上野〜南千住間は、JR常磐線でも地下鉄日比谷線でも移動できます。しかし前者は日暮里・三河島方面へ迂回するため、所要時間も3分増。なぜ日比谷線のように最短経路を通らないのでしょうか。

距離はおよそ2倍、3分余計にかかる

 東京から茨城方面への大動脈、JR常磐線は、上野〜南千住間で遠回りしています。地下鉄日比谷線が入谷駅と三ノ輪駅(いずれも東京都台東区)を経由し最短経路で南千住駅(同・荒川区)へ向かうのに対し、常磐線は上野駅から北西へ進路をとり、日暮里駅や三河島駅(同)を経由するのです。
 
 所要時間を見ても、常磐線が日比谷線に比べ約2.5km長い分、約3分ロスします。なぜ、日比谷線のように最短経路をとらないのでしょうか。


JR常磐線は上野〜南千住間で、矢印で示したように遠回りする(国土地理院の地図を加工)。

 上野東京ラインの開業まで、常磐線の全列車は上野駅を発着していましたが、開通した当初は同駅が起点でなかったことが“遠回り”の要因です。その起点駅は田端(東京都北区)、現在はJR山手線と京浜東北線の駅です。では、なぜ田端駅が起点とされたのでしょうか。

 常磐線が整備されたのは19世紀末のこと。現在の茨城県北部から福島県の浜通りにかけて、かつては大規模な炭鉱開発が行われており、ここで産出された石炭を大消費地である東京や横浜へ運ぶ鉄道が求められたのです。しかし当時、上野駅から南下する路線はまだありませんでした。

 あったのは上野〜青森間(現・JR東北本線)と品川〜赤羽間(現・山手線とJR埼京線)。常磐線は、これら路線に近く、三河島駅からそのまま西進すれば到着する田端駅へ線路を延ばしたのです。なお、20世紀初頭には田端〜池袋間にも鉄道が敷設され(現・山手線)、常磐線からは途中で方向転換することなく赤羽〜品川間の鉄道に直結し、横浜方面へ向かうルートが誕生しました。

「常磐新宿ライン」構想も!?

 つまり当時は、現在のような大回り路線はなかったわけです。ちなみに旅客輸送は田端〜仙台間が全通した1898(明治31)年ころから行われていましたが、東京側のターミナルは上野駅でした。そのため田端駅では方向転換が行われていました。

 しかし、蒸気機関車の方向転換には時間と手間がかかります。そこで1905(明治38)年、日暮里〜三河島間に短絡線が敷設されました。西日暮里駅の東側で急カーブを描く、現在の旅客列車が通る路線です。これにより旅客列車は向きを変えることなく、上野駅から常磐線へ直通できるようになりました。

 時代が下り、東京近郊の各路線で旅客列車が増発されていくと、貨物列車は旅客列車のダイヤに影響を及ぼさないよう、特に都心部を避けるルートで運行されるようになります。田端〜三河島間もそのひとつで、いまや後付けの短絡線を通る旅客列車の方が圧倒的に多いです。ただ“旧本線”が全く使用されないわけではなく、ここは貨物線として存続し、1日に数本の貨物列車が走行しています。たまに臨時や団体の旅客列車が通ることもあります。


1898(明治31)年までに、田端駅を起点に常磐線が全通。東京を経由し横浜までを結ぶ石炭輸送ルートが構築された(草町義和作成/国土地理院の地図を加工)。

 しかし田端駅とその前後の線路の配線が変わったため、現在は折り返さずに新宿方面と常磐線を直通することはできません。ただ、1980年代後半から1990年代前半にかけては、貨物線経由で新宿駅と常磐線方面を直通する旅客列車の運行が検討されたこともあったようです。実現していたら、「常磐新宿ライン」といったところでしょうか。