『文豪、社長になる』(門井 慶喜)

 ベストセラー作家にして文藝春秋を創業、芥川・直木賞を創設した菊池寛。周囲に愛されたその生涯を追った『文豪、社長になる』が現在好評発売中です。

 2018年、菊池寛の生誕130周年を祝し、菊池寛記念館(香川県高松市)にて行われた北村薫さんと門井慶喜さんによる特別対談を公開します。

 北村 門井さんとはじめてお目にかかったのは大阪でした。イベントの後に食事の席があって、ふたりで“マニア合戦”をした。お互いに「こんなの読んでる」「こんなに読んでる」と(笑)。たしか、『茶話(ちゃばなし)』の話をされていた。

 門井 覚えていていただけて光栄です。『茶話』は戦前、毎日新聞の学芸部長だった薄田泣菫(すすきだきゅうきん)が歴史上の人物の逸話を中心に書いた新聞コラムですね。

 北村 戦前だと、上司小剣(かみつかさしょうけん)が読売に書いたコラムも面白い。さらに今日の主役、菊池寛が「文藝春秋」に書いた『話の屑籠(くずかご)』を加えたら、私が考える「三大コラム」になる。そんなことをこの菊池寛記念館に向かいながら思ったんです。

 門井 『話の屑籠』は、時事問題を扱っていて面白いですよね。

 北村 菊池寛という人の考え方がほんと良く出ている。のちに文藝春秋の社長になる池島信平も、入社前から「文藝春秋」を手にすると真っ先にこれを読んでいた。永井龍男の評伝『菊池寛』には、池島が語った『話の屑籠』の評価が書かれています。〈短いものであったが、実にリアルで、いい意味の良識にあふれた感想が、毎月2つ3つ載っていた。平易な文章で、自分の思っていることを的確に現わしているところが、胸がすいた〉。

 門井 池島は、文藝春秋の中興の祖と言われる編集者ですね。東京帝大で西洋史を専攻していて、教授の今井登志喜から「君、大学に残らんか」と誘われたくらいの秀才。当時の東大生なら、むしろ難解な文章のほうを好みそうですが、彼は菊池寛の平易さを評価していた。入社前からジャーナリスティックなセンスが抜群でした。まさに、栴檀(せんだん)は双葉より芳し、ですね。


菊池寛記念館を見学するお二人

 北村 菊池の時代は、やたらに文飾が多かったり、比喩が多かったりするのが「良い文章」とされたイメージがある。でも、菊池はストレートに表現する。だからいま読み返しても、強く訴えるところがありますね。

 門井 特にデビュー直後に書いた初期の短編小説『恩讐の彼方に』『忠直卿行状記(ただなおきょうぎょうじょうき)』『藤十郎(とうじゅうろう)の恋』などは、その傾向が強い。言い換えるなら描写よりも叙述、詩よりも散文によりいっそう強く寄っている文章なのだと思います。文章は飾りから古びるから、菊池は古びない。

 北村 たしかに散文的です。小島政二郎は『眼中の人』で菊池の文章について面白いことを書いている。〈文章の粗雑さ、技巧の粗雑さ、私の嫌いなそうしたきめの荒さも、この「生々しさ」の魅力のうちに消えてしまっていた〉。

時代の先に立つ精神

 門井 菊池の初期作品には3つの特質があると思います。1つ目がその散文性だとすると、2つ目は人口に膾炙しているテーマ、つまり読者にとって入りやすいものを扱う。歌舞伎を書くにも無名の役者ではなく元禄の名優坂田藤十郎。武士を描くなら、『恩讐の彼方に』のように仇討ちモノ。3つ目は、読者の意表を突くこと。『藤十郎』でも、題材に比べ中身は近代的な恋の仕掛けを使う。『恩讐』だったら、仇討ちを描きながら、最後は仇を討つ人と討たれる人が仲よく岩壁を掘っている(笑)。

 散文的な文章、人口に膾炙するテーマ、意表を突いた内容――この3つの特色は考えてみると、優秀な雑誌記事の特徴そのままなんです。

 北村 なるほどね。

 門井 菊池寛という人は、初期短編を書いている時点で将来の大ジャーナリストとしての芽が出ていると思いました。

 北村 戦国の世で最後まで命乞いをする今川家の小姓を描く『三浦右衛門の最後』なんて、いまなら「武士とはいえ、人間なんてそんなもの」と当たり前に受け止めるけど、書かれた大正5年ごろは忠臣蔵について「結局は浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が短慮だったんじゃないの」なんて言ったら、「とんでもない奴だ」と殴られた時代。そんなタイミングで『三浦右衛門』を書いた。やっぱり時代を早く生きた人だなという感じがします。

