日本を代表するオフィス街ながら、最近はショッピングスポットとしても人気の東京・丸の内。なかでも、「丸ビル」「KITTE丸の内」は、かつてあった名建築が建て替えられたものです。そんな人気スポットの建て替え前の姿を、これまで2500棟余りの近代建築を撮影してきた建築写真家・伊藤隆之さんに、貴重な写真とともに紹介してもらいました。

ビジネスと買い物客でにぎわう街「丸の内」

東京駅西側の一帯は「丸の内」と呼ばれ、日本最大のビジネス街。しかし、「丸ビル」の愛称で親しまれている「丸の内ビルディング」や、「丸の内KITTE」として知られている「JPタワー」などの、オフィスのほかに多くの店舗も入る複合ビルがオープンしたことで、ションピングエリアとしても人気を集めています。

『もう二度と見ることができない幻の名作レトロ建築』(扶桑社刊)の著者で、今まで2500棟以上の近代建築を撮影してきた建築写真家・伊藤隆之さんによると、じつはこれらの超高層の複合ビルは、日本の建築史上重要な、名作建築がその面影を残して建て替えられた建物なのだとか。

そんな、もう二度と見ることができない建て替え前の名作建築を、伊藤さんの貴重な写真とお話で振り返ります。

昭和という時代を象徴する名建築「丸ノ内ビルジング」

現在の超高層ビルに建て替えられる前の丸の内は、建物の高さが31m(100尺)に統一されていました。

日本初の本格的なオフィスビルとして建設された「丸ノ内ビルヂング(通称「丸ビル)」。延床面積18286坪、高さ33.3m、地上8階・地下1階建てのこのビルは、大正12年に大規模な都市型複合ビルとして完成しました。

ビルの施工は当時、鉄骨鉄筋高層ビル建設の先進国であったアメリカのフラー社に依頼。クレーンや杭打機など最先端の機械力と建設技術を駆使することで、建設工期の大幅な短縮を可能にする工事に、日本の建設関係者は目を見張りました。

しかし、フラー社が設計製作して送ってきた建設用の鉄骨が細かったため、ビル完成の半年後に東京を襲った関東大震災により、内外壁に亀裂が入るといった破損が発生。地震国である日本の建設事情を甘く見たフラー社の落ち度でした。

とはいえ、この「丸ビル」の被災が契機となって、アメリカ式建設方法の直輸入ではない、それ以降のわが国独自の耐震理論の構築と、その実践が進むことに。

●戦前までは「東洋最大」のビル

丸ノ内ビルヂング「東側正面」。特徴的なアーケードのエントランスは、建て替えられた「丸の内ビルディング」のショッピングモールのインテリアデザインに継承されています。

日本で初めて1階にショッピングモールを設けた複合ビルの走りで、戦前までは「東洋最大」のビルと呼ばれていました(現在は37階建ての高層ビルに)。

昭和時代に私が初めて「丸ビル」にカメラを向けたときは、丸の内の周辺のビルも8階建ての高さ。空はとても広く感じられ、オフィス街ゆえに日曜日は人や車の往来が少なくなりますが、あの静かで閑散とした街の雰囲気が好きでした。

現在は高層ビルが林立。休日ともなるとたくさんの人が訪れる、丸の内のにぎやかさは、とても同じ場所とは思えません。

こちらは、「東側玄関」部分。一見シンプルな外観のビルに見えますが、近づくと、エンパイアステートビルなどでも有名な、幾何学図形をモチーフにした簡潔で合理的な表現が特徴のアール・デコの装飾が見られます。

玄関上部のステンドグラス。現在の建物ではなかなか見られない美しい装飾も近代建築を見る楽しみのひとつ。

●新旧のよさが残る「丸ビル」

震災後に改修工事が行われ、本格的に丸ビルが稼働したのは大正15年の7月のこと。

数々のオフィスが入ったこのビルでは3万人のサラリーマンが働き、1階と地下には当時としては珍しいショッピング・アーケードもあり、丸ビルに出入りする人は1日に10万人以上といわれました。

オフィスビルの嚆矢(こうし)である「丸ノ内ビルヂング」でしたが、三菱地所から取り壊しの発表があったとき、建築関係者や学者、市民団体によって取り壊し反対の運動が起こったものの、運動の甲斐なく平成9年に取り壊されました。

新たに完成した「丸の内ビルディング(丸ビル)」の低層部分の外観の構成に、「旧丸ビル」の面影が残っています。

<Architect Data>

所在地:東京都千代田区丸の内
設計:三菱合資会社地所部(桜井小太郎)
施工:フラー社(米国)
竣工年:大正12年(1923)
解体年:平成9年(1997)

外国人建築家にも高く評価。日本最大規模のモダニズム建築

日本における初期モダニズムの名作として、近代建築史にその名を刻む「東京中央郵便局」。昭和8年に来日したブルーノ・タウトや日本で活躍したアントニン・レーモンドといった外国人建築家にも高く評価されました。

当時、先進的な視点による設計活動で日本の建築界に新風を吹き込んだ逓信省(ていしんしょう)経理局営繕課の旗手だった吉田鉄郎氏が設計を担当。ヨーロッパ建築界の変化や潮流を吉田は機敏に汲み取り、日本で最大規模のモダニズム建築が完成しました。

これによってわが国は建築においても先進国であることを世界に示すことができ、「東京中央郵便局」は吉田氏の代表作ともなりました。

台形の敷地に建つ「東京中央郵便局」は、東京駅前広場に接した2面の正面の間を屈曲させて長大なファサード(建物全面のデザイン)を展開し、スパン6mで並んだ柱と梁の構造体を表層に現しています。

その分割した間には大きな窓がはめ込まれ、上階に行くほど窓の高さを低くして変化を与えており、4階と5階の間に配している胴蛇腹が全体を引き締めています。

●平成20年。高層ビルへの改築する計画が発表

このモダンで張りをもったデザインの局舎は、東京に集まる膨大な郵便物の処理業務のセンターとして長年使用されていましたが、平成20年に日本郵政株式会社により高層ビルに改築する計画が発表されました。

再開発の着手直後にここを視察した当時の総務相であった鳩山邦夫氏が、「重文の価値のある建物をそうでなくすることはトキを焼き鳥にして食べるようなこと」と発言。

そのため、工事が一時中断するなど、再開発問題は政界を巻き込む形で物議を醸しましたが、駅前広場に面した東京中央郵便局の壁面を保全して高層建築を載せた「JP タワー」が平成24年に竣工。

この建物の完成により、東京駅前のビルはすべて高層化しました。

東京中央郵便局の館内を撮影したのは建物閉鎖後でしたが、驚いたのは1階から3階にある郵便物の仕分けや発送の業務を行っていた現業室の広さでした。

東京に入ってくる膨大な郵便物を処理するために、フロアの3分の2を現業室が占めていました。がらんどうになったその大空間を支えるために並ぶ108本もの柱は、まるで森に林立する巨木のようで、じつに壮観でした。

<Architect Data>

所在地:東京都千代田区丸の内
設計:吉田鉄郎
施工:銭高組、大倉土木
竣工年:昭和6年(1931)
解体年:平成20年(2008)