元PL学園野球部監督・中村順司インタビュー中編(全3回)

 誰もが思い浮かべる高校野球・PL学園(大阪)の黄金期といえば、KKコンビの桑田真澄、清原和博が在籍し、5季連続で甲子園に出場した1983〜1985年だろう。その間、優勝2回、準優勝2回。そして、それに並び評されるのが1987年のチームだ。

 主将が現・中日ドラゴンズ監督の、立浪和義。投手陣には野村弘、橋本清、岩崎充宏と異なるタイプの3投手をそろえ、圧倒的な強さで史上4校目の春夏連覇を成し遂げた。


1987年センバツ優勝後にPL学園のグラウンドで胴上げされる当時監督の中村順司 写真提供/中村順司

●春夏連覇の裏側にあった超ファインプレー

「彼らの一番の財産は、1年生の時に3年生だった桑田や清原を見ていることです。3年春のセンバツで負けた日に清原が鬼の形相でマシンのボールを打っていた話は有名ですが、練習量、質ともに最高のお手本が身近にあり、私もことあるごとに『清原を見ろ』『桑田を見ておけ』と声をかけていました。より高い目標を持って戦ったチームでしたね」

 中村順司は1987年のチームをこう振り返る。

 春夏連覇について、中村がこれ抜きでは語れないというのが前年秋の近畿大会だ。PL学園はその前の大阪大会準決勝で、大商大堺に完封負け。大阪3位で臨んだ近畿大会で再び同校とぶつかり、一時は投手陣が崩れて1−5の劣勢に立たされた。しかし、このあと試合をひっくり返して勝利。リベンジを果たせなければ、センバツ出場もなければ春夏連覇も夢のまた夢だった。

「連覇の第一歩が大商大堺との試合。ここを境にチームがどんどん成長していきましたね。春の甲子園では初戦の西日本短大付(福岡)との試合がカギでした。相手投手は大会ナンバーワンといわれ、のちに広島入りする石貫(宏臣)です。

 4回に連続二塁打から3点先制したものの、想像以上にいい投手で6回以降はパーフェクトに抑え込まれています。6回裏にはランナー二塁・三塁のピンチとなり、この場を救ったのがレフトの西本篤史。弾丸ライナーを超ファインプレーでキャッチして、あれが抜けていたら試合はどうなっていたかわかりません」

 関東一(東京)と戦ったセンバツ決勝戦では、強打のPLと呼ばれるなかで7回、4番の深瀬猛にスクイズのサインを出した。敵将はのちに日大三を長らく率いた小倉全由監督で、後日談ではこの時、スクイズは頭になかったという。深瀬は2ストライク後にスリーバントを決め、途中からマウンドに立つ次打者の橋本もスクイズを成功させて関東一を突き放した。

「深瀬に『スクイズもあるぞ』と言って打席に送り出したら、むちゃくちゃオーバースイングするわけです。お、こいつ待ってるなと。そう察してスクイズのサインを出したらピタリと決まった。気持ちに余裕のある選手で、芸の細かさには脱帽です(笑)」


インタビューに応じる中村。8月5日で77歳となった 写真/スポルティーバ

●「徳を積む」立浪和義、片岡篤史らの早朝草むしり

 前評判はそれほど高くないなかで手にしたセンバツ優勝。そしてこの瞬間、「先輩たちができなかったことをやろうぜ」とチームに明確な目標が生まれた。春夏連覇である。さらにその目標を達成するために、選手自身で決めて行動に移したことがあった。

「徳を積むということで、グラウンドの草むしりを始めたんです。中心にいたのは立浪、片岡篤史、住野弘宜の3人。寮の起床が6時半だったので、その30分前に起きてやっていた。その姿は、8月21日の決勝の朝も変わることはありませんでした」


PL学園の監督を18年間務めた中村(左) 写真提供/中村順司

 優勝候補筆頭で迎えた1987年夏の甲子園。初戦こそ苦戦したもののPL学園は順当に勝ち上がり、決勝の相手はかつて取手二高(茨城)を率いて全国優勝した木内幸男監督率いる常総学院(茨城)だった。

 KKコンビが2年生の夏に決勝で敗れた相手である。今も過去の出来事をこと細かく記憶している中村だが、試合を振り返る前に口にしたのは、グラウンド外でのある出来事だった。

「取手二に敗れた時のメンバーである清水哲がこの試合でPLが勝つところを見たいと観戦を希望してきたんです。清水は桑田の1学年上で、進んだ大学でプレー中に頸椎(けいつい)を損傷する事故に遭い、車いす生活を余儀なくされていました。

 清水の思いに応えてやりたいと高野連(日本高校野球連盟)にお願いし、ベンチ横にある用具室での観戦が実現。立浪らが試合前に迎えに行き、みんなで勝利を信じて戦ったことを思い出します」

