「鎌倉殿の13人」鎌倉を火の海に。ついに勃発、和田合戦!第41回放送「義盛、お前に罪はない」予習

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せっかく北条義時(演:小栗旬)と和田義盛(演:横田栄司)が和解できそうだったのに、誤解によって始まってしまった和田合戦。

時は建暦3年(1213年)、5月2日から3日にかけて鎌倉の街を火の海にした激戦は、鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』においてもしっかりと紹介されています。

今回はそんな和田合戦の概略を紹介。大暴れする義盛の三男・朝比奈義秀(演:栄信)はじめ多くの人物が登場するので、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習として読んでいきましょう。

5月2日・その一「和田勢の来襲」

御家人の八田知重(はった ともしげ。八田知家の子)は近所にある和田義盛の館へ続々と軍勢が集結する様子を目撃。これはいよいよ挙兵かと大江広元(演:栗原英雄)に急報します。

知重の連絡を受けた時、広元は客人たちと酒を呑んでいましたが、これは一大事と一人で御所へ駆けつけました。

一方、和田勢に与していた三浦義村(演:山本耕史)と三浦胤義(演:岸田タツヤ)兄弟は北条方に寝返ることを相談します。

「起請文を書きはしたけど、我が三浦は源家累代の家人。その誇りを失う訳にはいかない」というわけで、和田の挙兵を義時へ通報するのでした。

その時、館で囲碁を打っていた義時。報せを受けても慌てず騒がず、目を数えて(対局を終了し、互いにとった陣地=勝敗を確かめて)から烏帽子を正装用に取り換え、水干(すいかん)に着替えてから御所へ参上します。余裕ですね。

実朝「和田が挙兵とのこと、誠か?」

義時「まぁ、近々であろうとは思っていましたが、今朝ということはないでしょう」

でもまぁ、万が一ということもあり得ますから、とりあえず尼御台・政子(演:小池栄子)や千世(演:加藤小夏。坊門姫)ら女性たちは鶴岡八幡宮へ避難させておきました。

義時討つべし。ついに兵を挙げた和田義盛。歌川芳虎「和田合戦図」より

和田勢が押し寄せてきたのは申の刻(16:00ごろ)。その主だった顔触れは以下の通りです。

和田常盛(つねもり。義盛の長男)和田朝盛(とももり。常盛の嫡男)朝比奈義秀(演:栄信)和田義直(演:内藤正記)和田義重(演:林雄大)和田義信(よしのぶ。義盛の六男)和田秀盛(ひでもり。義盛の七男)土屋義清(つちや よしきよ。岡崎義実の子)古郡保忠(ふるごおり やすただ)渋谷高重(しぶや たかしげ)中山重政(なかやま しげまさ。畠山重忠の子)中山行重(ゆきしげ。重政の子)土肥維平(どい これひら。土肥実平の孫)岡崎実忠(おかざき さねただ。岡崎義実の孫)梶原朝景(かじわら ともかげ。梶原景時の弟)梶原景衡(かげひら。朝景の子)梶原景盛(かげもり。朝景の子)梶原景氏(かげうじ。朝景の子)大庭景兼(おおば かげかね。大庭景親の甥)深沢景家(ふかさわ かげいえ)大方政直(おおかた まさなお。土方政直)大方遠政(とおまさ。土方遠政)塩谷惟守(しおのや これもり)……など。

和田勢は150騎を三手約50騎ずつに分け、一隊を御所(現:清泉小学校)の南門へ向かわせ、あとの二隊は義時の館(現:宝戒寺)を挟み撃ちにします。

土方五郎政直。こういう漢字の表記ゆれも味わい深い。歌川芳虎「和田合戦図」より

討つべきは鎌倉殿ではなく義時。和田一族の怒りが伝わってくるようです(御所へ向かった一隊は、鎌倉殿をお救いするためでしょう)。

5月2日・その二「朝比奈義秀、大暴れ」

いよいよ戦闘が始まりました。鶴岡八幡宮を東西に横断する横大路(よこおおじ。現:寿福寺〜宝戒寺)で両軍が何度も激突、その先陣を切ったのは波多野忠綱(はたの ただつな)。三浦義村がその後に追いすがります。

酉刻(18:00ごろ)、和田勢は御所を包囲。北条泰時(演:坂口健太郎)・北条朝時(演:西本たける)と足利義氏(あしかが よしうじ)が全線で守備を指揮しました。

※ちなみにこの時、泰時は二日酔いがひどくて意識が朦朧としていたと後で述懐しています。

御所の惣門をぶっ倒す朝比奈義秀。歌川国芳「和田合戦 朝夷奈三郎義秀 猛勇怪力之図」

決死の攻防が続く中、朝比奈義秀がその豪力を振り絞って御所の惣門(そうもん。正門)を破壊。和田勢が一気に突入し、火を放たれて御所は焼け落ちてしまうのでした。

「鎌倉殿、早くこちらへ!」

源実朝(演:柿澤勇人)は御所を脱出して北西の山上にある法華堂(現:頼朝公墓)へ避難。義時と広元もこれに付き従います。

さぁ、朝比奈義秀は大暴れ。当たるを幸いとばかり敵を倒しまくり、五十嵐小豊次(いがらし ことよじ)・葛貫盛重(くずぬき もりしげ)・新野景直(にいの かげなお)・礼羽蓮乗(れいは れんじょう)らが討ち取られました。

