Z世代を通して見えてくる社会の構造とは(写真:8x10/PIXTA)

若者と接する場面では、「なぜそんな行動をとるのか」「なぜそんな受け取り方をするのか」など理解しがたいことが多々起きる。

企業組織を研究する経営学者の舟津昌平氏は、新刊『Z世代化する社会』の中で、それは単に若者が悪いとかおかしいという問題ではなく、もっと違う原因――例えば入社までを過ごす学校や大学の在り方、就活や会社をはじめビジネスの在り方、そして社会の在り方が影響した結果であると主張する。

本記事では、前回、前々回に続いて、著者の舟津昌平氏と教育者である鳥羽和久氏が、Z世代を通して見えてくる社会の構造について論じ合う。

社会が設定した欲望を自分の欲望と思い込む

鳥羽:舟津さんの本の中に、「楽しい仕事に就くのではなくて、楽しさを見つけるように生きることで、我々は簡単に消費されない楽しさを享受することができる。教育とはそのためにあるものだ。楽しさを発見する過程を支えるためのものだ」という言葉がありましたが、本当にそのとおりだと思いました。


若い世代に限ったことではありませんが、受験でも就職でも、どのような選択をするかに気を取られすぎて、自分が選択した先をいかに肯定できるか、という肝心なところが意外と考えられていないし、誰も教えてくれないですよね。だから、舟津さんのここの視点にはとても共感しました。

舟津:ありがとうございます。

鳥羽:選択に踊らされることの問題点は、資本の欲望というか、社会が設定した欲望に絡め取られてしまうこと。それって実は自分の欲望ではないんですよね。子どもたちと話していると、進路先の選択でも実は行きたい理由をちゃんと掘り下げられている子ってとても少なくて、その証拠に経営学部に行きたいって言った子に、「じゃあ、経営学部と経済学部、何が違うの?」って言ったら、ほぼ100%が答えられないんですよ。ほとんど雰囲気か偏差値で選んでいる気がする。

舟津:私は両方の学部で働いたことがありますけど、間違いないですね(笑)。


舟津 昌平(ふなつ しょうへい)/経営学者、東京大学大学院経済学研究科講師。1989年奈良県生まれ。2012年京都大学法学部卒業、14年京都大学大学院経営管理教育部修了、19年京都大学大学院経済学研究科博士後期課程修了、博士(経済学)。23年10月より現職。著書に『制度複雑性のマネジメント』(白桃書房、2023年度日本ベンチャー学会清成忠男賞書籍部門受賞)、『組織変革論』(中央経済社)などがある。

鳥羽:雰囲気か偏差値って、まさに世間が作った欲望に踊らされている証拠だと思うんですよ。きっと就活も同じような仕組みがあるのでしょう。「楽しさを発見する過程を支える」っていう部分が高校でも大学でも顧みられていない。こういう自己疎外によって社会になじんでいく仕組みが昔から受験をはじめとする教育制度には組み込まれていて、それが若い人たちを不幸にする原因になっているんじゃないかと思います。

舟津:「欲望」という言葉でうまく表現していただき、ありがとうございます。基本的に人は欲望のとおりに動くもので、欲望は最も強靭な原動力だと思っています。だけど、いい大学や会社に入るというのは、およそ社会に設定された欲望なんですよね。「あなたたちはこの大学/会社に入らないと幸せになれないですよ」っていう。特に受験の場合は、親御さんの欲望も大きいと思います。

加えて、受験産業の方々は合否にしかインセンティブを設定しないので、入学までしか面倒みない。それは当たり前です。かくして社会が設定した欲望は、入学時点で充足される。ところが受験生当人にとっては、入った後のほうが絶対に大事なはずなんです。

鳥羽:そのとおりです。学生たちもそれに気づかず、周りの期待に応えているだけなんです。

お金を払った瞬間しかビジネスは面倒をみない

舟津:楽しさを見つけるっていうのは、自分の欲望を満たすように生きることであって、実はそれなりに経験や訓練を積まないと見えてこないもののはず。「これいいな」と思えるものを発見するのは簡単ではないんです。