●急遽スタメンの宮本慎也が値千金のプレー

 試合はPLのペースで進み、ポイントとなったのは4−1で迎えた8回の守備だった。木内監督が打席に入る主砲にホームランを狙えとジェスチャーしている。それを見て中村監督も伝令を送り、2番手としてマウンドに上がっていた岩崎に「自分の一番いい球で勝負しろ」と伝えた。

 しかし、結果はレフト前ヒットで二塁ランナーがホームイン。と、そこで値千金のプレーをしたのが、公式戦初の先発出場でサードに入っていた2年生の宮本慎也だった。

「深瀬が2つ前の習志野(千葉)戦で右肩を脱臼し、準決勝の帝京戦には左手で捕球、送球しながら強行出場させましたが、決勝では無理と判断しました。宮本を急遽スタメンで送り、木内さんは何度も宮本を狙ってきましたよ。

 でも、試合前練習ではアップアップだった宮本がどのゴロも無難にさばき、しかも8回のシーンではホームは間に合わないとすばやく判断。打者走者がオーバーランしたところで矢のような送球を一塁に送り、アウトにした。ホームに投げてランナーを二塁まで行かせていたら、試合の流れは常総のほうへ行ったと思います」

 中村監督は日頃から正しい体の動きを身につけ、走攻守ともに基本に忠実にプレーするよう指導していた。送球は受け取る側が捕りやすいよう、相手の胸めがけて投げる。キャッチボールができない選手は試合に出さないというほど徹底していた。

「大学へ進学したらベンチ入りは24人(当時)でしょ。キャッチボールがきちんとできたら守備でベンチ入りできるんです。だから、しっかりやれと。打つだけではおもしろくない。守れるから試合に出られるチャンスが増えるわけで、その典型が宮本です。

 ボールを吸収するようにグラブ捕球ができ、ヤクルトでは野村克也監督に認められて早くから使われ、結果的に2000本安打にもつながった。そんな宮本のがんばりを、一塁の片岡がこう言うんですよ。宮本をうまくしたのは自分。練習で少しでもボールが逸れたら捕らなかったからと(笑)」


一貫した技術論を教え子に伝えてきた 写真/スポルティーバ

●KKコンビの代vs春夏連覇の代、どちらが強い?

 8回の相手の攻撃を最少失点に抑えたPL学園は、9回に逆に3連打でダメ押し、5−2で常総学院を下した。

 PLが甲子園で戦った6試合の総得点が39、失点は12で、終わってみれば圧倒的な強さを見せつけての頂点だった。この大会では「全試合初回得点」という記録もつくっており、尾崎晃久、蔵本新太郎の1、2番を、準々決勝から尾崎、伊藤敬司に打線を組み替えたことが大きかったという。

「蔵本が調子悪くてね。だから思いきって9番に下げ、8番の伊藤を上げた。その伊藤が長打を打つなど当たって、そこに立浪、片岡が確実に絡んで初回得点につながりました。監督としてもこの記録はすごいと思いますね。

 ただ残念なのは、3人の投手を女房役としてもリードした伊藤が、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病で2015年、46歳で亡くなってしまった。つらく、とても残念な出来事でした」

 PL学園の全盛時代を築いた名将として、高校球界に名を残した中村。山ほどの取材を受けたであろうが、「KKの代と春夏連覇の代、どちらが強いと思うか」という質問にはいつも困らされたと苦笑する。

「どちらとは言えませんよ。どうしてもって言うなら、先輩をたててKKってことにしておきましょう」

(文中敬称略)

後編<「清原和博も1年からすぐ練習に参加できると知ってPLに来てくれた」甲子園の勝率.853、教え子39人がプロ入りの中村順司が語る指導論>を読む

前編<「清原和博、桑田真澄の1年生の起用は上級生の反発もすごかった」PL学園元監督の中村順司が明かすKKコンビ秘話>を読む

【プロフィール】
中村順司 なかむら・じゅんじ 
1946年、福岡県生まれ。自身、PL学園高(大阪)で2年の時に春のセンバツ甲子園に控え野手として出場。卒業後、名古屋商科大、社会人・キャタピラー三菱でプレー。1976年にPL学園のコーチとなり、1980年秋に監督就任。1981年春のセンバツで優勝を飾ると、1982年春優勝、1983年夏優勝。1984年春の決勝で敗れるまで甲子園20連勝を記録。1998年のセンバツを最後に勇退。18年間で春夏16回の甲子園出場を果たし、優勝は春夏各3回、準優勝は春夏各1回。1999年から母校の名古屋商科大の監督、2015〜2018年には同大の総監督を務めた。