「アイツを倒せるのは、そなたしかおるまい!」

出てきたのは高井重茂(たかい しげもち)。義盛の甥で、義秀に匹敵すると言われる怪力の持ち主です。

「朝比奈の。今日こそ勝負をつけようぞ」

「望むところだ。一ひねりでぶっ殺してやらぁ!」

互いに弓を捨てて轡を並べての組討ちが始まりました。激しく殴り合った末に両者とも落馬。くんずほぐれつ血まみれ泥まみれの死闘を制したのは義秀でした。

「おっしゃあ!これでそれがしが和田一番の大力じゃ!」

こうして討たれてしまったものの、かの朝比奈三郎を落馬させた唯一の豪傑として、重茂を賞賛しない者はなかったと言います。

「さぁ、まだまだ暴れ足りねぇなぁ……」

名誉回復を賭けて、朝比奈義秀に挑む北条朝時。歌川豊国「和田合戦図」

次なる敵を求めて再び馬に乗ろうとした背後から斬りかかったのは北条朝時。卑怯だって?そんなことを言っている余裕はありません。

「ちょこざいな!」

即座に応戦する義秀を前に、朝時は負傷して命からがら逃げだしました。「バーロ、十年早ええンだよ!」義秀は先を急ぎます。

5月2日・その三「朝比奈義秀かく戦えり」

さて、次の獲物を求めて義秀が走っていくと、筋替橋(政所前の橋)で足利義氏に遭遇しました。

「獲物じゃ!」「ひいっ!」

たちまち逃げ出そうとした義氏ですが、義秀はその鎧袖をつかんで放しません。

「逃がすかよ!」

引きちぎった足利義氏の鎧袖。歌川豊国「和田合戦図」より

鎧袖を引き寄せた義秀。しかしあまりの怪力が仇となり、鎧袖が引きちぎれてしまいました。何重にも糸(組紐)でつなぎ合わせた鎧袖を引きちぎるとは、尋常ではありませんね。

ちなみに、似たようなエピソードは畠山重忠(演:中川大志)と巴御前(演:秋元才加)の一騎討ちや平景清(たいらの かげきよ。藤原景清)の錣(しころ。兜の後頭部を守る部分)引きなどが有名です。

なおも追いすがる義秀。しかし乗っている馬が疲れてしまって追いつけません。ついでと言っては何ですが、主君(義氏)を守ろうと立ちふさがった鷹司冠者(たかつかさのかじゃ)を斬り捨てています。

義氏を取り逃がしてしまった義秀、今度は米町口(よねまちぐち。現:大町一丁目辺り)で武田信光(たけだ のぶみつ。武田信義の子)と出会いました。

「今度は腰抜けじゃなさそうだな!」

「吐(ぬ)かせ、武田五郎が逃げるかよ!」

いざ手合わせ、という段に及んで割って入ったのは武田信忠(のぶただ)。信光の子で、人からは悪三郎(あくさぶろう)の二つ名で呼ばれる武闘派です。

「こんなヤツ、父上が相手するまでもありませぬ!」

「……てめぇの親孝行に免じて、見逃してやらぁ!」

足利義氏を追い駆ける朝比奈義秀。その行く手に立ちはだかる武田父子。歌川豊国「和田合戦図」

決死の覚悟で父を守ろうと挑んでくる信忠に、義秀は感心。そのまま馬首を返して立ち去りました。

さて、夕方から始まった戦闘は深夜になっても止まることなく、泰時は和田勢と一進一退の攻防を繰り広げます。

「さすがに疲れた。いったん浜へ退け!」

和田勢は由比ヶ浜へ後退。その勢いに乗じて足利義氏・八田知尚(ともひさ。知家の子)・波多野経朝(つねとも。忠綱の子)・瀬田実季(せた さねすえ)らが攻めかかったのでした。

5月3日・その一「いまだ闘志は衰えず」

小雨が降ってきました。寅刻(午前4:00ごろ)、いよいよ敗色濃厚となった和田勢。
しかしそこへ駆けつけたのが横山時兼(よこやま ときかね)。義盛にとって義理の甥に当たります。

婿の波多野三郎(さぶろう)、甥の横山五郎(ごろう)ら数十名を引き連れ、和田勢3,000騎(※)はにわかに士気を取り戻しました。

間に合った!応援に駆けつけた横山時兼たち。歌川芳虎「和田合戦図」より

(※)『吾妻鏡』にそうあるのですが、当初150騎だったのが(勝ち戦ならともかく、敗色濃厚な軍勢が)3,000騎にも膨れ上がるでしょうか。横山勢の援軍が数十騎ですから、後から駆けつけた者を含めてもせいぜい300騎がいいところと見られます。

