長谷部康平インタビュー(前編)

「そんな時期もありましたねぇ」

 長谷部康平は遠くを見ながら言った。

 そんな時期──それは、愛知工業大時代を指していた。地方の無名大学出身の長谷部が一躍脚光を浴びたのは、大学4年の2007年。翌年に開催される北京五輪のアジア予選に、プロのメンバーが顔を揃えるなか、アマチュアで唯一、日本代表候補に選ばれたのである。

 身長173センチとピッチャーとしては小柄ながら、軸足である左足に力を溜め、勢いよく前に踏み出して左腕をしならせる。全身がバネのように躍動する、ダイナミックなフォームから放たれる最速152キロのストレートは大学生の域を超えていた。


2007年のドラフトで5球団から1位指名を受け、楽天に入団した長谷部康平

【1年目のオープン戦で起きた悲劇】

 同年のドラフト。東洋大の大場翔太、慶應大の加藤幹典と並び「ビッグ3」と謳われる目玉選手だった長谷部は、大学・社会人ドラフト1巡目で5球団が競合した末に、交渉権を獲得した楽天に入団した。

 しかし、サクセスストーリーはここまでだった。長谷部はプロ9年間での通算勝利はわずか11勝。大物ルーキーと呼ばれた選手としては物足りない数字と評されても仕方がない。

 だが本人は、この事実が想定内とばかりにあっけらかんと笑い飛ばす。

「自信なんてなかったっすよ。あの当時、中部大の鈴木(義広)さんとか日本福祉大の浅尾(拓也)さんという同じリーグ出身の歳が近い先輩がドラゴンズで頑張っていたので、『プロで食らいついていければ、何とかなるかもしれない』って思うくらいでした」

 事実、長谷部のプロ野球生活は、なんとか食らいついた9年間だった。円滑に回っていたキャリアの歯車。それが狂わされたのは、プロの水にまだ慣れていない1年目だった。

 3月2日、長崎で行なわれたロッテとのオープン戦。ほんとに何気ないプレーだった。

 先発した長谷部は初回、ファースト方向に上がったフライを小走りで追っている最中に、左ヒザがカクンと抜け落ちたような感覚を抱いた。痛みは感じたが、投げられないほどではなく、5回を1安打5奪三振、無失点と前評判どおりのピッチングを披露した。

 本格的な痛みが長谷部を襲ったのは試合後からだ。左ヒザが急激に熱くなる。ジンジンと疼くような痛みが消えることがなく、歩行さえも困難になっていった。

 左ヒザの半月板損傷。病院で検査をすると、医師からそう告げられた。これまでの野球人生で手術の経験がなかった長谷部は、リハビリで傷を癒す保存治療を選択した。自らの体にメスを入れることに少なからず恐怖心があったことも事実ではあるが、それが100%の決断理由ではなかった。

 焦り。実際はそこに尽きる。

「ドラフト1位で入って、周りの期待とかも伝わっていましたし、『ゆっくり治そう』って思えなかったんです」

【苦境のなかでの唯一の理解者】

 シーズンが開幕し、話題のルーキーがマウンドに上がる。自分ではキャッチャーミットをめがけて投げているつもりでも、ボールは力なく明後日の方向に放たれる。そんなシーンも散見した。軸足の左足にしっかりと体重を乗せ、全身の力を目いっぱい使って投げ込む長谷部にとって、左ヒザのケガは選手生命を脅かす致命傷となった。

 2008年、新人王の有力候補と期待されながら1勝に終わった長谷部は、シーズンオフに手術を決断した。だからと言って左ヒザが完治したわけではなく、それどころかまるで憑き物のように長谷部の不安材料となっていった。

 2年目は序盤こそ勝ち星を重ねられたが、夏を迎える頃にヒザが悲鳴を上げた。下半身を満足に使えないため練習ではランニングもできず、比較的、負担の少ないエアロバイクを漕ぐことしかできない。だから、登板では満足なパフォーマンスを発揮できず、打ち込まれる。当時の野村克也監督からぼやかれ、メディアの風当たりも強くなっていく。ファンの野次も耳に届くようになった。

