加地亮『代表もサッカーもやめたい』選手として最も脂の乗っていた時期になぜ代表引退を決めたのか
私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第22回
日本一のサイドバックを目指した男の矜持〜加地亮(3)
◆(1)加地亮のサッカー人生を狂わせた1プレー「あれは酷かった」>>
◆(2)柳沢敦の「急にボールが来た」発言の真相を加地亮が明かす>>
2006年ドイツW杯について振り返る加地亮
ドイツW杯で日本はグループリーグ敗退に終わった。それでも、2試合に出場した加地亮が得たものは大きかった。
「これまでやってきた努力が『しょぼいなぁ』『もっとやらないといけないな』って思いました。世界にはすごい選手がたくさんいて、一緒にプレーしてみないとわからないことがたくさんあった。自分のなかで世界への物差しができたので、ドイツW杯以降、練習への取り組みも、意識も、変わりました」
一方、日本代表も次の南アフリカW杯に向けて、新たなスタートをきった。イビチャ・オシムが日本代表の監督に就任し、メンバーはガラリと顔ぶれが変わった。そんななか、加地も招集されたが、ドイツW杯が終わったあと、精神的な疲れを感じていた。
「苦しい最終予選を戦って、本大会は惨敗して終わった。後悔だけが残り、『何してんのやろう』って思って帰国した。そこから、すぐにまた代表ってなった時、正直『サッカーがしんどいな』って思ったんです。
オシムさんに呼ばれて光栄でしたけど、精神的にというか、気持ちが疲れているんで、身体が動かない。(代表に行っても)楽しくないし、キツいだけなんですよ。何が原因なのかわからないですけど、そこからは気持ちが乗らないままプレーしていました」
オシムのサッカーは学びが多く、面白かった。だが、サッカー自体はあまり楽しめなかった。
そうして2年が経過し、オシムが病に倒れた。岡田武史が監督を引き継ぎ、2008年からいよいよ南アフリカW杯予選が始まろうとしていた。何人か新しい選手が招集されるようになり、そのタイミングで加地は重大な決断を下した。
「オシムさんの時は、キツいながらも2年間、やることができた。でも、監督が岡田さんになって、右サイドバックにはウッチー(内田篤人)が頭角を現してきた。しかも、これからW杯予選が始まろうとしていた。
ドイツW杯の時は予選で苦しみ、W杯は儚く終わった。それをまた繰り返すのかと思うと、しんどかったので、『やめるんだったら、このタイミングやな』と。それで、嫁にも『代表も、サッカーもやめたい』って言ったんです。
そうしたら、『まだ29歳だし、もうちょっと頑張ったら』と言われて......。でも、代表とクラブの両方でやるのはしんどいんで、ガンバ大阪だけに専念することにしました。
その時はもう、南アフリカW杯のことは何とも思っていなかった。代表には未練がなかったし、代表引退も後悔はなかったです」
2008年5月、加地は日本代表からの引退を公言した。
同時に、海外でのプレーも封印した。ドイツW杯後、ドイツのクラブから打診があったという。海外でのプレーはワールドユースに出場した頃からの夢だったが、自分の目標を達成すべく、日本でのプレーを選択した。
「ドイツW杯が終わって、世界に出ることがなくなってからは、『日本で一番のサイドバックになりたい』という気持ちがより強くなった。前から思っていたんですけどね(笑)」
加地はガンバで不動の右サイドバックになり、西野朗監督時代にはAFCチャンピオンズリーグ制覇をはじめ、カップ戦、天皇杯優勝などに貢献。一時代を築いた。
南アフリカW杯は、テレビで選手たちの活躍を楽しく見ていた。
「代表を引退したんで、悔しさとかもなかったですね。自分は『ガンバでサッカーをやりたい』『自分を高めたい』と思っていたんで。
目標って、人それぞれだと思うんです。別にW杯に出ることがすべて、じゃないんですよ」
加地は2014年のシーズン途中までガンバでプレー。6月末、メジャーリーグサッカーのチーヴァスUSAに移籍し、残りのシーズンでリーグ戦全試合に出場した。
そして翌年、J2のファジアーノ岡山へ移籍した。メジャーリーグサッカーで移籍先が見つからなければ、現役を引退しようと思っていたが、FC東京時代のコーチだった長澤徹が岡山の監督に就任。その縁で岡山入りし、2017年までプレーして現役を引退した。
「岡山では3年プレーしたんですけど、実はもう1年、契約が残っていたんです。でも、3年目のシーズンの終盤に、『次の1年はどこかで妥協しながらサッカーをするんだろうな』っていう気持ちが出てきたんです。