そういう意味でテーマパークっていうのは、聞けば聞くほど欲望の解放がうまいと感じます。授業の題材にしたとき、USJやディズニーランドの魅力を語って止まらない学生の多さに驚きました。学生たちは教科書の数千円は躊躇しますが、USJの年パスにはすっとお金を出す。

鳥羽:そうなんですか。USJってそんなに面白いんだ。行ってみたくなりました(笑)。

舟津:ただ、それは高いお金を出した一瞬しか得られないものです。だから、人生をテーマパークのように楽しむことはできない。やっぱりテーマパークほどビジネス依存ではないものを探せるようになってほしいなとは思います。ビジネスは、お金を払った瞬間しか面倒をみないのが当たり前なんだから。

鳥羽:そうですよね。もう高校生くらいになれば、そうした経営的なネタバレは知っていたほうがいいような気がします。私も塾に来ている高校生には、「基本的に教育産業っていうのは不安を売る産業だから」というのを平気で言っています。「だって、大学受験が心配だから来てるわけだけど、実はそういう将来への不安ってある程度作られたものなんだよ」と。

でも、それを聞いて子どもたちのやる気がなくなるかっていうと、全然そうじゃない。むしろ自分なりの納得の仕方を見つけようとする。だから、高校生くらいの年齢にもなれば、そのからくりは伝えていいと思う。ビジネスのノリを真実と受け取って不幸になる子もいると思うので。

入っただけで無条件に幸せになれるわけではない


鳥羽 和久(とば かずひさ)/教育者、作家。1976年福岡生まれ。専門は日本文学・精神分析。大学院在学中に学習塾を開業。寺子屋ネット福岡代表取締役、唐人町寺子屋塾長、及び単位制高校「航空高校唐人町」校長として、小中高生150名余の学習指導に携わる。著書に『親子の手帖 増補版』(鳥影社)、『おやときどきこども』(ナナロク社)、『君は君の人生の主役になれ』(筑摩書房)など。

舟津:間違いないです。大学受験で人生が決まると信じ込んで、頑張りきって、「よし、自分は幸せのルートに乗っている」と思って入学してみると、無条件で幸せになれるような場所はどこにもない。拍子抜けするでしょうね。

鳥羽:実際それで大企業を辞めた卒業生もいますし、東大・京大を辞めた子もいます。たぶん、受かったら幸せが待っているような気持ちがどこかにあったんでしょうね。

舟津:東大だと、「自分が東大生だと思うだけで幸せであり続けられる」って人はいるみたいですけど(笑)。あえて言うと、だいたいキャンパスライフなんて期待したどおりにはなりません(笑)。サークルや遊びなど、想像通りの平凡な楽しみは享受できる。でも、それは別にどの大学でも同じようなものですし、入学した時点で圧倒的な手応えを得られるわけがないと思いますね。

鳥羽:それなのに、それを期待して入る子がいるんですよね。頑張った見返りがちゃんとあるはずだって信じている。でも、それは受験産業や学校に責任があるとも思いますけどね。

舟津:そうなんですよね。受験産業や学校は、どうしてもその内情の発露をタブー視します。でも、経営学はそのタブーをばらす学問でもあります。企業側はビジネスとして、こういう構造であなたたちの欲望を掻き立てているんだよと。

鳥羽:子どもには、大人の考えていることが最初からうすうすバレていますからね。うすうすバレてるけど建前だけはあるということが、大人と子どもの関係を守っている側面もあるわけですが。ただ、こういう経営の話は、ある程度の年齢以上になればそれを伝えたとしても幻滅することはないし、むしろ自分のポジションを確認するために必要なことだったと感じる子もいるでしょう。

学問を信じる力が自分を信じる支えになりうる

鳥羽:今の教育のお話に関連するものとして、舟津さんの本を読んでもう一ついい言葉だなと思ったのが、「内定がなかったとてどうにかなるのだ、という余裕を持つために、知性へのゆるぎない信頼を持つために、教育がある」というものです。この点について詳しくお話をお聞かせ願えますか。