 門井 単に意表を突くというだけでなく、時代背景を考えれば、もっと深刻な思想があったわけですね。

 北村 今日、展示を見せてもらって面白かったのは、その『三浦右衛門の最後』のゲラでした。この作品の最後の一文には“これが人間なんだ”というような意味で、〈There is also a man〉という横文字が使われている。菊池は『真珠夫人』でも横文字を使っていて、そちらは今だと、ちょっと困ったなという感じだけど(笑)、この『三浦右衛門』ではうまく生きている。それで今回ゲラを見たら、この箇所が元々フランス語になっていた。それに菊池が線を引いて英語に変えているのを見て「なるほどな」と思った。フランス語はやり過ぎだと感じたのでしょう。

 門井 そういうことですか。

 北村 最初は、日本語だと強すぎると感じてフランス語にして、さらに英語に変える。その感覚がいい。実に菊池らしい判断ですね。

 門井 日本語だとベタッと肌につきすぎるから、一回突き放すためにフランス語にしてみたけれども、離れすぎるのでその中間くらいに……。

 北村 その手つきが見える展示になっている。「高松まで来なければ見られないものを見た。菊池寛記念館、誠に素晴らしい!」と感心しました(笑)。


再現された菊池寛の机の前で

 門井 読者が読んだらどう思うか、の見きわめが正確だったんですね。出世作『無名作家の日記』もそうでした。友人の芥川龍之介や久米正雄が東京で同人誌「新思潮」を作って評価されるのを見て、あいつら上手いことやりやがって、こっちは京都の田舎で苦労してるのにって悶々とするという話。登場人物の名前こそ変えていますが、寄稿先の「中央公論」の名編集者・滝田樗陰(たきたちょいん)が「芥川が怒るのでは?」って心配したそうです。でも菊池は「大丈夫」。実際、芥川は怒りませんでした。むろん友人づきあいもあるからですが、作品の受け止められ方を客観的に察する能力があった。

 北村 フィクションの度合いですね。里見紝(さとみとん)の有名な話で、友人の志賀直哉が山手線にはねられた時、志賀から精神的圧迫を受けていた時期だったので「こいつ死なないかなと思った」というようなことを小説に書いて絶交された。しばらく志賀の怒りは解けなかったというんですが、本当のことを本当に書いちゃうのが、その頃の純文学のあり方。それに比べて、菊池の『無名作家』は、菊池当人よりも一般化した、いわゆる小説になっている。

 門井 確かに芥川のことも久米のことも、それほど貶してない。「こんなすごい作品を書きやがって」という方だから、褒めてるともとれる。処理のしかたが巧妙です。

 北村 さらに読んで胸に残るのは、菊池自身が書いても発表できず、先行する作家たちの新作を気にして、ただ貶しているだけ、みたいなところ。表現する者が持つ普遍の哀しみが表れている。

文壇の中で“大人”だった

 門井 菊池は一高でした。そのまま持ち上がって芥川らと東大に行くはずだったのに、友人の身代わりとなって一高を中退した「マント事件」があって、一人だけ京都大学に進む。当時、京大の英文科は開設からわずか七年後という新設学科だった。われわれが考えるより“都落ち感”は強かったろうと思います。

 北村 ほんとうは都に行ったのだけど(笑)。

 門井 正しくは“上洛”です(笑)。菊池が京大に行ったことの最大の収穫は、もしかしたら、漱石に会わなかったことかもしれませんね。「新思潮」の人々は芥川が典型ですけど、久米正雄も松岡譲(まつおかゆずる)も、漱石のところに通って感化される。信仰とまでは言わないけど、それだけの魅力が漱石にあった。今になって思えば、もしも菊池が東京で漱石に感化されていたら、本来の才能ではない純文学的な方向、それこそ描写や詩情のほうへ流されていたかもしれない。


門井さんも、再現された菊池寛の机の前で

 北村 京大で教授だった上田敏に出会っても、漱石のように面倒を見てくれる人ではなかった。要するに菊池は師匠を持たなかった。彼にとっての師匠は、アイルランドやイギリスの本。それに日本の古典ですね。生身の師匠を持たなかったのは、あの頃としては珍しい。

