道長は傍若無人?紫式部に見せた意外すぎる素顔
平安神宮(写真:まっつん / PIXTA)
今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は紫式部とのやりとりから見えた道長の素顔や、紫式部の宮仕えのエピソードを紹介します。
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身を隠した紫式部に道長が取った行動
寛弘2年(1005年)頃、一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の娘)に女房(女官)として仕えた紫式部。彼女が記した日記を読むと、その宮仕えがどのようなものだったのかを知ることができます。
『紫式部日記』は、寛弘5年(1008年)秋、懐妊した彰子が、父・道長の土御門殿(邸)に滞在しているところから始まります。
道長の邸は、色づいた木々と池があり、風情があったようです。その邸では彰子の安産を願い、夜明け前から、祈祷する僧侶たちの声が聞こえてきます。紫式部の耳には「ものものしく、厳かに」感じられたとのこと。
夜が明ける頃に女房たちが参上してきた一方で、紫式部は、渡殿(渡り廊下)の戸口の局から外を眺めていました。
霧がうっすらとかかった、早朝。そのような時に、紫式部は殿(藤原道長)が、庭を歩いているのを見つけます。道長は供の者を呼び、遣水(庭園内に水を導き入れて流れるようにしたもの)のゴミを払わせました。それが終わると、道長は透渡殿の南側に爛漫と咲いていた女郎花(おみなえし)を一枝折り取り、そっと、紫式部が身を隠している几帳の上から差し出します。
道長は、庭を歩く自分を紫式部が見ていることを感知していたのかもしれません。そして(ちょっと、彼女を試してやろう)との気持ちで、一枝の女郎花を紫式部に差し出し、こう問いかけるのです。
「これ、遅くてはわろからむ」(この花はどうだ。返事が遅くてはよくないだろう)と。
女郎花を見て、お前(紫式部)は何を感じる、どう歌に詠む、道長は紫式部に咄嗟に課題を出したのです。紫式部の瞬発力と才知を試したというべきでしょうか。
道長が紫式部に差しだした女郎花(写真: 遊爺 / PIXTA)
紫式部は、すぐさま、部屋の奥にある硯のもとに走り寄ります。「女郎花盛りの色を見るからに露の分きける身こそ知らるれ」。このときに紫式部が詠んだ歌です。
「今が盛りの女郎花。秋の露が、花をさらに美しくしている。それを見ると、露の恵みを受けられず、美しくはなれなかった我が身を恥ずかしく思います」との意味です。
紫式部の作歌を知った道長は「素早い」と微笑むと、硯を局の外へ持ってくるよう命じます。そして、自らも歌を詠みました。
「白露は分きても置かじ女郎花 心からにや色の染むらむ」。これが、道長の紫式部への返歌です。
「白露はどこにでも降りる。その恵みに分け隔てなどはない。女郎花は、自分の美しくあろうとする心により染まっているのだ」との意味です。
心がけ次第では、紫式部もなかなかの美しさである、ということを道長は言いたかったのでしょうか。女郎花を几帳の上から差し出した道長の姿を紫式部は「とても立派だ」と称賛しています。
権力者のイメージとは異なる道長の姿
紫式部は宮仕えする前から、多くの歌を詠んできたため、その経験が今回役に立ったのだと言えましょう。紫式部の歌に素早く返歌する道長も、なかなかのものです。
道長といえば「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば」(この世で自分の思うようにならないものはない。満月に欠けるものがないように、すべてが満足にそろっている)の歌が歴史の教科書にも載り、傍若無人な権力者のイメージを持つ人もいるかもしれません。
しかし紫式部の日記に記された道長の姿からは、彼の遊び心と機知が見て取れます。
さて、道長との逸話の次には、道長の嫡男・藤原頼通が登場します。静かな夕暮れ時。紫式部は、宰相の君と2人で話していました。そこに、殿(道長)の三位の君(頼通)が、簾を上げて、入ってくるのです。
頼通の母は、中宮・彰子と同じ源倫子。頼通はこの時、17歳でした。簾を上げて入ってきた頼通は、局の上り口に腰をかけます。
紫式部によると、頼通は「年の割にとても大人びて、深みのある様子」で「女性は、やはり気立てがいちばん。しかし、性格がいいということは滅多にない」などと、恋の話をしっとりと語っていたようです。
子どもっぽいとバカにされた頼通だったが…
頼通のことを、人々は「子どもっぽい」と陰でバカにすることもあったようですが、紫式部は頼通の言動を見て「そのような考えこそ誤りだ」と感じていたようです。
もう少し話したら打ち解けそうな頃合いで、頼通は「多かる野辺に」(美女が大勢のところに長居したら、好色だと噂されてしまいましょう)と口ずさむと、さっと席を立ちました。紫式部はその姿を見て「物語で褒めそやされている男君のようだ」と頼通への好感を抱きました。
若き頼通の雅さが際立つ逸話です。紫式部は当初(宮仕えは気が進まぬ……)と思っていたことがありましたが、道長や頼通との交流を通して(ちょっといいかもしれない)と感じ始めていたかもしれません。
ちなみに、頼通が簾を上げて部屋に入ってくるときに、紫式部が語り合っていた宰相の君とは、藤原豊子のこと。道長の異母兄・藤原道綱の娘です。
宰相の君は、紫式部と同じく中宮・彰子に仕えており、これから産まれる彰子の子ども(敦成親王、後の後一条天皇)の乳母となる人物。宰相の君は上臈女房と呼ばれる、身分の高い女官でした。女房の身分は、上臈・中臈・下臈に分かれており、紫式部は中臈女房でした。宰相の君は、式部にとって、上司というべき存在だったとも言えるのでしょうか。
『紫式部日記』に記される式部と宰相の君との逸話はほかにもあります。
御前から局へ下がる途中、紫式部は宰相の君の戸口をそっとのぞいてみました。すると、宰相の君は、お昼寝の最中。萩や紫苑など色とりどりの衣を中に着て、つやつやの打ち衣を上に羽織り、硯の箱を枕に眠っています。
「小さくのぞいた額のあたりがとても可愛らしく若々しい。絵に描いたような立派なお姫様」。紫式部は宰相の君のお昼寝姿をそう評しています。
信頼関係があった宰相の君と紫式部
そのまま通り過ぎるかと思いきや、紫式部は、宰相の君の衣を引きのけ「物語の女君のような感じですね」とつぶやきます。当然、宰相の君は目を覚まして、顔を朱に染めつつ「ひどいですね。寝ている者を前触れもなく起こすなんて」と返します。
2人の間に、信頼関係があったからこその会話でしょう。宰相の君も、本気で怒ったわけではなさそうです。朱に染まる宰相の君の顔を見て、紫式部は「整って素敵でした」と書いています。案外、紫式部は宮仕えを楽しんでいたのではないでしょうか。
(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)
(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)