楢崎正剛の負傷エピソードとは?【写真:Getty Images】

写真拡大

名古屋グランパスのレジェンド楢粼ゆえの凄さを回想

「いやぁ、あれはナラさんじゃないとしない怪我だよ」。

 兄、あるいは父のように慕う男の負傷欠場に、なぜか田中マルクス闘莉王は自慢げだった。もちろん負傷は嫌だし欠場はチームにとって大打撃。だが、それ以上に楢粼正剛の凄さゆえに起きた“事故”に、どこか誇らしげに話す闘将の姿が記憶に残っている。

 2011年のJ1リーグ18節、名古屋グランパスは浦和レッズをホームで迎え撃っていた。試合は磯村亮太のリーグ戦3試合連続得点となるゴールで先制するも、当時としては珍しい90+8分という試合終了間際のゴールで浦和が追い付いている。

 思えばドタバタの一戦で、前半に浦和のマルシオ・リシャルデスが負傷交代し、その際に激突した名古屋の千代反田充が流血。浦和の同点ゴールはその千代反田がエリア内でハンドと判定されてのPKによるもので、しかし当の千代反田は「絶対に触ってない!」と試合後にも怒りが収まらずにイエローカードをもらっていた。とにかくうねりにうねった試合。その中で件の負傷劇は後半、21分に起きた。

「ようアイツも覚えてるな」。現在は名古屋のトップチームでアシスタントGKコーチを務める楢粼は、懐かしそうに当時のことを振り返る。「思わず手が出た。反射だね。別に俺だからできたということではないと思うけど」。ゴール前の浦和のチャンス、2メートルもない超至近距離での決定機を得たのは浦和FW原一樹だった。楢粼はそのことをはっきりと覚えていた。

「そんな理屈をこねてる時間もないし、いろいろな守り方はあるけど、多少距離が近くてもボールを見てれば、恐怖さえ克服できれば、反応はできる」。相手の動きも踏み込みも、コースも威力も何も判断材料がないなかで、飛んできたシュートに手を動かした結果が、左手小指の開放性脱臼だった。要するに、伸ばした指の正面からシュートが当たり、小指の関節の内側から外れた骨が肌を突き破って飛び出した。

 激痛だった。「自分であとから見返しても、痛い」。冷静になって考えれば、いわゆるブロッキングの形で身体のどこかに当たれという対処が一般的な場面でもある。だが、楢粼のセービングに対する執念が、信頼する己の手による対処を選ばせた、というよりも反射的にそうなった。「なぜかボールを手が追えていたんだよね。これはあまりバレてないと思うけど、俺は意外と執着心が強いんだ」。外れようもない距離のシュートは決死のセーブに阻まれてノーゴール。楢粼の勝利だったが、代償は大きかった。

 だが、楢粼の真骨頂はこのあとだったのかもしれない。負傷したのが6月25日で、復帰戦は7月17日である。ベンチ入りなら7月13日に果たしている。骨が肌を突き破る重傷も、1か月とかからず戻ってきたのはどう考えても驚異的。もっとも本人からすれば「脱臼したところは戻すだけだから、傷がふさがるかどうかだった」と言うが、そんな簡単なものではない。ここが名古屋のレジェンド守護神の凄みで、「実際に早く治っているかは分からないけど、早く戻ることはできると思う。良いと言われることはすべて取り入れて、あとは意思もある」と、とにかく早期回復、早期復帰に対する執念が人並外れているのだ。

「あんなジェントルマンが怒るんだ」…闘莉王も驚いた激怒の背景

「だって、そもそも怪我してたら使いもんにならんってことだから」

 これが楢粼は許せない。現役時代の口癖の1つが、「監督の選択肢に入り続けること」だった。自分が使われようが、使われまいが、監督がチョイスできるところに自分がいないと気が済まない。プロフェッショナリズム、あるいは単なる意地、負けず嫌いと言ってもいい。リーグ戦600試合以上に出場したが、怪我が少ないタイプでは決してなかった。「選手として仕事をしていない、そんな期間は短くしないとね」。まさに鉄人、プロの鑑である。

 ところでこの負傷の話にはオチもある。奇しくも闘莉王が自身のYouTubeチャンネルで「あんなジェントルマンが怒るんだ」と語っていたのがこの場面だったが、まさに楢粼も同じことを口にした。

「確かマルシオ・リシャルデスが前半に負傷して、けっこう治療やらに時間がかかったんだけど、こっちはまあ手厚く、手を差し伸べたりもしていたのに、俺が後半ああなって倒れてたらうしろからブーイングされて、『早く立てよ!』とか言われて、思わずキレてしまったという(笑)。その怒りで痛みが吹っ飛んで、足もとにあったマイクを蹴っちゃったんだよね。マイク、申し訳なかった。反省してる(苦笑)」

 今なおクラブ史上最強チームの1つに数えられる2011年の名古屋はこのシーズン、勝点1差で連覇を逃した。この一戦はそういった意味でも悔恨のゲームの1つであり、とにかくジェットコースターのような、浮き沈みの激しい試合だった。その勝負どころで生まれたスーパーセーブにまつわる“名誉の負傷”。楢粼は最後に、ゴールキーパーの後輩たちにエールを送るようにして締めている。

「意思もそうだけど、そうやって練習してれば身に付くもの。その意思を持ってちゃんとやっているかどうかで、それがだんだん身体に染み付いてくるかどうか。人間ってあの距離で、シュートがどこに来るか分からない状況でも動けるよって。頑張れよ(笑)」

 怪我を恐れず無茶をしろと言うのではない。しかしゴールを守るとは、そこにどれだけの気持ちが込められるかを、あの一瞬は改めて我々に教えてくれているようでもあった。

(文中敬称略)(今井雄一朗 / Yuichiro Imai)