2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
〜HAKONE to PARIS〜
第14回・秋山清仁(日体大―愛知製鋼)前編


2016年の箱根駅伝。6区で区間賞を獲った日体大・秋山清仁

 丸刈りの坊主頭が箱根の山から弾丸のような勢いで下っていく。

 まるで映画のワンシーンのように迫力に満ちた走りが放送され、2016年、秋山清仁は一躍、時の人になった。名前が全国区になった一方で、5000mや1万mの持ちタイムが平凡だったがゆえに、「秋山は下りだけの選手」と揶揄されることもあった。卒業後、マラソンで勝負し、そうした中傷をはねのけ、パリ五輪を目指すMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)の出場権を獲得した。根っからの駅伝男がMGCに勝つために考えているプランとは、どういうものなのだろうか──。

 のちに山下りで箱根駅伝の歴史に名を刻むことになる秋山は、大学進学に際し、譲れないポイントがふたつあった。

「中学の時の担任が女性で体育の先生だったんですが、その先生に憧れて将来は体育の先生になりたいと思ったんです。そのため、まずは大学で体育教師の資格がとれること。もうひとつは小学校の時から箱根駅伝を走りたいと思っていたので、箱根で安定してシード権を獲っている大学。僕のなかでは日体大、順天堂大、国士舘の3校を考えていました。最終的に日体大に決めたんですが、憧れていた先生の出身校だったというのも影響したかなと思います」

 日体大は、質実剛健を謳う体育とスポーツ科学の専門大学。それゆえ、部活は軍隊のような厳しさをイメージしていたが、入学してみると意外とそうではなかった。

「ただし挨拶とか掃除とか生活面の上下関係については厳しかったですね......。たとえば部屋を出入りする度に先輩に挨拶をしないといけないルールがあって、風呂に行く時は廊下、脱衣所を通るのですけど、その移動の合間にも挨拶をしないといけないんです。こんなに挨拶いるかっていうぐらい飛び交っていましたね(苦笑)。それ以外は先輩たちが楽しそうにしていたので1年間は我慢しようって思っていました」

 チームは、秋山たちが入学する年の箱根駅伝で優勝していたことで非常に活気があり、選手のレベルも高かった。

「僕がちょうど入学する年の1月に日体大が箱根で優勝したんですが、僕らの代はその前年の19位の時を見てきているので、優勝チームに入る気持ちで来ていなかったんです。強い先輩たちにはオラオラと煽られて、僕らの代は"谷間の世代"と言われていました。でも、逆に弱かったから強くなって先輩たちに意見を言えるようになろうって団結していました」

【高校時代から6区出走が夢だった】

 入学前から秋山は6区を走るという明確な目標を持っていた。入学後に「6区を走りたい」と監督に訴え、通常の練習以外に6区を希望する先輩と走るようになった。

「6区を走ると決めたのは、高校時代です。高3の合宿時、監督に『おまえ、下りが向いているんじゃないか』と言われたんです。ふだん、厳しい印象が強い監督だったので、そう褒められたことでその気になってしまい、1年の時から6区を走ることを意識して練習をしていました」

 高校時代から6区を走ると決めていたせいか、入寮してすぐに運命的ともいえる出来事があった。同部屋になったのは前年に6区を駆けた鈴木悠介(元JR東日本)だった。

「入学したら6区を走った鈴木さんと話ができたらな、って思っていたら同じ部屋になって。鈴木さんからは、下りの話はもちろん、箱根が近づいてきた時、何をしているのかとか、準備のところを見ることができましたし、走るうえでの心構えとか、メンタル面のことも教えていただきました。怖がったら下りは走れない。思いきっていけば後半はむしろラクに走れる。そういう話を聞けたので、自分にとってはすごくタメになりました」

 大学2年時、秋山は6区を目指すひとつ上の先輩と夏まで練習を積んでいた。だが、9月、ふたり同時に故障してしまい、10月までの2カ月間、練習ができなかった。当時、秋山は走力ではチームで16番以内にも入れていなかったが、監督が下り要員の枠を作ってくれたこと、運よくその先輩より先に復帰できたことで箱根駅伝のメンバー入りを果たすことできた。そうして、小学生の頃の夢だった箱根駅伝の舞台に立つことができた。

「最初は緊張しましたね。スタート前はめちゃくちゃビビって、なんで僕はここにいるんだろう、なんでここに来ちゃったんだろうってすごく怖かったんです。しかも、最初の上りがめちゃくちゃキツくて、足がパンパンになり、2度とこんな坂上りたくないと思いました。ただ、上りと下りで使う足が僕は違うので、これを上りきったら下りが待っている。そういう気持ちだけで走って、下りに入ると、楽しくてもう終わっちゃうのかって感じでした」

