1980年代のアメリカには公衆電話から小銭を盗み続けて年間100万ドル(約1億6000万円)を稼いでいた公衆電話泥棒が存在していました。犯人は州をまたいで移動しながら独自開発の解錠装置を駆使して泥棒行為を続けていたそうです。

Pay-Phone Thief's Odyssey Touches Companies for $500,000 - Los Angeles Times

https://www.latimes.com/archives/la-xpm-1987-12-08-me-27444-story.html

Phone Companies Seek Coin Thief

https://www.oklahoman.com/story/news/1988/02/14/phone-companies-seek-coin-thief/62661920007/

The ‘Pay Phone Bandit’ Who Baffled the FBI in the ’80s

https://www.mentalfloss.com/posts/pay-phone-bandit-baffled-fbi

数多くの公衆電話から小銭を盗み続けていたのは、オハイオ州生まれの「ジェームズ・クラーク」という人物です。クラークは1968年に偽札事件の犯人として逮捕され、懲役3年の刑に服したとのこと。そして、出所から10年が経過した1980年代に公衆電話泥棒を始めました。

クラークは機械工として働いていた経験をいかして公衆電話用の解錠装置を作成。公衆電話の種類によって錠前の方式は異なりますが、クラークはベル系列の公衆電話に的を絞っていました。解錠装置の具体的な仕組みは公表されていませんが、クラークは「特製の器具で公衆電話の代金ボックスに入っている小銭の量を確認し、電話に熱中する演技をしながら代金ボックスの保護プレートを解錠装置で取り外して、代金ボックスを取り出してからプレートを元に戻す」という手法で小銭を盗み続けていました。



当時の公衆電話は代金ボックスがなくても正常に動作したため、係員が代金を回収するためにプレートを取り外すまでは泥棒に気付かれることはありませんでした。係員が代金を回収に来るまでにクラークは遠くの地域に移動していたため、クラークを捕まえることは困難でした。クラークはおもに幹線道路沿いの公衆電話を狙っており、30の州を移動しながら公衆電話泥棒を続けていました。クラークは盗んだ金を食事代や宿泊代に使っており、ホテルに宿泊する際はベルにちなんで「ジェームズ・ベル」という名前を使っていたそうです。

当時の公衆電話には1台当たり約150ドル(約2万4000円)程度の小銭しか収まらなかったため、公衆電話を対象にした泥棒事件は少なかったとのこと。しかし、クラークは州をまたいで移動しながら大量の公衆電話から小銭を盗み続けており、年間被害額は約100万ドル(約1億6000万円)に達しました。



クラークの目撃例は各地に残っており、そのほとんどで「身長が約5フィート9インチ(約174cm)で、野球帽を深くかぶり、金縁眼鏡をかけていた。帽子の後ろからはポニーテールがはみ出ており、ズボンの裾からカウボーイブーツが見えていた」という特徴が一致していました。また、「支払いには、何束もの25セント硬貨を使っていた」ということも特徴的な点として報告されていました。

州当局やFBIの捜査は難航していましたが、1985年には情報提供者によって「クラークについて詳しく調べるべき」という情報が寄せられました。捜査当局は捜査令状を持ってクラークが住んでいたトレーラーに突入。クラークの姿はなかったものの、「泥棒の練習用と思われる公衆電話の錠前」が発見されました。その後、クラークの逮捕状が全国的に発行され、1988年8月にクラークはカリフォルニア州で逮捕されました。

クラークの犯罪は全国的なものだったため、裁判手続きが非常に煩雑なものとなりました。クラークは最初にオハイオ州の裁判で罪を認めたものの、このとき罪に問われた窃盗は5件のみで、5件の窃盗の合計損害額はわずか500ドル(約8万円)だったとのこと。クラークはオハイオ州の裁判では3年の懲役刑を言い渡され、その後、1990年には追加で3年の刑に服すことになりました。なお、クラークは2012年に亡くなったそうです。