それって、サッカーをやっていて初めてだったんですよ。その時点で(現役を)やめるべきやなって思いました」
加地の言う「妥協」とは、どういうことだったのだろうか。
「自分は24時間、すべてサッカー中心で生活してきたんです。何時に寝て、何時にご飯を食べて、練習を100%やって、何時にトレーニングをして......っていう感じで生きてきた。
でもそれが、『できない』『妥協するかも』という感情が生まれてきていた。それはもう、サッカー選手としては『無理やな』と。
自分は感覚的な選手に見られがちだったけど、ノリではサッカーをしない。完璧主義者なんですよ。しっかりと準備して、パーフェクトに近い状態で試合に出る。
それができないのは、チームやチームメイトにも失礼じゃないですか。自分に嘘はつかれへんし、嫁にも相談したら(今度は)『もういいんじゃない』と言われたので、やめたんです」
加地は、Jリーグ通算499試合出場で現役を終えた。現役最後となった2017年シーズンには、あと1試合で500試合出場という状況を迎え、シーズン終盤にはそれを達成するチャンスは何度かあった。だが、監督の長澤は加地というカードをあえてきらなかった。
「自分の500試合のために、きりたくもないカードをきるのは、試合に出ている選手に対して失礼だし、自分にも失礼だと思ったんだと思います。
自分も記録のためだけに、試合には出たくない。チームが勝つのが一番なので、必要ないなら出さないのは当たり前。徹さんのことはよく理解していたので、(試合に)出られなくても何とも思わなかったです」
当時、岡山のコーチだった戸田光洋が「加地亮」と書いた交代用紙を、加地は今も持っている。個人記録がかかっていても、チームの勝利を優先する監督の、プロに徹した姿勢があったからこそ、加地はアメリカから帰国後、引退せずに岡山で奮闘してきた。最後まで、お互いにプロとしてチームの勝利にこだわったことで、加地は清々しい気持ちでスパイクを脱いだ。
「(現役を)やりきった選手は『やっとやめられる』という気持ちで引退できると思うんです。自分も『これでやっと引退できる』っていう安堵感しかなかった。涙もなく、『最高のサッカー人生や』と思いました」
引退後は、夫婦で経営する『CAZI CAFE』を手伝ったり、サッカー解説やイベント、ガンバの公式YouTubeなどの仕事をこなしている。当初、解説はガンバの試合が多かったが、最近はセレッソ大阪やヴィッセル神戸、京都サンガF.C.の試合も増えてきた。
「解説の仕事は難しい。戦術よりも人のことを言うんで、しんどいんです。だって、その選手の背後には家族やサポーターとか、いろんな人がついている。すんなり受け入れてくれるためには『どういう言い回しがいいのかな』って考えないといけないので。
もっとうまくなりたい。水沼貴史さんみたいにわかりやすく、ファンにも選手にもうまく伝えられるような解説者になりたいと思っています」
いずれは、淡路島にある妻の民宿を継いでいこうと考えている。島ではサッカーの合宿などが増えており、解説などの仕事をしながら淡路島で生活していく予定だ。
ドイツW杯のことは、今も鮮明に覚えている。
「史上最強」と言われたチームだったが、力を半分も出し切れずに終わった。昨年のカタールW杯では、選手が個々の力を発揮してドイツ、スペインを打ち破り、ベスト16に進出した。ドイツW杯のチームがカタールW杯の日本代表と戦ったらどうなるだろうか。
「カタールW杯のチームのほうが、レベルが高いし、強いと思う。それは、みんな海外の厳しい環境でプレーしているから。ふだん、Jリーグで日本人と対戦してW杯を戦うのと、常に当たりの強い外国人相手と戦っているのとでは、全然違うからね。
しかも、今の選手は相手の出方によって、自分たちが変化できる対応力がある。自分らはオーストラリア戦で変化できなかった。対応力は日本人が難しいところだけど、それが今のチームはできているし、監督の考えに選手が寄り添いながらチームがまとまっている。
それができるのが強いチームだと思うんで、今の代表には期待しかないです」
(おわり/文中敬称略)
加地 亮(かじ・あきら)
1980年1月13日生まれ。兵庫県出身。滝川第二高卒業後、セレッソ大阪入り。以降、大分トリニータ、FC東京、ガンバ大阪、チーヴァスUSA、ファジアーノ岡山でプレー。1999年ワールドユースで準優勝を果たした「黄金世代」のひとり。その後、日本代表でも活躍し、2006年ドイツW杯に出場した。国際Aマッチ出場64試合、2得点。