 長谷部は「左ヒザの調子がよくない」という言い訳は一切しなかった。

「トレーニングコーチとか、身近な人以外には言わずに隠していましたからね。ヒザをテーピングでぐるぐる巻きにして投げていたなんて、監督は知らなかったと思いますよ」

 それだけに、周囲の冷たい視線が苦しかった。「あれを経験したら、何でも耐えられますよ」と、長谷部は苦虫を噛み潰したような表情を見せながら続けた。

「何を言われたのかわからないくらい、ボロクソに叩かれたことだけは覚えています。僕はふだん、スポーツ新聞とかあんまり読まないようにしていたんですけど、周りの批判っていうのは耳に入ってしまうものなんで......」

 2年目も5勝止まり。批判にさらされるなど苦しい現状を受け止められていたのは、心の支えとなる理解者がいたからなのだという。

 長谷部がプロ野球生活のなかで「一番お世話になった」と即答したのが、楽天でおもに二軍投手コーチを務めていた高村祐だった。同じドラフト1位で近鉄に入団した彼もまた、度重なる故障を経験しながらも14年間、プロの世界を生き抜いた実績を持つ。

 そんな高村に、長谷部は心を開いた。

「どんなに投げ方を変えみても力が出ないんです。どうしようもなくないですか?」

 長谷部が愚痴るたびに、高村は「いろいろ試してみよう」と寄り添ってくれた。

「高村さんはすごく苦労された経験を持っていらしたんで、僕のことをすごく理解してくれたんですね。だからいろいろ相談に乗ってもらいましたし、助けられました」

 2012年の5月に2度目の手術を決意したのも、そんな暗中模索のなか「少しでもいいパフォーマンスができるなら」と考え抜いた末での選択でもあった。この頃には左ヒザは軟骨の損傷がひどく、ほかの箇所から移植する大がかりな手術だったという。医師からは「復帰までに1年はかかる」と明示された。

 術後から3カ月間は左足を地面に着くことができず、歩行が許された当初は平衡感覚を取り戻すのに苦労したほどだった。しかし、最初から1年と決めて手術を受けた長谷部に不安や焦燥はない。あったのは「投げられるようになれば、多分よくなる」という、淡くとも確実に抱ける未来への期待だった。

【中継ぎとして日本シリーズでも登板】

「あの1年間があったから、次の年はちゃんと投げられたんですよ」

 2013年のシーズン序盤に復帰した長谷部は、中継ぎピッチャーとなった。コーチの高村と取り組んできた左ひざに負担のかからないピッチングフォームも、「上半身の力を使って、投げ下ろすイメージ」で腕を振ると、苦しんでいたそれまでより幾分マシに思えた。

 この年、長谷部は24試合に登板し10ホールド、防御率1.83。日本シリーズでも第4戦で登板し、球団初の日本一となるチームのピースとして機能した。それは、重傷を言い訳にせず、真摯に、愚直に食らいついてきた長谷部に訪れた、ちょっとしたご褒美だった。

「なんとか頑張れた1年でしたよね。すごくいい経験をさせてもらえてよかったです。でも、安心感はなかったですよ。次の年も同じような成績を残せるとは思ってなかったんで」

 2013年のパフォーマンスを実現させたフォームは、同時に左肩やヒジに負担が圧しかかる諸刃の剣でもあった。翌年も中継ぎとしてキャリア最多の26試合に登板し、防御率3.79と最低限の数字を残したものの、やはり体への負担は否めず、2015年には左ヒザの痛みまで再発してしまったのである。

 走ればヒザが腫れる。3週間に1回は膨れ上がった患部から水を抜き、痛みを緩和させ関節の動きを滑らかにすると言われるヒアルロン酸の注射を打つ。試合に投げても状態がよければストレートの最速は140キロ以上だったが、悪ければ125キロと、自分でも呆れるようなマウンドも日常的となっていた。

 長谷部は限界を悟った。

「そんな毎日でプロ野球選手をやってること自体がおかしいな、と。この時ってもう、自分がやれることをやり尽くしているんですよ。だから、楽天から『今年で最後です』って言われたら区切りをつけようって」

 2016年、楽天から戦力外を言い渡された長谷部は、すぐに引退を決断した。

 あの当時も今も「未練はない」と断言できる。ただ、どうしても引っかかる。もし、1年目のオープン戦でケガをしていなければ──そう問いかけると、長谷部は制止するように言葉をかぶせた。

「プロ野球選手って、そういうことも含めての実力なので。何かをきっかけによくもなるし、悪くもなるものだと思うんです。僕の場合、それがケガだったってことです」

 食らいつきました。やり切りました。清々しく話す長谷部の表情が、そう訴えかけてもいるようだった。

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