ソウル・西江大学で、唐十郎さんが1972年3月に上演した「二都物語」の一場面(写真・菱木一美氏提供)

アングラ演劇の旗手で、演劇界の鬼才だった唐十郎さんが2024年5月4日に亡くなった。84歳だった。私が共同通信のソウル特派員をしていたころ、先輩記者の菱木一美氏(共同通信ソウル支局長、外信部長、広島修道大学名誉教授)から頼まれて、唐さんをソウルの南大門市場などを案内したことがある。

唐さんの死後、唐さんの演劇活動が日本のメディアでいろいろ紹介されたが、それでもあまり紹介されていない、韓国の詩人・金芝河(キム・ジハ)さんとの「接点」について紹介したい。その金芝河さんも、2年前の2022年5月8日に81歳で亡くなった。唐さんは1940年2月生まれ、金芝河さんは1941年2月生まれでほぼ同世代だ。ともに2月に生まれ、5月に亡くなった日韓の2人の「異端児」がどう交わり、どうすれ違ったのか。(以下、敬称略)

伝統文化運動を主導した金芝河

金芝河は日本でも翻訳され話題となった長編詩『五賊』をはじめ、1960〜1970年代の朴正熙政権を強く批判した「抵抗詩人」として知られる。

しかし、金芝河は詩だけでなく、戯曲、評論、東学研究、生命思想など多彩な分野で深い業績を残した人だ。少年時代は画家を志したが、母の反対で結局、1959年3月にソウル大学美術学部美学科に入学した。

だが美術学部が文理学部に統合され、文理学部にいた政治的関心の強い友人との交流が深まった。そうした中で、金芝河は「ウリ(われわれの)文化研究会」などをつくり、伝統文化に基盤を置きながら、鋭利な政治的批判精神を深めていった。

「マダン(韓国語で庭、広場を意味する)劇」や「仮面劇」など伝統文化の形式を通じた、鋭い状況批判や風刺を含んだ文化運動を展開していった。金芝河もまた演劇青年だった。

1964年に、朴正熙政権の対日政策に反対し、「弔・民族的民主主義葬儀」を主導し、朴政権が掲げた「民族的民主主義」を全面的に批判する弔辞を作成した。朴政権の「民族的民主主義」の葬式をするなど、当時は誰も考えつかない手法で朴政権を批判し、4カ月間投獄された。

金芝河は1970年5月に雑誌『思想界』に「五賊」を発表、同年12月には最初の詩集『黄土』を出版したが発禁となった。「五賊」は財閥、国会議員、高級公務員、将軍、長官次官の「五賊」をパンソリ(李朝後期に生まれたとされる、伝統的な節に合わせて即興的に演じるもの)の節に合わせて痛烈に風刺した。

「五賊」を掲載した『思想界』は廃刊になり、金芝河は反共法違反で起訴、投獄された。しかし、拘禁1カ月後に肺結核が再発し保釈された。

アングラ演劇の旗手、唐十郎

一方、唐十郎は1958年に明治大学文学部演劇科に入学したが、在学中から学生劇団「実験劇場」で俳優として活動した。1963年には劇団「シチュエーションの会」を旗揚げし、翌1964年には「状況劇場」に改名した。

1967年に東京・新宿の花園神社境内にて初の紅テント公演を行い、「天井桟敷」を主宰した寺山修司(1935〜1983年)とともに「アングラ演劇の旗手」とされた。

唐十郎は1969年に「状況劇場」の沖縄公演をしようとした。しかし、当時の妻であり演劇活動のパートナーであった女優、李礼仙(1942〜2021年、後に李麗仙と改名)は在日韓国人であり、当時アメリカの管理下にあった沖縄へのビザが下りなかった。

唐十郎はこのことを内在的なモチーフにし、1972年にソウルと東京を結ぶ「二都物語」を書いた。唐十郎はその最初の公演をソウルでやろうと考えた。

唐によると、「二都物語」は「幽霊民族である日本人の地下水をたどり、その根源をさぐることによって現代の日本人を検証しよう」というものであった。ソウル公演の準備のために唐十郎氏は2度、訪韓した。しかし、韓国側の演劇人は当時の戒厳令下の状況から「それは無理だ」と言った。