 初めての箱根駅伝6区は非常に刺激的で学びが多かった。それまでテレビで見てきた6区は単独でスタートするイメージだったが、この時は一斉スタートだった。走り終わったあとは、コースの印象や自分の感覚をメモに残した。

 それが活きたのが大学3年時の箱根駅伝だった。この時は「山の神」神野大地の走りで1位の青学大に10分以上の差をつけられる大学が多く出て、日体大も復路で一斉スタートになった。だが、前年に経験していた秋山には余裕があった。

「6区一斉スタートだと、箱根の空気感も相まって集団の前に出たくなってしまう選手が多いと思ったんです」

 秋山は「自分が、自分がという気持ちを出しすぎると、後半もたない」というのを前回大会で経験していたので、冷静さを保ちつつ、鈴木が出した日体大記録の58分51秒を超えるんだという覚悟を持ってスタートした。

「走っていてすごく楽しかったですね。ただこの時、僕は区間新で走っていたことにまったく気がついていなかったんです。箱根湯本から監督車が出てきた時、そのままのリズムで行くぞと声かけをしてもらいました。そうしたら早稲田大の監督車から『前の日体大の選手が区間新ペースで行っているので、ついていこう』と言っているのが聞こえてきたんです。あれ、自分ってそんなペースで走っているのかって思って。そこからもうひとつギアを上げました」

 秋山は苦しい表情を浮かべながらも区間新を叩き出し、チームの総合7位、シード権獲得に大きく貢献した。この時の秋山の走りは、テレビを見ていた多くの人に強烈なインパクトを与えた。都大路を走る高校生のような丸刈り頭で、黒いレッグカバーをつけて激走したのだ。

「あの坊主は訳ありで(苦笑)。12月1日、部のミーティングで箱根まで1か月、気を引き締めるために、寝坊したら坊主だということになったんです。そうしたら、その翌日に寝坊してしまい、そのペナルティで本当に申し訳ございませんって感じで坊主にしたんです。でも、それでみなさんの印象に残ったようだったので、坊主でよかったのかなというのもありましたね(笑)」

【箱根6区で2年連続区間賞を獲得】

 続く4年時も秋山は6区を走り、区間賞を獲得した。3度の6区で一番印象深く残っている箱根駅伝は、どの学年の時だったのだろうか。

「4年生の時ですね。2年、3年の時は6区を楽しめたんですが、4年の時は初めてプレッシャーを感じました。前年に出した58分9秒という区間記録を超えないと失敗だと思われるんじゃないか、昨年なんであんなに走ってしまったんだろうとか、そういう気持ちが箱根が近づくにつれて大きくなったんです。過去2回は楽しんだだけで記録が出たんですけど、4年の時は楽しみつつ自分を超える計算をして、考えながら走っていたのですごく印象に残っています」

 自ら6区を志願して走り、出走した3回中2回区間賞を獲得した。下りでは誰にも負けないというプライド、エリート選手ではない反骨心が秋山の気持ちを駆り立て、スペシャリストに押し上げる原動力になった。

「6区は、人生のなかで一番楽しめる場でした。箱根の空気感のなかで、あの下りの舞台というのは本当に唯一無二でした」

 秋山は、6区を駆けることに全ての力を注ぎこんだ。同じ区間を走りそうな選手をリサーチし、研究し、下りの走りをイメージして練習に取り組んだ。勢いで山下りをしたのではなく、しっかり準備し、区間賞を獲るだけの努力を日常的にこなしてきたのだ。

 だが、一方で6区しかない自分に不安を感じることもあった。6区を走った鈴木健吾(富士通・元神奈川大)や浦野雄平(富士通・元國學院大)らがその後、2区や1区など往路の主要区間で爆発した走りを見せると、嫉妬に近い悔しさを感じたのである。

「自分は6区だけ、山下り専門というイメージなんだろうなって。実際、トラックとかで結果を出していなかったですし、そういう舞台に身を置いて勝負していなかったので仕方ないんですが......」

 だが、6区を3度駆けたことが秋山に大きなチャンスを与えてくれたのも確かだった。

「箱根を走ったことで競技力がめちゃくちゃ上がったというのはなかったですが、結果を出せたことで自分の価値を示すことができましたし、卒業後も競技を続けることができました。箱根で走り続ける夢をかなえられた経験と、走ったら想像以上の結果が出て、頑張って続けていれば夢はかなうという実体験ができたのはすごくよかったです。それが、今の僕の競技生活にも活きています」

後編に続く>>「なぜ義務感に追われながら走っているのか」マラソン秋山清仁は動画から刺激 MGCは「テレビに長く映ってアピールしたい」