八重樫幸雄が振り返る「師匠」中西太 若松勉らを育てた柔軟な指導から、オープンスタンスが生まれた
5月18日、"怪童"中西太氏が5月11日に亡くなったことが報じられた。90歳だった。選手としては1952年から西鉄で活躍し、5度の本塁打王を獲得。1962年からは選手兼監督に就任、1969年に現役を引退後は7球団で監督・コーチを務め、選手を育て続けた。
ヤクルトでは若松勉をはじめ、野村克也監督時代に活躍した選手たちも指導したが、八重樫幸雄もその教え子のひとり。そんな八重樫氏が、中西さんの指導、オープンスタンスのバッティングフォームが生まれる過程を振り返った。
選手として活躍後、ヤクルトをはじめ多くのチームで選手を指導した中西氏
恩師である中西太さんが、すでに亡くなられていたという知らせを受けて、とても驚くと同時に呆然としています。テレビでのニュースを見た岩村明憲からの電話で訃報を知りました。岩村もまた、僕や若松勉さん同様に、中西さんからバッティングの基本を教わった師弟関係にあるので、彼もまた気持ちの整理がついていないようでした。
中西さんには各球団に多くの教え子がいます。中西さんがヤクルトと関わりを持ったのは1971〜73年の3年間(ヘッドコーチ)、そして83〜84年の2年間(一軍ヘッド兼打撃コーチ)で、若い選手たちの指導に当たっていました。71〜73年は中西さんの義理の父でもある三原脩さんが監督をされていた時代。この時は鹿児島の湯之元でキャンプが行なわれました。
1日中グラウンドで汗を流した後、宿泊先に戻ってからも夜間練習は続きました。旅館の庭先でバットを振り、和室では新聞紙を丸めたボールでトスバッティングを繰り返しましたね。特に、社会人野球時代からその才能を高く評価していた入団したばかりの若松さんを、何度も何度も熱心に指導していた姿をハッキリと覚えています。
中西さんの打撃指導の基本は「内転筋を上手に絞りながら、ツイスト気味に下半身をうまく使ってスイングすること」。そして、その基本さえきちんとマスターできれば、あとはその選手の身体つきや、タイミングの取り方に応じて、それぞれの個性を尊重してくれる指導方法でした。こうした指導の結果、若松さんはプロ2年目となる72年には首位打者を獲得しました。
70年に高卒で入団した僕は、この頃若手だったので、まだまだ中西理論を理解するには至っていませんでしたが、実に熱心に指導されている姿、すぐに若松さんが結果を残した現実を見て、「本当にすごいコーチだなぁ」と感じていました。そして、僕が本格的に中西さんから指導を受けるようになったのは、83年に再びヤクルトのユニフォームを着てからのことでした。
この頃、僕は自分のバッティングについて悩んでいました。荒川博監督時代に、いわゆる「荒川道場」で指導を受け、一本足打法に取り組んでから本来の自分のタイミングを見失った僕は、70年代後半、思ったような打球を打つことができずにいました。そんな時に、中西さんがヤクルトに復帰されたのです。そしてこの再会が、僕にとっての大きな転機となりました。
さっそく中西さんに相談してみたところ、「まずは顔を開いてみたら?」とアドバイスをもらいました。「顔を開く」というのは、横目で投手を見るのではなく、「正対するように両目で相手投手を見ろ」ということでした。この時点では、後のようなオープンスタンスではなく、オーソドックスにスクエアに構えて立っていました。
中西さんの指示通りに取り組んでみると、完璧ではないけれど、少しずつ自分のタイミングを取り戻している感覚が芽生えてきました。しかし、まだ好不調の波は大きく、顔を正対し始めた頃はよかったけれど、それが長続きしませんでした。
すると中西さんは、「スタンスも少し開き気味にしてみたらどうだろう?」とアドバイスを与えてくれました。最初は半歩くらいアウトコースに開いてみたのですが、なかなかいい感じです。ここから試行錯誤を繰り返していくうちに、タイミングの取り方も少しずつよくなっている手応えを感じました。
「これはいいぞ」と思ったのも束の間、新たな問題が生まれました。当時、僕は銀縁のメガネをかけていたのですが、相手投手がカーブを投げる時に、一瞬だけメガネのフレームから外れてしまい、とてもボールが見えにくかったのです。現在のようにフチなしのメガネはまだ一般的ではなく、乱視気味のためにコンタクトレンズも使えなかった僕は途方にくれました。
せっかくタイミングを掴みつつあったものの、今度は銀縁フレームの問題で、また一からバッティングフォームを作り直さなければならなくなりました。しかし、中西さんは何も動じることなく、「もっと開いてみたらどうだ?」と言ってくれました。
初めは半歩だけでしたが、次に1足分ほど足を開いてみました。そして、さらに「もう少し、もう少し」と足を開いていくうちに、2足半から3足も三塁寄りに足を開き、身体ごと投手に正対するフォームになっていました。
これが、後に多くの人からマネされたり、今でもつば九郎からかわれたりすることになる極端なオープンスタンス「八重樫打法」の始まりです。
最初に述べたように、中西さんは選手個々人の身体の特徴にあった打撃フォームを提案してくれる柔軟性がありました。思えば、西鉄ライオンズの選手兼監督時代に竹之内雅史さん、基満男さんのように独特な打撃フォームで構える打者の指導もしていました。こうしたこともあって、あの極端な「八重樫打法」についても違和感がなかったのではないでしょうか。
中西さんは84年のシーズン途中にヤクルトを去りました。でも、僕はその後も中西さんと一緒に作り上げたオープンスタンスを磨き続けました。その結果、翌85年には、プロ16年目で初めて打率3割を超える.304を記録しました。僕にとって、中西さんは本当の恩人です。
僕は93年シーズンを最後に現役を引退し、指導者となりましたが、その後も折に触れて中西さんとの交流は続きました。そして、中西さんはユニファームを脱いでからも、しばしば神宮球場に顔を出して、若手選手たちを熱心に指導してくれました。
野村克也監督時代を支えた、宮本慎也や真中満、その後の岩村明憲、青木宣親など、当時の若手選手たちはみな中西さんからさまざまな指導を受けているはずです。才能あふれる伸び盛りの若者を見ると、指導者としての血が騒ぐのでしょう。当時、若松さんは監督となり、僕はコーチとなっていましたが、練習場に中西さんが顔を出してくれると、とても嬉しく、懐かしく、自然にホッとした感覚に包まれました。
こうして、「中西太の教え」は、時代を超えて現在まで続いています。2008年に、僕はユニフォームを脱ぎました。この時、中西さんから「オレの打撃理論の一番の理解者はお前だからな」と言ってもらったことは今でも忘れられません。それが、その後のスカウト活動、そしてアマチュア指導の際の自信になりました。
コロナ禍のために、直接お会いする機会がなかったのはとても残念ですが、この期間もお電話でやり取りできたことは不幸中の幸いだったかもしれません。現在も球界には、中西さんの指導を受けた選手、指導者がたくさんいます。僕もまたそのひとりであることを自負しています。中西さんの教えを、後世に伝える役割が、僕たちには残されているのだと、あらためて肝に銘じています。
中西さん、いつになるかはわかりませんが、僕も天国に行った時に、またご一緒して野球談議に花を咲かせたいと思います。どうぞ、安らかにお眠りください。本当にありがとうございました。