 門井 菊池の『半自叙伝』を読むと、京大の先生に対しても、突き放して見ていますよね。

 北村 菊池は「新思潮」の同人の中でも年齢的に兄貴分だったことも、作品を特徴付ける意味で大きかった。仲間というにはちょっと年齢が上で、人生を見る目もちょっと上。萩原朔太郎の証言ですが、芥川が菊池について「私の英雄(ヒーロー)」と語っていたというのは印象的です。揶揄する言葉かもしれないけど、自分には出来ない人生を歩める人間ということでしょう。

 門井 菊池の文学は、雑駁なまとめ方をすれば、純文学という青年の文学ではなく、大人の文学だったといえるかもしれません。仲間より年齢的に大人だったから、青年がもつ魂の燃焼のようなものを最初から自分の文学の方法にするわけにはいかなかった。

 北村 そして、芥川は『地獄変』を書き、菊池は『藤十郎の恋』を書いた。

 門井 『地獄変』の主人公は芸術のために死ぬけれど、藤十郎は芝居のために死にはしないわけですよね。

 北村 『藤十郎』の事件について、菊池は冷めていて、「あんなことされたらたまったもんじゃない」というようなことも言っている。あの物語の中では、藤十郎の芸術家魂を肯定しているけど、菊池自身はそうではなかった。〈生活第一、芸術第二〉という菊池の有名な信条がありますが、地に足の着いた感覚なのです。

 北村 ところで、門井さんが最初に読んだ菊池寛作品は何ですか。

 門井 僕は『無名作家の日記』なんです。岩波文庫で読みました。大学4年生くらいだったと思います。

 北村 私は中学の時、教科書に『形』が載っていて、「つまらないなー」と思ってね(笑)。槍の名手が主君の子と服折(ふくおり)と兜(かぶと)を交換して戦場に行ったら、名手が敵にやられてしまう。先生から「意外な結末」って紹介されても、「物語の組立からいって、当たり前じゃん」って思って。

 門井 中学生でそこまで(笑)。

 北村 今にして思えば、自分が成長していなかった。単なるオチの話として読んでしまった。本来はそういう事実の恐ろしさや簡潔な表現を読むべき。いまは「菊池先生、申し訳ございません」というしかない(笑)。誤解されないように言えば、菊池作品には中学生が読んでも分かりやすい作品が多いんですよ。


菊池寛の足跡を辿る

 門井 中学生に読ませるのにはすごくいい。テキストとして堅実なんです。自分の思ったこと、考えたこと、いま目の前で起きていることを、確実に最短距離で読者に送り込む文章。日本人全体の技能向上のために、学生は菊池から学んで欲しい。僕は鴎外や芥川が大好きですけど、『舞姫』や『羅生門』はとりあえず鑑賞専用(笑)。

 北村 でも、新しい版の新潮文庫『藤十郎の恋・恩讐の彼方に』(平成23年改版)を読むと、われわれの時代では考えられないくらい細かい注が付いている。さらに注の冒頭には、巻末の解説について〈菊池寛自身が(略)吉川英治の名を借りて書いた〉とまで丁寧に書かれている。私は50年前、色んな本を読んで菊池が自分で書いたと知って「そうなのか!」と面白がったわけですが。


きたむらかおる 1949年埼玉県生まれ。89年『空飛ぶ馬』でデビュー。91年『夜の蝉』で日本推理作家協会賞、2009年『鷺と雪』で直木賞を受賞。

 門井 その喜びもない。

 北村 今の人にとっては、菊池の使う言葉でも難しくなってしまったと思うと残念ですね。先日、テレビ番組で「枚挙に暇がない」という表現を使った出演者に、周りの人が次々に「そんな言葉、聞いたこともない」って騒ぎ出していた。

 門井 それこそ枚挙に暇がない声が挙がったわけですね(笑)。

 北村 ずいぶん前に、朝日新聞の「天声人語」が「碩学(せきがく)」という言葉を使ったら、「みんなが読む新聞に、誰も分からないような言葉を使うな」って意見もでたという。言葉の意味は前後関係でたいてい推測できるから、恐れずに使っていくべき。それによって覚えていくのが言葉というものです。子どもに、せんべいを与えないでチョコレートばかり食べさせていると、せんべいが食べられなくなる、というのと同じなんです。

ブームが生まれる!