舟津:この一文では、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という著名なフレーズをイメージしました。このフレーズを解説した本に「あらゆるものを疑った末に、自分の思弁だけは疑いようがなかったという、知性への絶対的信頼を表現している」という解釈があり、とても心に響いたんです。哲学的に深く考えていくと、あらゆるものが疑わしくなる。しかし、考えている自分自身の存在だけは確信できうる。それが知性へのゆるぎない信頼なんだと。

もう一つの意味は、実は自己投影でもあります。私はいわゆるポスドクといういろいろ不安定な身分のなか、自分は社会で胸を張って生きてはいけないんだろうな、という疎外感をもちながら過ごした時期がありました。私は正直、社会にあまり馴染めなかった人間なんです。今も、馴染めている自信はさしてありません(笑)。

その経験を通じて、どうやったら生きていけるのか再考したとき、安定した職を得ることは当然必要です。それは社会が設定した欲望とも一致します。「まともな人間は大学を4年で出て就職して、いい会社に入って、成長ややりがいを感じて」っていう。

ただ、大学が確実に就職予備校になりつつある現代で、映画監督の是枝裕和さんが「お気に入りの城」って表現されたような、個々人が、この城を守れていたら自分は大丈夫なんだと思えるようなことを、学問や教育は伝えることができるはずなんです。

舟津:仮にフーコーが大好きで、フーコーへの信頼があって、自分の中にフーコーが内面化されているなら、いかようになっても「フーコーがおればええねん」という気持ちで生きていけるんじゃないかなと。学問を信じる力が、その学問を修めた自分を信じる力になると思うんですよね。それは根拠のない自信かもしれませんが。

鳥羽:ビジネス化された社会は根拠のない不安をあおるけど、それなら根拠のない自信を持てばいいんだって、本の中にありましたね。

舟津:例えば厳しい部活動を乗り切ったから仕事ができるわけではない。でも、あんな厳しい経験をしたんだから自分は何とかなるだろう、と思えることってありますよね。そういう礎となるような信頼を、大学で教えられたら一番いいんじゃないかなっていう。理想論、希望論ですけど。

社会が設定した欲望以外の文脈ができる

鳥羽:学問の強みっていうのは、専門的な知識に触れることで自分がこれまで手にしていなかった新しい言葉や概念が入ってくることだと思うんですよ。親から譲り受けた言語圏にはない、新たな言葉が立ち上がる。こうして社会的な欲望や親の欲望とは別の文脈がつくられることが、結果的にその人の生きる支えになることがあるのでしょう。各学問における専門用語って、ステークホルダーとかゲゼルシャフトとかよくわからない言葉なのがいいですよね。そういう言葉がポンポン入ってくる、ということがポイントなんだと思います。

舟津:なるほど。たしかに高校までの人生というのは、必然的に親の欲望と社会が用意した欲望で生きていることが多い。だけど、やっぱり自分自身の欲望を見つける必要がどこかで生じて、そのヒントを大学が学問的な言葉という形で与えてくれるんですね。

鳥羽:そうなんですよね。ただ、言葉を与えるタイミングも重要です。早すぎると、実感がないまま言葉を覚えてしまい、後から得た実感をその言葉に当てはめてしまう。逆に世界が狭くなることもあります。だから、高校生ぐらいの煮詰まった時期に新しい言語をドバドバと与え始めるのが良いのかなと考えています。

舟津:今すごく納得できたことがあります。以前、ガチャの話を記事にしたとき、「そんなことぐらいみんなわかっているよ」とか、「面白がって使っているだけ、わざわざ記事にするほどなの?」という意見が見受けられました。既に経験を積んだ人たちは、ガチャといった言葉を理解し消化できる。一方で、あまりに早い段階でその言葉を与えられた人たちは、すべてをその言葉で回収する傾向が生まれてしまう。

