36年前、東京ドームのリングに初めて上がり勝利した吉野弘幸。1990年代を代表する人気ボクサーのひとりだ

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36年前、東京ドームのリングに初めて上がり勝利した吉野弘幸。1990年代を代表する人気ボクサーのひとりだ

■一撃必殺の左フックで掴んだ日本王座

「日本ボクシング史上最高傑作」と呼ばれる井上尚弥が、まもなく東京ドームのリングに上がる。同会場でのボクシング興行は1990年2月11日に開催されたマイク・タイソンvsジェームス・ダグラス戦以来34年ぶり3回目。日本人がメインイベンターを務めるのは初の快挙だ。そんな特別なリングで初めて戦い勝利したボクサーは誰か。みなさんはご存知だろうか。

【写真】東京ドームで勝利直後の吉野弘幸

「あの試合、俺は完全に『噛ませ犬』役で呼ばれた。パンチをブンブン振り回してガードも甘いから、相手陣営はチャンピオンが鮮やかに仕留めるみたいなKO勝利を予想していたんじゃないかな。

100人いたら99人は絶対そうなると信じて疑わなかったはず。たぶん渡辺(均)会長も俺が勝つとは考えていなかった(笑)。試合が決まったとき、渡辺会長からは『良い記念になるな』って言われたし、自分自身も声をかけてもらえただけで嬉しかった。でもあの一戦で人生が変わった。すべての景色が変わったよね」

冒頭の問いの正解は、タイソン初来日で東京ドーム初のボクシング興行となった1988年3月21日、トニー・タッブス戦の前座、第1試合で戦った吉野弘幸(当時ワタナベボクシングジム所属)。稀代の左フックを武器にKO勝利を量産した、90年代を代表する名ボクサーだ。当時20歳だった吉野は、タイソン初来日に日本中が注目したこの日、日本ウェルター級タイトルマッチで当時最強といわれた王者、坂本孝雄に挑み、大方の予想を覆す4ラウンドKO勝利で新チャンピオンに輝いた。


タイソンvsタッブス戦のパンフレットとスポーツ新聞。タイソン初来日に日本中が沸いた

2024年4月、東京の下町、葛飾区青戸にある吉野が経営するH's STYLE BOXING GYM(エイチズスタイルボクシングジム)を訪ねた。吉野は生まれも育ちも、ここ葛飾である。

吉野と会うのは二十数年ぶり。友人を介して知り合い、後楽園ホールの試合にも応援に出かけた。知り合った当時は現役晩年で負けが込んでいたものの人気ぶりは健在。後楽園ホールには毎回熱狂的なファンが詰めかけていた。引退後は疎遠になっていたが、今回久しぶりに連絡を取ると、深い交流があったわけでもない筆者のこともしっかり覚えていて、取材も快諾してくれた。

「坂本さんは破格のパンチ力を持つ才能にあふれたボクサーだった。自分と対戦する前の2度の防衛戦も圧倒的な強さでKO勝利していた。恐怖を抱いて相手ジムも簡単には試合を組みたがらないような選手だったから、もちろん怖さはあった。でもこんなチャンスは二度と巡ってこない。『勝って人生を変えたい』という気持ちのほうが強かったね」

坂本はアマチュア時代、アメリカ武者修行時にスパーリングで現役世界王者からダウンを奪うなど話題性にあふれ、プロデビュー前から注目されていた。期待通りわずか5戦で日本チャンピオンに輝くなど、売り出し中のスター選手だった。

対する吉野は、ほぼ無名で戦績も7勝3敗1分と平凡なもの。日本ランキングも8位と大きな期待を寄せられていたボクサーではなく、売り出し中の坂本の引き立て役で抜擢されたに過ぎなかった。そんな状況の中、噛ませ犬は東京ドームという大舞台で大番狂わせを演じてみせたのだ。

「凄いチャンピオン、怖いチャンピオンだから、物凄く覚悟してリングに上がった。『俺は絶対、倒れない、倒れない、倒れない......。絶対、ぶっ倒す、ぶっ倒す、ぶっ倒す......』と念じ続けた。そうして集中したおかげなのか、試合中はセコンドの声は耳によく届くけど、観客の声や音は一切シャットアウトできた。

3ラウンドに左フックを顎(あご)にまともにもらって、グラッと倒れそうになったけど踏ん張ることができた。それで気持ちを持ち直せて、逆に3ラウンド終盤、左フックで最初のダウンを奪えた。そのとき、『本気で集中すれば、どれだけ強烈なパンチをもらっても堪えることができる』と自信が持てた」