 北村 菊池寛の戯曲では、『屋上の狂人』が素晴らしい。永遠性を持っていますね。何年か前に、元SMAPの草磲剛も演じていました。菊池自身も『屋上の狂人』については〈自分として得意な作である。「藤十郎の恋」や「敵討以上」で自分の「戯曲家としての価値」を判断して呉れては困まる。が、「屋上の狂人」は、自分が戯曲家として立つ時の、第一の礎石である〉(『藤十郎の恋』新潮社刊、大正9年)とまで書いている。菊池は、自作の中で、やはり戯曲の『父帰る』についても残るだろうと言っていますね。

 門井 『父帰る』は芥川も泣かせ、久米も泣かせたという。その魅力は何か考えたんですが、苦労話の中でも“新しい苦労話”なんですね。日本近代で初めて現れた給与所得者の苦悩なんです。江戸時代ならお父さんが家を出て行ったら、一家が路頭に迷う。武家なら家そのものがつぶれちゃう。でも、『父帰る』の一家は、お父さんが出て行っても、貧しいながらも生活できた。だから20年後に父親が帰ってきたときにドラマが成立する。そのことに極めて早く目をつけて戯曲にした。ある意味、ジャーナリスティックな文学といえます。

 北村 素材としては、そういうことが言えるかもしれない。一方でしっかりと物語の中心には情感がある。

 門井 本当は「父帰る」じゃなくて、帰ってきた父を追い出す話(笑)。当時の人が見たらショックだったでしょうね。

 北村 放蕩(ほうとう)息子ではなく、放蕩“親父”の帰還ですからね。菊池寛の戯曲は文士劇でも演じられることが多かった。上演時間も短いし、キャラクターがハッキリしているから演じやすい。


菊池寛、書斎にて

 門井 文士劇はやったことがないですけど、セリフは覚えやすいでしょうね。必ず前の人のセリフを受けて展開するから、論理的に筋道が立っている。

 北村 登場人物の心理の動きも納得しやすい。反応、反応、反応、で進んでいきますから。

 門井 それは大長編でも同じかもしれません。『真珠夫人』でも似たものを感じます。まさに反応、反応、反応。そのかわりイメージの飛躍には乏しいわけですが、これはもう、どっちの方法を選ぶかですし。

 北村 私はジェフリー・アーチャーの『ケインとアベル』を昔読んだときに、「なんだ『真珠夫人』じゃないか」と思った。苦しい中での立身出世談、『ロミオとジュリエット』や『大いなる遺産』のようなテーマ――つまり古今東西の受ける要素を全部集めて分類して、何はウケる、何はウケる、何はウケると並べて書いた。露骨なまでにウケ要素を全部入れた小説だと思う。だから面白い。菊池も同様のことを発言しています。近代的な意味で面白い小説がなかった時代にそれを持ち込んだ。なんといっても、物語の冒頭は交通事故からはじまるわけですから。

 門井 自動車が崖下に転落しそうになって……。

 北村 当時の読者には新鮮だった。江戸流の小説ではなくて、西洋近代小説の持つ要素がうまく詰め込まれている。

 門井 『真珠夫人』について、菊池にはもう一つ、計算があったのではないかと思うんです。それはあの時代に、女性解放とまでは言いませんが、女性が男性を翻弄する小説を書けば売れるということです。傍証があります(笑)。この作品が発表される7年前の大正2年に「中央公論」の臨時増刊として「婦人問題号」が出て、さらに3年後に「婦人公論」が創刊される。臨時増刊が定期刊行物になったわけで、つまりそれだけ女性解放ものが売れたんです。そんなジャーナリズムの趨勢(すうせい)を見た上でテーマを決めた、それくらいの計算は、菊池寛ならやりかねない(笑)。


かどいよしのぶ 1971年群馬県生まれ。2003年「キッドナッパーズ」でオール讀物推理小説新人賞を受賞。2018年『銀河鉄道の父』で直木賞を受賞。

 北村 この作品以前に、「〇〇夫人」というタイトルはあったんですかね。

 門井 あまり思い浮かばないですね。

 北村 最初かはともかく、菊池寛がブームを作った。すぐ思い浮かぶのはズーデルマンの『憂愁夫人』。この邦題は『真珠夫人』の影響でしょう。

「夫人」という言葉が力を持ったのは、まだ世界に闇があって、手の届かないものが確かにあった時代だから。このほかの言葉でいえば、たとえば「博士」。乱歩の作品に「魔法博士」や「妖怪博士」が出てきますが、「博士」という言葉に魔力があった。「インド」という言葉も、インドから来た魔物、インド小僧なんて、インド人もビックリの扱われ方だった。要するに「博士」も「インド」も、そして「夫人」という言葉も、当時の庶民には距離感があったから、魔力を持ち得たわけです。

