲みづらいんですね。需要と供給のミスマッチが起きています。

とはいえ、売店から少し離れた場所にも湿り気のあるフンはありますし、それをいくつか見れば糞虫は見つかります。


芝生に落ちているシカのフン。これは糞虫にとっていいフン?(写真:著者撮影)

ただし、ルリセンチコガネみたいな色やサイズ(12.4mm〜22.0mm)ばかりだと思っていると、見つけにくいかもしれません。黒くて1cmにも満たない糞虫がほとんどですので、それを意識したら見つけやすくなるかもしれません。

糞虫の経済効果は100億円!?

―こんなに小さな虫が、これだけの量のフンを分解してくれていたとは驚きです。

1頭のシカが1回約120gのフンを1日7回すると仮定すると、約1300頭のシカがいる奈良公園では毎日約1トンのフンがばらまかれる計算になります。それを糞虫が分解して土に還る手助けをしています。

シカがフンをした後、一晩か二晩ほどかけて糞虫がフンを分解すると、粉々というかおがくず状になり、人間に踏まれて芝生の間に入っていくという流れになります。そして、それが土への栄養となり、すくすく育った芝はシカによって食され、またフンになるという循環ができています。


このように、日々フンは分解され続けている(提供:中村圭一さん)

―フンを掃除してくれ、芝に肥料もやってくれて、ありがたいですね。

これを人の手で行おうとすると、約660ヘクタール(東京ドーム165個相当)を時給800円、1000人で掃除すると、年間23億円。それに粉砕、焼却して土に還す設備投資も考えると、一例ではありますが年間で100億円ほどかかるかもしれません。

昔に計算した数字なので、人件費が高騰している現在ではもっと大きな額になるかもしれません。

※編集部注 奈良県の令和5年度の最低賃金は936円。

100億については異論も大いにあると思いますが、糞虫について説明するときに、何か数字を入れると「この費用はもっとかかる」「もっと安くできるよ」など会話が広がって面白いんです。だから僕は数字を意識して説明に取り入れるようにしています。

―数字で伝えられるとイメージしやすいですね。

ちなみに、奈良の財政は現在50億円ぐらいの黒字なんですけど、もし糞虫の貢献に支払いをしなくてはいけなくなったら赤字に転落しますね(笑)。 糞虫たちの活動は、それほどのコストを無償提供してくれているということです。

奈良公園にはたくさんの観光客が来てくれて、お土産物屋、飲食店、ホテルが賑わっています。観光客の目当てはシカですが、糞虫がフンをきれいにしてくれなければ、お店の人は困るし、観光客も来てくれなくなるでしょう。気づかれないところで、奈良の財政に大きく貢献してくれているのです。

―奈良公園以外でも、こうした糞虫の活躍事例はあるのでしょうか?

はい。例えばオーストラリアで国の窮地を救った話が有名です。オーストラリアには、カンガルーなどのフンを食べる糞虫が生息していました。しかし、それらの糞虫は大きなフンの処理が得意ではなかったため、人間の持ち込んだ牛や羊など大量の家畜たちのフンは分解しきれず「糞公害」が社会問題化したことがありました。そのとき、1968年から1982年にかけて、国が主導で糞虫を導入しています。

ニュージーランドでも、家畜のフンが社会問題となり民間が主導となって糞虫を導入するなど、世界のいたるところで糞虫は活躍しています。

しかし一方で、外来種を持ち込むということに関して、生態系的な観点から疑問視する声もあります。

フンをほじくる奇抜な観察会が魅力

―中村さんの説明を聞いて、糞虫のすごさを知り興味を惹かれました。

糞虫の観察会を定期的に行っているので、もっと知りたい方にはぜひ参加いただきたいですね。フンを餌にする昆虫の採集ということもあり、一風変わった観察会ですが、いろんな方に来ていただいていますよ。

―どんな観察会をしているのでしょうか?

基本は奈良公園に落ちているフンを割りばしや木の枝などでほじくり、そこで見つけた糞虫を観察するという内容です。

今年は自身で主催する「親子糞虫教室」を始めてみました。採集と標本作りの2つからなっていて、月に1、2回ほど奈良公園周辺の糞虫を採集しに行き、捕まえた糞虫を使って、月にもう1、2回ほど糞虫館で標本作りをするという内容です。

こうした継続的な観察会を行い、顕微鏡を用いて「これはなんていう糞虫だ」と種類を同定し、1年間で30種類を見つけることを目標にしています。


観察会の様子(提供:中村圭一さん)

糞虫は観光資源になる

―今後の展望などはありますでしょうか?

糞虫は、奈良の魅力を伝える観光資源になると思っています。そこで、人材育成ではないですけど、奈良公園の糞虫の解説や観察会のガイドができる方が増えてくれればと思っています。

僕自身、小さい頃から糞虫の魅力にハマったこともあり、「糞虫の聖地である奈良に、糞虫の博物館を作りたい!」と思い、奈良公園の近くに糞虫館を作りました。だから糞虫についてもっと知ってもらう機会が増えるとうれしいです。


糞虫を採集しているときの様子(提供:中村圭一さん)


奈良に都ができて約1300年。自然豊かな奈良公園では、今も1トンものシカのフンが糞虫によって分解され続けている。多くの人が行き交う観光地、その地面では我々の気づかないところで自然のサイクルが日々繰り広げられていた。

そう思って奈良公園に足を運べば、シカだけでなく、地面に落ちたフンにも思わず目がいってしまいそうだ。

今回は、ならまち糞虫館の館長である中村圭一さんに、奈良公園がシカのフンだらけにならない秘密について話を聞いてきた。次回の記事では、“フン虫王子”こと中村さんがいかにして糞虫の虜になったのか、そして個人でならまち糞虫館を立ち上げるに至った背景について紹介する。

参考文献:中村圭一『たくましくて美しい糞虫図鑑』、創元社

ギャラリー


鹿せんべいの売店をよく見ると、ホウキとチリトリが必ずといっていいほど備えられている(写真:著者撮影)


これだけたくさんのシカがいると、フンの分解も大変だ(写真:著者撮影)


もの欲しそうな目をしているシカ(写真:著者撮影)


袋をあさるシカ(写真:著者撮影)


多くの観光客が行き交う東大寺への参道の様子(写真:著者撮影)


土の冷たさが気持ちいいのか、わずかな土がある溝で休むシカたち(写真:著者撮影)

(丹治 俊樹 : 日本再発掘ブロガー・ライター)