元オリックス藤井康雄は「勉強は嫌い、殴られるのも嫌」で、憧れだったプリンスホテルにまさかの入部を果たした
消えた幻の強豪社会人チーム『プリンスホテル野球部物語』
証言者〜藤井康雄(前編)
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「『えっ? プリンスで野球ができるんですか?』というのが第一印象でした」
オリックスの中心選手として16年間プレーし、「ミスター・ブルーウェーブ」と呼ばれた強打者・藤井康雄。大阪の泉州高(現・近畿大泉州高)時代は「鳴かず飛ばず」だったが、1980年の夏にプリンスホテルから誘いを受け、すぐに飛びついた。社会人チームのことはほとんど知らない高校生だった藤井も、プリンスだけはよく知っていて、憧れを抱くほどだったという。
プリンスホテル野球部時代の藤井康雄
「最初に石毛(宏典)さん、中尾(孝義)さんをはじめ、プロから1位指名されるような大学のスターを集めたわけですよね。『うわ、すごいチームができたんだ』と思っていましたから。ただ当時、泉州高校からプリンスに行くというルートはなかったと思います」
本来なら「なかった」かもしれないプリンスとの接点は、77年の夏にさかのぼる。広島・福山市に生まれ育った藤井は、地元の中学野球部でプレーしていたが、その長打力には光るものがあった。野球に詳しい知人に紹介され、中学3年生の夏、大阪の高校へセレクションを受けに行くことになった。最初に行ったのが泉州高だった。
「もうひとつ、明星高校のセレクションに行った時、ちょうど大阪大会の試合が終わったあとで、OBの方がグラウンドに集まっていたんです。その時、奥田さんっていう方に声をかけられまして、練習が終わったあとに『うちに来いよ』というような話をいただいたんですね」
藤井の言う「奥田さん」とは、明星高から早稲田大を経て、クラレ岡山のマネージャーを務めた奥田裕一郎。プリンスホテル野球部創設時は助監督で、のちに監督となる石山建一とは早大の同期で、野球部のマネージャー。その縁でプリンス野球部結成時には副部長になり、退任した80年以降も、チームの運営に関わっていた。
クラレ岡山での奥田は、早大を受験して不合格になった選手を入社させるのも仕事だった。外山義明(元ヤクルトほか)、得津高宏(元ロッテ)はそのルートで入っており、同期の同僚に門田博光(元南海ほか)、安木祥二(元ヤクルトほか)がいた。
「奥田さん曰く、『藤井くんも門田のような選手になれるから、明星に来い』と。その時の練習でスタンドに放り込んでいたので、『えっ? 中学生が?』というような感じだったんでしょうね。うれしい言葉でしたが、明星は勉強もしないといけない学校で、僕の頭ではレベル的に厳しいかなと......。それで『泉州高校に行きます』と、その時はそれで終わったんです」
【不完全燃焼だった高校時代】いざ泉州高に入学すると、部員の不祥事で1年間の対外試合禁止処分。実績十分の監督、西村進一は辞任。そんな不運もあって、2年時から4番を打った高校時代は不完全燃焼。最後の夏も、大阪大会5回戦で浪商高(現・大体大浪商)に0対1で惜敗して終わった。だが、直後に道が開ける。
「夏の大会で負けて、本当に翌日です。奥田さんから電話がかかってきたんです。お話しするのは中学3年の時以来でしたが、『大学でも野球やるなら、世話してあげるから』と。それで僕、『勉強も嫌いですし、殴られるのも嫌ですし』と言ったんですね、正直な気持ちを。そしたら『じゃあ、プリンスホテルに行かないか』と言われて、『えっ?』となったわけです」
会話するのが中学3年以来でも、まさか、その当時の印象だけで連絡してきたわけではないだろう。当然、高校時代も追いかけて見ていたのではないか。
