なでしこジャパンの守護神・山下杏也加が苦しんでいた「最悪の選択」 8カ月前の悪夢からW杯までどう立ち直ってきたのか
なでしこジャパンの守護神はいつも檄を飛ばすような姿を取り上げられがちだが、今大会のGK山下杏也加(INAC神戸レオネッサ)は実に表情豊かだった。
女子ワールドカップ直前に国内で行なわれたパナマ戦前、守備の意識を実質の3バックから5バックに変えたことで、このチームで初めて"守る形"が見えた。ただし、本大会に入っても第2戦目までは格下相手。宮澤ひなた(マイナビ仙台レディース)の覚醒で攻撃が快調になり、かつてない決定力を見せたことで、守備もうまく回っていたが、チームとして確固たる自信にはつながっていなかった。
スウェーデン戦後、泣き崩れた仲間をなぐさめ、抱え起こす山下杏也加
だからこそ第3戦は、互いに決勝トーナメントを決めているとはいえ、ヨーロッパでもっとも勢いのあるスペインに4−0で快勝できたことは、守備陣、そして山下にとって初めて自信を持てる内容だった。その流れを維持しながら、前回大会の成績(ラウンド16敗退)を超えるノルウェー戦を制したピッチでは、試合後に誰よりも山下が飛び跳ね、DF陣とともに弾けんばかりの笑顔で勝利を味わっている姿が見られた。練習時もGKの3人が緊張感を持ちつつ高め合っているなかで、山下が屈託のない笑顔を見せる場面も多く見られた。その表情からは、大会をとおして充実していることが伺えた。
遡ることW杯の初戦から8カ月。海外組も揃って初めてトライした3バックでは、ヨーロッパチャンピオンのイングランドに手も足も出ず、0−4で大敗し、山下は途方にくれていた。
「どうしよう......」
相手のスピードに追いつけず、どこへ蹴っても跳ね返される、奪われる、すぐさまピンチになる。それなら遠くへ蹴っておいたほうがマシか----「最悪の選択をしないといけなかった」と苦しみを吐露していた。
そこから中3日で対戦した当時のスペインは、監督の指導方針に抗議する形で主力選手が招集をボイコットする事態に陥っており、戦力としても整っていなかった。そんな相手に0−1で敗戦すると山下は、「実力のない自分と、この(状態の)スペインにも勝てない今の日本に焦りを感じた」と、メンタルは落ちるところまで落ちていた。
山下の長所は、強靭な筋力を武器にしたセービングや瞬発力といったスキルだが、それ以上に独自の視点に納得させられることが多くあった。彼女の"気づき"はチームにとって、攻守に渡り自分たちの弱点を見極めるきっかけとなる。だが、伝え方が直球ゆえに空気がピリつくこともしばしば......。自身の気質を十分理解している山下は大会前、「波風を立てないようにするほうがいいかもしれない」と、意見することを自粛する考えも抱いていた。
ところが、今年6月に最終メンバーが発表されてからのなでしこジャパンは、キャプテンの熊谷紗希(ASローマ)が目指す"なんでも言い合えるチーム"へ変化しようとしていた。
山下と切磋琢磨する平尾知佳(アルビレックス新潟レディース)、田中桃子(日テレ・東京ヴェルディベレーザ)という2人のGKの存在にも助けられながら、勝利のための意見を交わすことへの壁が徐々に払拭されていった結果、ベスト4進出をかけた大一番のスウェーデン戦前には、「ここまでいい準備ができていることには満足しています」と、自信をのぞかせていた。
しかし、スウェーデンのサッカーは高く、速く、オーガナイズされていた。最初の失点は警戒していたセットプレーで、一度ははじくもこぼれ球を押し込まれた。後半のPKでも、少しでも相手に負荷をかけようと動きを加えて立ち向かうも止められず。日本としても、山下としても、自信を持って準備してきたその上をゆく----スウェーデンの底力を見せつけられた。
試合後、山下は泣き崩れる若手を抱き起こし、すばらしい砦として力を発揮していた相手GKと笑顔で言葉を交わしてハグをした。その表情は力を出しきったように見えた。チームとして円陣を組んだあと、熊谷が再び選手たちだけを集めこう締めた。
「自分たちのできることはすべて出しきったし、この試合は1番よかった。この試合を見てサッカーを目指そうって思ってくれる人は必ずいるから自分たちはこの試合を忘れず、やり続けよう」
円陣が解かれた直後、山下はチームメイトに背を向け、瞬時に顔を拭う仕草をして、込み上げる感情を押し殺していた。
なでしこジャパンにとって、ベスト4はまったく手の届かない場所ではなかった。山下の言葉を借りれば「お互い攻守ともに平等にチャンスはあったので、自分が止めるか、自分たちが決めるかという試合」だった。前半は後手に回ったまま修正できなかったこと、セットプレーの対応、カウンターを封じられたあとのアイデア......悔やむ点をあげればキリがない。
それでも確かなことは、なでしこジャパンがスタジアム全体をプレーで惹きこんでいたということ。ラグビー文化が色濃いニュージーランドでこの試合に43,217人の観衆が集まった。特に後半に入るとスタジアム中に響く「NIPPON!」コールが何度も沸き上がった。
スウェーデンが時間稼ぎのプレーをすれば、おびただしいブーイングが浴びせられた。後半のアディショナルタイムが10分と示されると「まだ日本行けるぞ!」と言わんばかりにスタジアムにどよめきと拍手が起こった。
開幕時、現地で日本を注目国に挙げる人やメディアはいなかった。このワールドカップ開催がオーストラリアでは大盛況とのニュースを目にするも、正直ニュージーランドでの盛りあがりはイマイチだった。そんな環境をなでしこジャパンが一変させた。決勝トーナメントに入って以降、街を歩けば「GO!JAPAN!」と声をかけられる。ラグビー映像しか流さなかったスポーツバーでワールドカップのライブ映像が流れ、「サッカーもいいもんだね」と帰っていく客の表情は誰もが楽しそうだった。
日本の献身的な守備だけでなく、中堅選手のプライド、若手の奮闘などが促され、他にはない"なでしこのサッカー"が紡がれた今大会。ここからの女子サッカーの道のりを明るく照らすワールドカップの戦いだった。
そして、GKとして最後まで味方を鼓舞し続けた山下も得るものがあった。
「今までのサッカー人生で聞いたことがない(声援だった)。もう1回この舞台に戻りたいと思わせてくれました」
4年という月日は選手たちにとって長いものかもしれないが、再びワールドカップの舞台で戦う山下の姿を見たい。