 門井 なるほど。

 北村 大岡昇平の『武蔵野夫人』は、編集者の回顧録を読むと、はじめは「武蔵野」という題で書かれていたのを編集者が助言して『武蔵野夫人』となりベストセラーになった。「武蔵野」という作品だったら売れたかどうか……。

 門井 まったく印象が違います。

 北村 「夫人」と付けただけで掴むものがある。このネーミングひとつにも、菊池寛の恐るべきジャーナリズム的な魂が表れているんです。

 門井 面白いのは「夫人」も「博士」も江戸時代には少なくとも日常語としては出てこない。「夫人」は、要するに「おかみさん」だけど……。

 北村 「真珠おかみさん」ではねえ(笑)。「夫人」は向こう3軒両隣にはいない。どこか別世界を指している。『貞操問答』の中で、軽井沢が出てくるようなものです。

 門井 われわれの手元にないものが、いきなり毎日配達される新聞に出てくることの衝撃ですね。

 北村 「垣間見の喜び」が菊池作品にはあった。上野にあった帝国図書館が混雑で並ばないと入れなかった頃、とある学者が「われわれが勉学のために来ているのに、おさんどんみたいな女が菊池寛を読んでいる」と激昂したという。そんな風に一般の人が菊池寛を読み、自分たちの生活の中では手に入らないものを垣間見た。どれだけ人が求めるものが分かっていたのかという気がします。

 門井 今日は1冊、古い本をお持ちいただいたようですね。

 北村 これは、丸谷才一さんが子どもの頃に『第二の接吻』を読んだという「婦人倶楽部」(昭和12年2月号)の付録。「傑作長篇小説三人集」とあって、菊池のほかに、久米正雄『破船』、吉屋信子『地の果まで』が掲載されている。私は大昔に神保町で見つけたんですが、雑誌の付録ってなくなってしまうでしょう。一度、菊池寛記念館の偉い人に「寄贈してくれませんか」って頼まれたけど、「ちょっと待って」って言ってまだ手元に持っている(笑)。付録と言っても、堂々たるものです。


資料を読むおふたり

 門井 雑誌の付録は、戦前から充実してますよね。最近はバッグが付いた女性誌が売れたりすると「そんなの活字文化じゃない」っていう文化人がいますが、戦前から日本では当たり前のことでした。『第二の接吻』というタイトルがそそりますね。

 北村 劣情を刺激するとかで、大正15年に映画化されるときには『京子と倭文子(しずこ)』というタイトルに変えられたくらい。菊池にとっては、「夫人」同様、題名もまさに創作ですね。

 門井 雑誌の編集者として毎月見出しを考えるのと、同じ発想なのでしょう。

 北村 この作品は大正14年に東京と大阪の朝日新聞に連載されたのですが、この付録にある説明を読むと、〈連載されるや、俄然熱狂的な歓迎を受け、問題の第二の接吻は果して、京子とであるか倭文子とであるかということに、賭をした人があったという珍談が残されている〉。この作品、出だしも上手いし、意外に悲劇的な結末なんですよ。

 門井 新聞と菊池寛のつながりでいえば、菊池は連載小説の人気が出なくて困っていた朝日新聞に山本有三(やまもとゆうぞう)を推薦しました。それで山本が書いたのが『女の一生』。大ヒットです。以後、山本はたびたび朝日に登場するので「第二の漱石」といわれました。

 北村 久米正雄に『破船』を書かせたのも菊池寛。久米正雄が、漱石の娘筆子(ふでこ)に失恋して落ち込んでいるときに、「お前、通俗小説を書け」と言った。精神的に落ち込んで死にそうになっているときは、金を湯水のように使うことだと。そのためにはお金を儲けろと言って『破船』を書かせたら大当たり。とても有意義で、実践的な助言でしょ(笑)。「元気出せよ」ではなくて、「金使え」って。

 門井 たしかに「これを読め」と本を渡されるよりいいかも(笑)。

 北村 リアリスティックな菊池らしい。

 門井 袂(たもと)にクシャクシャになった10円札の束を入れておいて、いつも困っている人に渡していたという有名なエピソードを連想させますね。

 北村 そばに行きたいよね(笑)。

 門井 困っている振りをして(笑)。

ミンナシンパイシテル

 北村 菊池寛の孫、菊池夏樹さん(菊池寛記念館名誉館長、元文藝春秋編集者)の著書『菊池寛急逝の夜』に面白い話が載っています。菊池寛は年に一、二度、住み込みの小僧さんや近所の御用聞きを集めてベーゴマ大会をやっていたそうなんです。それぞれの店の主人に「小僧さんを借ります」と断りに行き、庭の真ん中に土俵を作る念の入れよう。菊池寛の長男で夏樹さんの父、英樹さんはこう話していたそうです。