「見てくださったのかもしれないですけど、僕の高校時代は本当に『鳴かず飛ばず』でしたから。公式戦ではほとんど打ってないんです。だからその奥田さんからの電話には驚きましたし、本当に『プリンスですか? 喜んで!』っていう感じでした(笑)」
藤井が歓喜したのも、石毛、中尾を筆頭に大学野球のスターが1期生にいたからだが、実際には1期生30名のうち17名が高校生。甲子園に出場した有望な選手もいたが、ドラフト上位で指名されるほどの素材は見当たらない。「プロ以上のアマチュアチームをつくる」という石山の構想とは別に、副部長の奥田が中心になって選手を集めていた。石山から見ると「数合わせ」同然だった。
「たしかに、1期生の高校生は僕らより2つ上の先輩ですけど、その方たちはほとんど練習の手伝いをしているようでした。それで2期生は高校生がいなくて、僕ら3期生の時に方針が変わったんですね。石山さんによれば、ちゃんと勝てるチームにするために、素材のいい高校生を採用して育てるということになったそうです」
3期生は大学生が投手の吉田幸夫(青山学院大)、外野手の村中秀人(東海大)という2名だけで、高校生が10名。藤井のほか、「テルシー」と呼ばれた大型右腕の中島輝士(柳川高/元日本ハム)、「奈良のドカベン」と呼ばれた強打者の荒竹幸博(平安高)が目立つ存在だったが、別の意味で目立つ選手が3名いた。
【普通ではない野球環境】石毛が西武に1位、中尾が中日に1位で指名された80年のドラフト。投手の高山郁夫(秋田商高/元西武ほか)は日本ハムから1位、川村一明(松商学園高/元西武ほか)は阪急(現オリックス)から1位、そして捕手の瀬戸山満年(中京高)は巨人から4位で指名されるも、それぞれ入団を拒否。そのうえで3名ともプリンスに入社したため、同じ企業グループの西武へ入団させるためかと疑われたのだ。
「プロの1位指名を蹴るってなかなかないし、しかも3人とも同じ会社に入る。まず、そんなことってないわけです。そのあたり、西武の監督で編成の仕事もしていた根本陸夫さんがからんでいたと思いますよ。とくに高山には『ちょっと、ここにおれ』という感じだったのかなと。ただ、これは僕個人の意見ですけど、そういうこともあってのプリンスだったと思うんです」
現役引退後にオリックスでスカウト、編成も務めた藤井だけに、「球界の寝技師」と呼ばれた根本の裏技も、今では客観視できる。だが、多少なりともプロを意識してプリンスに入った藤井自身、逆にプロの誘いを断った同期の連中は特異な存在と感じられたようだ。では、普通ではない野球環境のなか、いかに打撃の技術を磨いていったのか。
「当時の社会人は高校と同じ金属バットでしたから、迷いなく順応できて、フリー打撃などでは大学出の先輩たちにも負けないぐらいの飛距離は出ていました。ただ、実戦形式の練習になると変化球が打てなくて。最初の2年間ほど、対外試合には出られなかったんです」
そんななか、チーム内に大変化が起きる。采配を振っていた助監督の石山が81年の6月に辞任したのだ。3月のスポニチ大会に加え、都市対抗予選で敗退した責任をとった形だが、もともとは2月のキューバ遠征で好成績を残したことで、負けが際立ったところもあった。
当時、キューバのカストロ首相は西武グループの観光事業に興味を抱き、その一環でプリンス野球部を自国に招待。各地で11試合を行ない、プリンスは9勝2敗と圧倒した。しかし石山によれば、例年2月のキャンプを経ずに実戦に入ったため、実力を発揮した勝利ではなかった。
案の定、スポニチ大会で惨敗すると「キューバに勝ったチームがなんで負けるんだ!」と社内が騒然となった。結果、会社の方針で野球部を一軍と二軍に分割し、一軍は野球に専念、二軍はホテル勤務と兼任、とされた。石山はその方針に納得できず、会社との間で揉めに揉めたなか、都市対抗予選で敗退して辞任に追い込まれたのだった。
後編につづく>>
(=敬称略)