鳥羽:そうですね。小学生が「親ガチャ爆死」とか言ってるのを聞くと頭を抱えてしまいます。親にはいろんな側面があるのに、言葉だけが先行してしまう。

舟津:それこそが、「教育に悪い」ということなんですよね。自分の親と馴れ合えるくらい関係を消化しきった大人たちが「親ガチャ」と言うのと、小学生が「親ガチャ」って言うのはまったく意味が異なります。きっと「ハラスメント」とか「差別」も一緒で、言葉と経験が重なって、リアルなものとして自分の中に蓄積されていかないと、すべて言葉に回収されていく。

嫌な気持ちになったり怒鳴られたりした経験を重ねた後に「ハラスメント」という言葉を覚えたら、「これはそれだな」「これは違うだろうな」っていう判断基準が身につくのに対して、先に言葉を覚えると、何でもそこに帰着してしまう。

何もかもハラスメント扱いの弊害

鳥羽:本当にそこが問題なんですよね。いまは「男性性」への風当たりがほとんど無条件に強いところがあって、真面目な若い男性の中には、自らの男性性を否定するあまりに苦しくなって鬱になっている人もいます。その人たちは自分の欲望が全否定されたように感じていて、自分なんて生きる甲斐がないと本気で信じているところがあります。

舟津:それはすごくわかります。今の社会的な望ましさ、社会が設定した欲望に従うと、男性性を出さない人のほうがウケる感じがある。真面目な人はそれを文面通り受け取ってしまって、「自分から男性性を消せない」とか悩んでしまうんだけど、かたや男性性なんて消えないに決まっていることをわかって、しれっと演じられる人もいる。

鳥羽:学校の話でいうと、受験直前に生徒たちと「頑張れ」って教室で握手をしただけで、学校から注意された先生もいるんですよね。「女子生徒と握手するなんて」「今の時代は男子生徒でもダメだ」とか。でも、その先生は関係性ができているからいいと思ったんですよ。励まされた子も多いと思います。でも、学校からは注意されてしまった。

舟津:純粋に「頑張れ」と握手することに性は介在しないのに、それを問題視することで、かえって生徒にも先生にも、「これって性的なのかも」と感じさせてしまう。真面目な人ほど、真摯にそう苦悩すると思います。

鳥羽:そうなんです。真面目な人ほど「純粋な『頑張れ』とかあるのか?」とか考え出してしまって、変な反省が生まれてしまう。何でもかんでも問題にする風潮が強まっていますが、結局のところは事なかれ主義です。

判断力を身につけるために学問や教育がある

舟津:頑張れは原義がよくないとか、かえって追い詰めるとか、よく言われますよね。頑張れは頑張れだろうがと(笑)。唯言に囚われるんじゃなくて、頑張れって言ってくれた相手を見てほしいですね。それらは作られた規範であって、実は誰も本気でそんなこと思っていない。本気で思ってないのに、「誰かが気にするかもしれない」と判断を留保する。だとしたら、自分の中でそれが判断できるようになるために、学問や教育があるべきです。異性の先生に握手されたとして、異性だからとかじゃなくて、本当に生徒を励ましたい気持ちかどうかを判断できるように成長していってほしい。

鳥羽:そうですね。ただ、この状況が元に戻ることはないんでしょうね。空気という名の監視社会がどんどん強くなっていくでしょう。

舟津:たしかに。巧妙に空気化された監視社会というか、何から何まで監視しようという風潮は、ますます加速していくでしょうね。

でもそれは、ぼんやりと全体を覆う空気でしかないとも思うので、個々人が互いに理解し合っている関係のあいだならば何とかコントロールできて、違った空気の中で呼吸ができる気もしています。ビジネスをはじめ社会が設定した欲望にまみれ、いかなる場面でも演技を求められる社会で、自分の欲望をいかに発見し、生き方とどう呼応させていくかがカギになりますし、我々はそのために学んでいくべきだと思っています。

(鳥羽 和久 : 教育者、作家)
(舟津 昌平 : 経営学者、東京大学大学院経済学研究科講師)