群馬「高崎vs前橋」明治から続く因縁 玄関駅は高崎 でも県庁は前橋のワケ
群馬の県庁所在地は前橋市に置かれています。しかし、鉄道の発展ぶりは高崎駅のある高崎市が前橋を圧倒しています。なぜこのようになったかというと、明治時代のごたごたのせいでもあります。
高崎に県庁が置かれるが納得いかなかった前橋
前橋市と高崎市といえば、群馬県では因縁のライバル都市どうしとして知られています。
高崎駅が始発の両毛線(斎藤雅道撮影)。
県庁所在地は前橋市ですが、人口は2022年12月時点で、前橋33万人、高崎が37万人と高崎が若干リード。そして、人口以上に前橋が高崎に大きく差をつけられている部分があります。それが鉄道網で、高崎は上越新幹線や北陸新幹線、高崎線など9路線が乗り入れ、都心へのアクセスがしやすい北関東有数のターミナル駅として機能しています。
一方、東京方面から前橋駅へ行くには、高崎駅で新幹線から両毛線に乗り換えるケースが大半。在来線である高崎線からは両毛線に直通する電車がありますが、2023年3月18日のダイヤ改正で、大幅に削減されることが確定しています。前橋は駅舎こそ高架式で立派ではあるものの、駅や周辺は高崎駅と比べるとだいぶ静かです。
なぜ、このような差が生まれてしまったかというと、明治初期の廃藩置県でのごたごたが深く関係しているのです。
群馬という県名は1871(明治4)年に第1次群馬県が誕生したときにはじめて登場します。廃藩置県直後、同地は複数の親藩大名、譜代大名の領地が細かく混在していたので、それらを合併する形で成立しました。このときの県庁は高崎城下に置かれますが、軍施設として高崎城を使うこととなり、すぐに前橋へ県庁機能が移されます。その後、合併や分裂を経て、群馬県という名が1876(明治9)年8月に復活すると、再び高崎に県庁が置かれます。
このとき、越前松平家という徳川家に繋がる名家の親藩大名が治めていた旧前橋藩の領民は不満を募らせます。100年の宿願が実り、藩主さまが前橋へお帰りになった矢先の出来事だったからです。
江戸中期、水害により前橋城が崩壊し、藩主は1769(明和6)年に飛び地領だった川越に本拠を移しました。それから再三にわたり帰城を請願し、1867(慶応3)年にようやくその願いが通り、再築城された前橋城に松平家が帰還。そこから時代が変わったとはいえ、わずか9年しか経っていませんでした。
県庁に関しては誘致運動をするも鉄道は…
当時生糸の生産で富を得ていた前橋の商人たちが立ち上がり、後に初代前橋市長になる生糸商人の下村善太郎が中心となり、移庁による官舎新築費用の負担を提案。自身も私財の一部をそれに投じるなど誘致活動に貢献し、ついに1881(明治14)年、前橋への県庁移転が法律で決定します。なお、この決定には高崎の人々が激怒し、抗議活動は一時軍隊の出動要請を考えるほど、大規模になったそうです。
前橋駅のホームで停車する高崎線直通列車と両毛線の車両。2023年3月からこの光景が見られる機会も少なくなる(斎藤雅道撮影)。
しかし、鉄道網に関しては、当時重要な輸出品だった生糸をもってしてもどうにもなりませんでした。県庁移転のごたごたから3年後の1884(明治17)年5月、東京方面から路線を延ばしてきた日本鉄道が高崎駅を開業し、3か月後には前橋まで延伸します(現在の前橋駅とは異なる)。ただ、翌年の10月には、国(官設鉄道)が後の信越本線となる高崎〜横川間を開業し、高崎駅はいち早く、ターミナルとしての地位を高めました。
高崎は、古くから交通の要所で、江戸と京都を結ぶ主要街道である中山道や、関東と越後(新潟)を結ぶ三国街道などが通っていました。そのため、主要街道と接していない前橋は交通の面で高崎に大きく水をあけられただけでなく、当時の前橋駅は、利根川の関係で市街地からやや外れたところに設けられていました。
時は流れ、1982(昭和57)年11月に新幹線が開通すると、高崎駅はさらに発展します。現在、高崎駅前はペデストリアンデッキにより歩道と車道が分離し、高崎オーパ、高島屋高崎店、ヤマダ電気 LABI1 LIFESELECT 高崎といった大型商業施設や高崎芸術劇場へ、駅から地上に降りることなく向かうことが可能です。
ただ、群馬県は全国屈指のクルマ社会でもあり、郊外の大型店舗などが発展しています。前橋市は前橋駅前こそ閑散としていても、財政収入の面で高崎市に大きな差をつけられているわけではありません。
ちなみに群馬県には、前橋市、高崎市に加え、伊勢崎市、藤岡市、玉村町を合併する“東国市構想”なるものがあり、2025(令和7)年までの実現が目指されていたものの、見送られています。
この合併構想に関して、2017年に当時の山本 龍前橋市長は記者からの質問に「GDPでもかなりの規模。新しい地方制度を確立するとなれば、その中でそれぞれの市の存在は大きくなると思う」と前向きな発言をしていますが、富岡賢治高崎市長は「合併推進にメリットはない」と否定的で、明治から続く両市の因縁は今も残っているともいえます。