しかし、唐十郎氏は現場に行って上演を考えようと1972年3月に2週間のビザで訪韓した。この「海峡遠征隊」に参加したのは唐十郎、不破万作(1946年〜)、李礼仙、根津甚八(1947〜2016年)、大久保鷹(1943年〜)の5人だった。

2週間の観光ビザで演劇を上演することは難しかった。監視を逃れるため、旅館を4回も変えた。ソウルでの上演を目指そうと試行錯誤し、ようやくたどり着いたのが金芝河だった。

唐十郎に金芝河を紹介したのは当時の共同通信ソウル特派員だった菱木一美だった。菱木は東京外国語大学で演劇部に所属した元演劇青年で、唐の話を聞き、同じ異端演劇人の金芝河を紹介した。唐十郎氏が金芝河氏と会った日も、金芝河は当局に2日間拘束されて解放されたばかりだった。

当時、中央公論社の文芸誌『海』の編集者だった作家の村松友視は唐十郎に注目し、一緒に訪韓した。一行は「二都物語」の稽古を村松のホテルの部屋でやった。村松は当時のことを、こう述懐する。

「『二都物語』の稽古は、ホテルの私の部屋で行われ、ダブルくらいの部屋に唐十郎一家の5人と金芝河一家の4人が寄り集まり、英語、日本語、韓国語が飛び交う不思議な稽古風景となった。稽古のあとは酒宴となり、唐十郎は李礼仙を頭上にかつぎ上げて回転させ、かつての金粉ショー・ダンサーとしての時間をよみがえらせた。これに対して金芝河は、若い仲間にアイス・ボックスを叩きながらの『アリラン』を歌わせ、自らはそれに合わせて激しい踊りを披露した。『二都物語』の公演は(先に帰国して)見ることができなかったが、あのホテルの一室での鮮烈な記憶が、私の頭にはずっと灼きついていた」

ソウルで「二都物語」をゲリラ公演

ビザが切れそうになった3月23日夜、ソウル市内の西江大学で公演が実現した。金芝河の努力でソウルの青年劇団「常設舞台」と「状況劇場」の共同公演が実現した。「日韓反骨親善大会」と名付けた。韓国側の「常設舞台」は金芝河の「金冠のイエス」を、「状況劇場」は「二都物語」を上演した。

観客は約400人で、唐によるとその半分近くは修道女たちだった。彼女たちの目的は金芝河の「金冠のイエス」を見ることだった。唐たちはにわか仕込みの韓国語で上演をし、金芝河と唐十郎という日韓の異端の演劇人の作品が同時に公演された。この出会いはお互いに影響を与えた。

唐十郎はアングラ演劇の旗手として多くの作品を発表したが、「二都物語」を除けば、朝鮮半島を素材にした作品が多いわけではない。やはり、妻であり演劇活動のパートナーであった女優、李礼仙の存在が大きかったと思われる。金芝河は当時、李礼仙に「韓国人ならもっと韓国語を勉強しろ」と言ったという。

唐十郎氏がソウルで「二都物語」を公演した1972年3月の翌4月に、金芝河は長編風刺詩「蜚語」を発表したが、4月12日に検挙され、反共法違反で立件された。金芝河氏は結核療養を名目に韓国西南部・木浦の国立結核療養院へ強制軟禁された。

結核療養所での面会

日時は不明だが、唐十郎は当時、韓国東南部・馬山の療養院にいる金芝河に面会するために同年6月、再び訪韓した。先述の菱木一美の案内で、金芝河と再会を果たした。療養院の外へ連れ出すことにも成功し、馬山の海岸で面会を続けた。


1972年6月、韓国・馬山の国立結核療養所で唐十郎さんと語り合う金芝河さん(写真・菱木一美氏提供)

