元PL学園野球部監督・中村順司インタビュー後編(全3回)

 ユニフォームの胸に「PL GAKUEN」。豪快なチームカラーとは裏腹に、首から下げたお守りに静かに手を当て、祈りながらプレーしていた選手の姿を思い出す。幾度も流れた校歌や、アルプススタンドで大きく揺れた人文字も懐かしい。

 1981年春に監督として甲子園で初采配を振るい、1998年春を最後に勇退した中村順司は、在任18年間で春夏通算16回の甲子園出場、うち優勝6回、準優勝2回。トータル58勝(10敗)を挙げ、勝率はなんと.853である。

 この驚異的な数字を上回る指導者がこの先現れるとはおよそ考えにくく、まさに不滅の大記録と言っていいだろう。卒業後プロ入りを果たした教え子は39人にものぼる。

 指導の柱は「球道即人道」。野球を通した人間教育を一番に、スパルタ式がまかり通っていた時代にあって短時間の集中練習や個人練習の推奨など、今の時代に通じるような最先端の指導を行なっていた。

 あくまで一部にすぎないが、当時の指導論についてあらためて語ってもらい、ここに紹介する。


PL学園監督時代の中村順司。多くのプロ野球選手を輩出した 写真提供/中村順司

●「1年生から練習できる」清原和博がPLを選んだ理由

中村順司 当時は休養日などなく毎日練習するのが当たり前。でも、全体練習は3時間程度で平日は18時くらいには終わっていました。明るいうちに終わると疲労感が少ない。余力を持って終われば、そのあとの個人練習も集中して行なえます。

 きつい練習を長時間やらせたことはなく、メニューはオーソドックスで特別なことはしていません。球場には選手が選んだ音楽が流れて、そんな学校はほとんどなかったでしょうね。こいつらこんな曲が好きなんかと思ったりしたものです。

 1年生は体がまだできていないので、入学したての1カ月間は別の場所で基礎練習を繰り返しします。5月に入ったら上級生と一緒にし、量は少ないですが同じ練習をさせました。

 どこも部員が多く、1年生はなかなか練習させてもらえないというのが当時のよくある風景でしたが、清原和博が進路を決める際、うちか天理(奈良)かで迷った末に、1年生もすぐに練習に参加できると知ってPLに来てくれたんです。早くからみんなで練習することで、下級生は上級生のプレーを見て学び、上級生も下級生からいい刺激を受けます。

 室内での個人練習は上級生優先でしたが、上級生には「何球打ってもいいが、練習を手伝ってくれる下級生に10球でいいから打たせてあげなさい。そして、教えてあげなさい」と言っていました。教えることで自分自身も勉強になるからです。

●「無事これ名馬」体の使い方にはうるさかった

 たとえ有望選手であっても、「姿勢」「歩き方」「走り方」が指導のスタートでした。骨や筋肉といった体のつくりを理解し、ムダのない動きを身につける。そのうえで、どうすればバットに自分の力を無理なく伝えて打てるのか、どうすれば強くて速い球を投げられるのか。そういったことを考えさせました。

 正しい動きができればケガを防げます。PLのOBたちは長く野球を続ける者が多く、福留孝介などは45歳までプレーしましたからね。まさに「無事これ名馬」です。私はグローブ片手にグラウンド内を歩き回り、一人ひとり手取り足取り、コーチすることが好きでした。


PL学園の当時の指導について熱弁する中村 写真/スポルティーバ

●人として認められなければ試合に使わない

 身勝手だったり、人としてどうかと思う時はとことん厳しく接しました。選手に聞けば、叱られたのはいつもそんなことだったって言うでしょうね。

 振り返って、1年生から甲子園に出場していた桑田真澄や清原に浮かれたところがなかったのは、先輩、後輩の関係が厳しかった寮生活に加え、「自他祝福」といったPL教の教えが大きかったでしょう。相手の気持ちを思いながら行動し、自分がチームの中で何ができるかを常に考える。

 グラウンドに出れば、「練習を始めさせていただきます」「練習を終わらせていただきます」。常に感謝の気持ちを忘れず、そんな環境が5季連続甲子園出場を可能にさせ、全国優勝という栄誉をも与えてくれたのだと思います。

 よく人から、PLの選手はガツガツしておらず大らかだと言われます。上からはかわいがられ、下からは慕われる。そんな選手になってほしいと思いながら指導していました。

●サインは単純「18年間、一緒や!」

 私がコーチから監督になってすぐの近畿大会。PLの試合のテレビ解説をしていた箕島(和歌山)の尾藤公監督が、ベンチで私がボールを手にしているのを見て「なんで持っているんでしょうね」と言ったらしい。案外見ているものなんだなと思い、だったら小道具に使ってやれと、ボールを使ったサインを翌年初采配したセンバツで採り入れました。
 