吉野は4ラウンド開始と同時に、左を中心に腕を振り回して猛追。パンチをもらってもお構いなしに攻撃を続けた。そして1分6秒、カウンターの左フックを顎にヒットさせ2度目のダウンを奪う。坂本もチャンピオンの意地でどうにか立ち上がる。しかし1分25秒、さらに強烈な左フックを顔面に浴びせると、坂本は腰が砕け落ちたように3度目のダウン。レフェリーはカウントするまでもなく即座に試合を止めた。

4ラウンド1分27秒KO勝利。この瞬間、噛ませ犬役を担った20歳の若者はチャンピオンベルトを腰に巻いた英雄に生まれ変わった。同時に、たった一発で相手を沈める豪快な左フックは、以降、吉野弘幸というボクサーを語る上で欠かせないパンチとして定着していった。

「まず嬉しかったのは、周りから『凄いね』と声をかけてもらえるようになったこと。やんちゃで子供の頃から怒られてばかりで、他人から褒めてもらえるようなことは滅多になかった。ボクサーとしても、あの一戦で自信が持てるようになったし、大きく成長することができた。左フックにこだわるようになったのも、坂本戦の勝利がきっかけだった」


大番狂わせを演じて若干20歳で新チャンピオンになった直後の吉野。右は渡辺均会長(吉野氏提供)

■人気ボクサーになりファイトマネーは7倍以上に

20歳でチャンピオンになり一躍注目されるようになった吉野は、日本歴代2位タイ(当時)となる12連続KO記録を作り、さらに日本ウェルター級のタイトルも14回連続で防衛(同階級では現在でも歴代1位)した。

毎回倒し倒されの激闘を繰り広げ、最後は必殺の左フックでなぎ倒す吉野は、後楽園ホールを常に満員の観客で埋めた。「坂本戦では50万円にも届かなかった」というファイトマネーも、全盛期は最高350万円まで増えた。当時日本はバブル景気真っ只中だったとはいえ、現在と比較しても破格のファイトマネーを稼ぐ人気ボクサーだった。

90年代、テレビなどのメディアを通じて広く世間に名を知られたカリスマボクサーが辰吉丈一郎ならば、足繁く後楽園ホールに通う熱狂的なボクシングファンに、家族や仲間のように愛された下町の英雄が吉野だった。

「先にダウンを奪われた試合のほうが、後から調子が上がった(笑)。試合を観て喜んでもらえたら嬉しいし、当時はとにかく、チケットを購入してわざわざ足を運んでくれたお客さんを喜ばせたい気持ちが強かった。

勝とうが負けようが、感動できる試合を見せるのがプロの仕事。それが、応援してくれる人たちに対する恩返しにも繋がると思いながら、リングに上がっていた。『吉野は右のパンチも使えたらな』とか、そういう意見も多かった。でも、みんながそう言うなら『俺は左フック一発で世界獲ってやる』って反発しながらね(笑)」

1993年6月23日、吉野は25歳のときウェルター級の日本タイトルを返上、スーパーライト級に階級を落として初の世界戦に挑んだ。相手は65戦61勝2敗2分という驚異的な戦績を誇っていた名王者、ファン・マルチン・コッジ(アルゼンチン)。ちなみにこの後も含めてコッジはWBAの同タイトルを通算3度獲得し、10度防衛した。

吉野は左フックで先制攻撃を仕掛けて会場を沸かせるも、5ラウンドTKOで華々しく散った。しかし以降も数々の名勝負を繰り広げ、東洋太平洋ウェルター級、日本スーパーウェルター級王座を獲得。2004年8月に37歳の誕生日を迎えてライセンスが失効するまで51戦も戦い続けた。

二十数年ぶりに再会した吉野は、月日を重ねた分だけ顔のシワも増えたが、太陽のように明るい笑顔は当時のままだった。ボクサーとしての強さだけでなく、普段は穏やかで謙虚な人柄もファンに愛された理由であることをあらためて実感する。しかし、そんな吉野の人生は幼少期から苦しく辛いものであったことを、今回、取材を通して知ることになった。

(後編につづく)


柔和な表情で取材に応じてくれた吉野。現役当時と変わらない笑顔が印象的だった

●吉野弘幸(よしの・ひろゆき) 
1967年8月13日生まれ、東京都葛飾区出身。1985年プロデビュー。88年3月に獲得した日本ウェルター級王座は14度連続防衛(同階級では現在でも歴代最多記録)。同王座返上後、93年6月に世界初挑戦するも王座獲得はならず。その後、東洋太平洋ウェルター級、日本スーパーウェルター級のベルトを腰に巻いた。プロ戦績51戦36勝(26KO)14敗1分。97年9月には大阪ドームで開催されたK-1に参戦し、1回KO勝利を収めた。現在、地元葛飾でH's STYLE BOXING GYMを経営。

※本文中の辰吉丈一郎の「吉」の正確な表記は「土」の下に「口」、「丈」の正確な表記は右上に点がつきます。

取材・文・撮影/会津泰成