唐十郎はここで腹巻の中に隠していたドルの札束を出し「金芝河さん、これで逃げてくれ」と訴えた。しかし、金芝河氏は「今はその時期ではない」とこれを断った。金芝河は赤いYシャツを着ていた。菱木が2人の「密会」を写真に取り、のちにNHKで放映された「アナザーストーリーズ 越境する紅テント」(2024年5月27日放映)で紹介された。

金芝河氏にとって1972年6月には、もう1つ大きな意味のある日本人との出会いがあった。日本の哲学者・評論家であった鶴見俊輔(1922〜2015年)との出会いだ。

金芝河の作品を日本で出版した中央公論社(当時)の宮田毬栄(1936年〜)は、作家の小田実(1932〜2007年)とともに救援運動を立ち上げ、訪韓を計画するが、韓国政府からビザの発給を拒否された。

宮田毬栄は小田と対応を相談したが、小田はその場で鶴見俊輔に電話し「自分たちが行けないので、代わりに行ってほしい」と依頼、鶴見はこれを快諾した。

鶴見俊輔と作家の真継伸彦(1932〜2016年)、金井和子の3人が救援委員会の依頼で1972年6月29日から7月4日まで訪韓した。

鶴見らは、ここでもまたソウルで共同通信の菱木一美と会い、馬山の国立結核療養所に「軟禁」されている金芝河氏のいる部屋の位置などを聞き、事前に見取り図などをつくった。

韓国語のできない鶴見たちは英語で金芝河と話を始めた。訪問の目的や署名運動のことを話した。

鶴見によると、金芝河は▽自分の置かれた状況、▽知識人・文学の意味、▽分断について、ヤルタ会談のマキャべリズムを憎む。韓国は特殊な深さを持つ分断を憎むことを通じて世界のいたるところにある分断に抗議する、▽日本のあなた方が韓国へ来られないことは分断だ、▽南米のキリスト教、▽滑稽さ、囚われの王子、▽空腹、空腹こそが根本の問題だ、▽三島由紀夫論、▽唐十郎論、▽政治思想と文学思想など多岐にわたって意見を述べた。

「あなたたちの運動は私を助けられない」

さらに日本の救援運動について「Your movement cannot help me. But I will add my voice to help your movement」(あなた方の運動は私を助けることはできない。だが、あなた方の運動を助けるために、私は自分の声をその運動に加えよう)と語った。

鶴見はこの発言に対して「初対面の外国人から今聞いたばかりの運動に対して即座にこのように答えるというのは、どれほど彼がおざなりな言葉から自由であるかを示している、この言葉は、その後、現在にいたるまでの私たちの運動を集約している」と述べた。

鶴見は「金芝河が囚われたまま、このような運動を助けようとしている姿勢は、私たちを批判し、力づける、2重の働きを持っている」と指摘した。金芝河の「批判」と「力づけ」の相反する2重の働きを持っているという鶴見氏の認識は、いかにも鶴見らしい複眼的な視点だった。

ここで注目したいのは、金芝河は鶴見との面会で日本の作家として三島由紀夫と並んで唐十郎を上げて語ったことだ。鶴見は金芝河がどういう唐十郎論を語ったのかについて言葉を残していない。

しかし、金芝河が三島由紀夫と並んで唐十郎を語ったということは、唐との出会いが金芝河にとっても、ある種の「文化的ショック」だったのだろうと思う。

また唐十郎は、ソウル公演の後、1973年にバングラデシュのダッカとチッタゴンで「ベンガルの虎」を、1974年にはレバノンやシリアのパレスチナ難民キャンプなど9カ所で「アラブ版・風の又三郎」を、いずれも現地語での公演を行った。

唐十郎を日本国内の演劇運動に飽き足らず、発展途上国での公演に駆り立てた背景には、金芝河氏との出会いがあったと思われた。そこが寺山修司ら当時の他のアングラ演劇の潮流との違いだった。金芝河こそが、唐十郎をしてバングラデシュへ、そしてパレスチナへと向かわせたと思えるのだ。

(平井 久志 : 共同通信客員論説委員)