エンドランやスクイズといった重要なサインだけは他に2種類ほどつくりましたが、基本的に私のサインはシンプル。それも毎年ほとんど変わっておらず、1998年に勇退した直後、初采配した時の選手が電話をくれて「監督、サインはあの時と同じですか?」と聞くので、「おう、18年間一緒や!」と答えました。

 PLはデータ野球という人もいましたが、私は相手のことよりも自分のチーム、選手をよく知っておくことがもっとも大事だと思っていました。大観衆の前でプレーするんだから気負いがあって当然。選手の一番いいときと比べてどこがよくないのか。肩が下がっているぞとか、脇があいているぞとか、そういった具体的なアドバイスをしていました。

 相手のビデオを見てとことん研究するといったことはほとんどしませんでしたね。常に自分たちにベクトルを向け、いかにして自分たちの力を発揮させるかを考えていました。


若かりし日の中村 写真提供/中村順司

●選手同士の世界観を壊さないように

 1年生だった桑田と清原を大阪大会のメンバーに入れる。3年生にとっては屈辱だったはずで、直前までもめました。でもそれは当然のことなので、話し合いの時間をつくって3年生に理解を求めて決めました。監督からの鶴の一声ではチームはまとまりません。

 こんなこともありました。PLは寮生活だったので、1年生の時は全員、食事や洗濯といった当番があります。桑田を試合で使うようになった時、食器洗いで洗剤を使うと指が荒れてしまう。でも、「桑田に洗剤を使わせるな」と監督から命令したら、桑田が上級生から反感を買うかもしれない。肩身の狭い思いもするでしょう。

 そこで3年生の投手に「桑田に洗剤を使うのをやめさせたらどうか?」と提案し、上級生から桑田に伝えるようにしました。

 こうしてこちらから声はかけるけれど、最終的にどうするかは選手に任す。PLにはコーチや寮監ら複数のスタッフがいたこともあり、監督は必要以上に選手のなかに入らない。彼らの世界を壊さないよう心がけていました。

●選手に恵まれ今の自分がある

 初めての甲子園采配で、決勝に進出。試合前に選手たちに言ったのは「泥んこになって暴れてこい!」。そうしたら、プレーボール直前に選手全員がグラウンドの砂を顔に塗りつけている。優勝してホームベース上に一列に並んだ時の顔がみんな真っ黒で、それがとてもうれしかった。のちに巨人で活躍する吉村禎章が主将でした。

 最後の試合は1998年センバツの準決勝、松坂大輔を擁する横浜(神奈川)との一戦。前年夏で退くつもりでしたが、後任監督が決まらず半年間伸びました。18年もやらせてもらいやりきった、そして感謝の思いでいっぱいでした。

 PL学園野球部は、2016年で活動を休止。事実上廃部となっています。寮はずいぶん前に取り壊され、球場はそのままですがほとんど使われず、スコアボードが取り外されたと聞いています。

 OBたちでさえこの場に入ることは容易ではなく、私自身も足を運ぶことはほとんどありません。ただ、桑田がOB会長をしていますので、いつかいいニュースを聞くことができたらなと静かに見守っているところです。


8月5日で77歳となった中村。監督時代の思い出は鮮明に覚えているという 写真/スポルティーバ

(文中敬称略)

終わり

前編<「清原和博、桑田真澄の1年生の起用は上級生の反発もすごかった」PL学園元監督の中村順司が明かすKKコンビ秘話>を読む

中編<「立浪和義・片岡篤史は徳を積むために草むしりをしていた」PL学園元監督の中村順司が甲子園春夏連覇の偉業を振り返る>を読む

【プロフィール】
中村順司 なかむら・じゅんじ 
1946年、福岡県生まれ。自身、PL学園高(大阪)で2年の時に春のセンバツ甲子園に控え野手として出場。卒業後、名古屋商科大、社会人・キャタピラー三菱でプレー。1976年にPL学園のコーチとなり、1980年秋に監督就任。1981年春のセンバツで優勝を飾ると、1982年春優勝、1983年夏優勝。1984年春の決勝で敗れるまで甲子園20連勝を記録。1998年のセンバツを最後に勇退。18年間で春夏16回の甲子園出場を果たし、優勝は春夏各3回、準優勝は春夏各1回。1999年から母校の名古屋商科大の監督、2015〜2018年には同大の総監督を務めた。