滝のように血が流れ…柳刃包丁を振り下ろした薬物中毒者 護身術の重要性〜実録・ボディーガード体験談
ボディーガードの仕事は戦うことではなく、クライアントを危険から遠ざけることです。そのためには、こちらの情報は漏らさずに、警戒相手の情報を集めて行動を予測する必要があります。しかし、これはあくまで理想であり、実際はいつどこで襲撃されるか予期できない現場が珍しくありません。
そんな襲撃において、「刃物」は入手が簡単で殺傷力が高いため、最も用いられやすい凶器です。今回は、警護中に突然、刃物で襲われたときのリアルな状況を、ボディーガード歴27年のM氏に伺いました。(個人情報保護の観点から、会話の内容などに一部アレンジを加えています)
わめく男の右手には「柳刃包丁」
十数年前、ある経営者の警護での出来事です。
その会社は、前科者や薬物使用歴のある人材も受け入れており、社内ばかりか顧客とのトラブルも絶えなかったそうです。ただし、社長さん自身は、いわゆる“反社”とは一切関係のない人です。むしろ業界全体の健全化を目指しており、それを疎ましく思う人間が多くいました。
私はその現場に約2年間入りましたが、単なる怒鳴り込みは月に3〜4回、武器を手にした襲撃は3カ月に1回ほどのペースで発生していました。身辺警護とはいえ、この頻度は異常です。後にも先にも、そんなペースで襲われる現場は経験がありません。その中でも典型的な、刃物による襲撃の例をお話しします。
ある日のことです。オフィスに社長と事務の女性、それに私の3人でいました。確か午後2時ごろだったと思います。社長と事務員さんは自分のデスクに座り、私は流し場の前に立っていました。
突然、バーン! とドアを開き、身長が170センチほど、痩せ形で薄汚いスウェットを着た男が、わめきながら事務所の中をキョロキョロ見回したのです。男の名前はWだったと思います。見ると、Wの右手には柳刃包丁が握られていました。
従業員や業者の出入りが多いので、いつもドアは施錠していませんでした。男は酒に酔っているのではなく、薬物を打っているようで、とても話が通じる状態ではありません。しかも、ターゲットを探すように事務所を見渡しています。
とっさに「社長と事務員さんへの攻撃を防がなければ!」と判断し、私は「おいっ!!」と叫び、Wの注意を自分に向けました。すると、「あんじゃぁコラァー!!」と怒鳴り、こちらをにらみつけています。これで、私だけに注意が向きました。
Wは社長と事務員さんをスルーし、体を左右に揺らしながら私に近づいてきました。
額から滝のように血が流れ…
このときの私の装備は特殊警棒だけ。防刃チョッキは着ていません。
通常、警棒は縮めた状態で携帯します。しかし、本当にたまたまですが、Wが来訪する少し前に、社長から「警棒を見せて」と言われて伸ばしていたのです。一度振り出した警棒は縮めるのが大変なので、この日は伸ばしたまま腰の後ろに差していました。私は、既に伸びた警棒を、Wから見えないよう体の横に隠し、間合いが詰まるのを待ちました。
警棒が届く距離に近づく直前、Wは逆手に握った包丁を振り上げました。と同時に、私は空手の上段受けのようにWの手首を警棒で打ち、返し刀で額を水平に払いました。
包丁は落とせませんでしたが、直後にWの額から血が滝のようにダーッと流れ出ました。高確率で過剰防衛に問われる案件ですが、他の手を考えたり、手加減したりする余裕などありません。
通常、人間は、自分から流れ出た大量の血を見ると、十数秒ももたずにへたり込みます。しかし薬物の影響だと思いますが、Wは1分以上も臨戦態勢を崩しませんでした。ただし、流れた血が目に入り、われわれが全く見えなかったようです。わめきながら後退し、壁を背にして包丁を左右小刻みに振っていました。
とはいえ、攻撃ができる状態ではありません。玄関近くの壁を背にして座り込み、左手で額を押さえ、右手で包丁を突き出してけん制していました。自分から刃物で襲いかかったくせに、「ドス持ってるなんてズリィーぞ!」とも言っていました。どうやら、銀色の警棒を刃物と思い込んだようです。
できれば取り押さえたいですが、包丁を手にしている相手に近づくのは得策ではありません。離れている限り危険はないので、社長と事務員さんを奥の倉庫に避難させ、私はWを監視しました。その間に、事務員さんが110番通報をしていました。
念のため、椅子とテーブルで簡易的なバリケードを作りましたが、警察が到着したのは、通報から10分以上たった頃でした。110番の平均レスポンスと実際の到着時間は、状況によって変わるので仕方ありません。
何より驚いたのは、到着した警官が完全防備で、しかも10人近くいたことです。「薬物中毒者が刃物を振り回している」と通報していたからでしょう。あとは警察に引き継ぎ、私は取り調べのため所轄署に同行しました。
「逃げる」選択肢は「ない」ケースの方が多い
やむを得ないとはいえ、相手にけがをさせているので、告訴も覚悟していましたが、訴えられはしませんでした。正直、ベストの対応とはいえませんが、クライアントの社長に喜ばれたのは幸いです。
その後も次々と「招かざる客」が現れる、休む間のない現場でした。とにかく1人きりで手一杯だったので、緻密さとは常に程遠い状態なのです。身辺警護というより、用心棒ですね。正直に言って、かなり運に助けられていたと思います。
また、彼らは横のつながりがなく、複数人で来ることが少なかったのも幸いでした。襲われる回数は多かったですが、相手が少人数だったので何とかなったのです。狭い事務所で、本気で乗り込んできた大勢に襲われたら、1人ではとても防ぎ切れません。結果的にこの案件は無事に終わりましたが、計画の重要さを痛感しました。
プロによる警護も個人の防犯も、被害に遭わないためには「危険の予測」が必要です。多くのトラブルは、それだけで回避することができます。とはいえ、毎回プラン通りにはいきません。中には避けようのない攻撃もあるのです。
襲われたときに大事なのは「逃げること」とよくいわれます。確かにそれが大前提です。警護計画でも、避難ルートの選定は重要な項目です。しかし現実には、「逃げる」という選択肢が「ない」ケースの方が多いのです。つまり、最悪の場合は戦わざるを得ないことになります。
護身術とは、車に例えるとエアバッグです。作動しないのがベストですが、最後の安全装備として欠かせません。ただし護身術の場合、圧倒的に有利なのは先手です。しかし、いくら相手が危険な人物でも、先制攻撃ができる人は少ないでしょう。恐怖だけでなく、過剰防衛など、その先のことを考えればブレーキが掛かるのは当然といえます。
一方で、多くのケースでは、“今”を優先しなければ自分や大事な人を守ることはできません。「ペナルティー」と「守るべきもの」…これらを一瞬でてんびんにかけるという無理難題が、現行法では求められます。
危機意識とマナーは相関関係があります。一般的に「マナー違反」といわれる行為は、周りに迷惑なだけでなく、危険を招きやすいのです。その最たる例が「歩きスマホ」でしょう。周りにぶつかりやすいということは、情報がシャットダウンされた無防備な状態であり、防犯や護身の観点からいうと致命的といえるのです。
残念ながら、最終的に護身術は必要です。護身術を必要としないためには、危険から意識的に遠ざかるしかありません。そして多くの人には、この意識が足りないように感じます。