〈親父は小説家というより、企画プロデューサー、エンターテインメントの企画者なんだね。それが彼の本質だったと僕は思っている。大会の賞品は、現金と籠いっぱいのベーゴマ。『お金じゃなくて、何かいい賞品を買ったら?』と僕は聞いたことがある。『彼らは、お金が一番重要なんだ』と親父は答えた。賞品のベーゴマも、普通のベーゴマじゃなかった。鉄工所の工場に頼んで作らせた特注品で、角をつけたり、特別な機械加工がされた高価な代物だった。そのころの子どもが見たら、よだれが出るくらい高いベーゴマだった。一等の賞品は、どでかいバスケットいっぱいのベーゴマ。ビリケツにも参加賞と言って賞金を用意していた。私には、このベーゴマ大会が芥川賞、直木賞の原型になったのじゃないかと思う〉

 直木賞作家・門井さんの誕生の大元を辿ればベーゴマ大会がある。われわれはベーゴマ大会に参加させていただいたわけです。

 門井 バスケット10杯くらい、もらった気分がしてきました(笑)。

 北村 この話は、菊池寛の本質を見事に突いている。何かを企画して、段取りを整えて、必要なものを与える。

 門井 芥川賞、直木賞も単に賞を作って与えるだけではなく、雑誌の上でお祭り騒ぎにしてやろうという狙いが菊池には当初からありましたよね。そもそも純文学と大衆文学の2つの賞を同時に作るなんて、菊池寛の文藝春秋以外あり得なかった。あのころ他の誰がやっても説得力がない。新潮社だったら純文学、講談社だったら大衆文学でしょう。

 北村 その後も、ジャーナリスティックな活動から映画まで、作家の枠を超えて大きな仕事をした。それが出来たのは面倒見が良くて、人脈が非常に広かったことも大きかった。この夏、徳川夢声(とくがわむせい)の本を読んでいたら、こんなエピソードがあった。昭和12年、夢声がジョージ六世の戴冠式に、巡洋艦「足柄(あしがら)」に乗ってイギリスまで行くんだけど、式典のあと、ウイスキーの飲み過ぎで倒れてしまった。アル中ですから。それで「夢声危篤」の報が流れた。夢声自身は、色んな夢を見ながらもうダメかなと思っていると、通信参謀の若い少佐が艦の無電室で受信した電報をもってきた。

〈ガンバレムセイ ミンナシンパイシテル キクチカン〉

 門井 いい話だな。

 北村 ヨーロッパまで、こういう電報を打ってきてくれる。これも袂からクシャクシャのお金を出している姿と繋がる。それが菊池寛の人間の大きさ。本能的に目配りができるんですよ。

 残念なのは、時代をリードした菊池が、最後の最後に、時代に裏切られたこと。戦後は公職追放にあって、「なぜ僕がパージを受けるんだ。僕ほどのヒューマニストはいないじゃないか」と感じるなかで亡くなった。もし菊池寛があと10年生きていたら、日本にどんな影響を与えていたか、ふと考えてしまいます。でも、佐佐木茂索ら優れた後継者を育てて見事に「文藝春秋」のバトンを渡して、昭和23年、身内の人を集めた快気祝いの席で心臓発作を起こして倒れるんだから、見事な死であったとも言える。

 門井 それこそ彼自身の書いた新聞小説のラストみたいな最期ですね。直前まで自宅の広間でダンスのステップを踏んでいたというんですから。戦前に「ガンバレ」と励ました徳川夢声が、戦後になってサトウハチロー、辰野隆(たつのゆたか)との「文藝春秋」の鼎談「天皇陛下大いに笑う」(昭和24年6月号)に登場して、大ヒット企画になり、文春再出発のターボエンジンになる。企画したのは冒頭で名前が出た池島信平です。あの『話の屑籠』を読んで入社した中興の祖。菊池寛が蒔いた種が、みごとに花ひらいたんですね。

「オール讀物」2018年10月号掲載

本の話 ポッドキャストでは「門井慶喜さん新刊『文豪、社長になる』に寄せて、菊池寛&芥川賞・直木賞誕生秘話。」もお聴きいただけます。