辰刻(午前8:00ごろ)になると西相模から曽我(現:小田原市)・中村(同)・二宮(現:二宮町)・河村(現:相模原市)と言った軍勢が鎌倉へやってきました。しかし、彼らは北条と和田のどっちに味方したものか遠巻きに様子見するばかり。

「何を迷っておるのか。早く北条(こっち)に味方しなさい!」

実朝が命令を発したことにより、彼らは北条方に与します。まぁ、大義名分は大事です。

このままではジリ貧だ……巳刻(午前10:00ごろ)になって和田勢はいよいよ本気で御所へ攻め上がろうとしましたが、既に各方面を抑えられて身動きがとれなくなってしまいました。

さてその頃、北条方に由利惟久(ゆり これひさ。中八太郎)という弓の名手がおり、敵方の兵を次々と仕留めます。

後日武功の証明とするため、矢に自分の名前を入れていました。しかしその矢を和田勢の古郡保忠が射返したため、「由利めは敵に寝返った」とあらぬ噂が立ってしまいました(これが後に所領を没収される原因に)。

「もう和田に勝機はない。一気に攻め滅ぼせ!」

小物又太郎資政。兄上(朝比奈義秀)は忙しいので、代わりに和田義直が討ち取るアレンジ。歌川芳虎「和田合戦図」より

意気込んで突入していったのは小物資政(こもの すけまさ)。鎮西(九州)の住人で、かつて亡き源頼朝(演:大泉洋)の時代に高麗(※実際は鬼界ヶ島≒南西諸島)を征圧したと言います。

しかし相手は朝比奈義秀、たちまち返り討ちに。いかに劣勢と言えど、まだまだ闘志は衰えていませんでした。

5月3日・その二「和田義盛の最期」

一方の北条も優勢とは言え、決して余裕ではありませんでした。ちょうど鎌倉に来ていた難波長定(なんば ながさだ)は文官でありながら戦わされます。

また僧侶の弁覚(べんかく。俗名は大方余一)は大町大路で弟子たちと一緒に中山行重の軍勢と戦闘。何とかこれを撃退しました。

その頃、長尾景茂(ながお かげもち)・長尾胤景(たねかげ)兄弟は土屋義清・土肥惟平と戦っていたところ、長尾兄弟の弟である江丸(えのまる。13歳)が加勢に駆けつけます。

「兄上、やつがれも戦いまする!」

義清は江丸の健気さに感心し、それ以上は矢を放たずに退散。朝比奈義秀・古郡保忠と合流しました。

「「「さぁ、最後にもうひと暴れしようぜ!」」」

土屋・古郡・朝比奈の三将は轡を並べて縦横無尽に暴れまわると北条方の兵は蹴散らされ、その凄まじさに味方までもが逃げ散るありさま。

朝比奈義秀に負けじと武勇を奮う土屋義清と古郡保忠。歌川豊国「和田合戦図」より

一気に今小路(いまこうじ。若宮大路の西側を並走する大通り)を北上し、寿福寺を右折して一気に東へ突き進んだところ、八幡様の三鳥居前で土屋義清が矢に当たってしまいました。

「おのれ!」

矢が飛んできたのは境内の方向。境内の神域に武装した者はいないはずですから、これはきっと八幡様のお怒りによるものでしょう。果たして義清の首は郎党に掻き切られ、寿福寺へ戻って埋葬されたと言います。

戦いは酉刻(18:00ごろ)に及び、義盛の四男・和田義直が伊具盛重(いぐ もりしげ)に討ち取られました。

「何だと……四郎(義直)が!」

息子たちの中でも一番可愛がっていた義直の死に、義盛は泣き叫びます。

「これまで四郎に所領を遺そうと奉公してきたが、その四郎が死んでしまったら、もう戦う意味などない」

もう自暴自棄で東へ西へ駆けずり回っているところを、江戸能範(えど よしのり)らに討ち取られたのでした。享年67歳。

大立ち回りを演じる和田義直。歌川豊国「和田合戦図」より

同時に和田義重(34歳)・和田義信(28歳)・和田秀盛(15歳)ら一族7名も討たれましたが、朝比奈義秀は数名で浜辺から舟を出して安房国(現:千葉県南部)へ逃れます。

『吾妻鏡』では兵500騎・船6艘とあるものの、それだけ大きな船(平均して80名程度乗船可能)を浜辺からすぐに出すのは困難です。また、義秀ならそれだけ残っているなら抗戦を続けたでしょう。

文中に「朝比奈義秀ならびに数卒ら」とあるので、残党の数は恐らく50名程度がいいところと思われます。

また和田常盛や山内先次郎(やまのうち せんじろう)、岡崎実忠・横山時兼・古郡保忠・和田朝盛ら6名についてはそれぞれ逃げ出したということです。

5月3日・その三「泰時、禁酒(ただし少しなら可)を誓う」

こうして幕を下ろした和田合戦。義時は金窪行親(かなくぼ ゆきちか)・安東忠家(あんどう ただいえ)に命じて首実検を行ないます。

もうすっかり暗くなっていたので松明を灯し、由比ヶ浜の波打ち際に義盛はじめ和田一族の首級をずらりと並べていきました。

一方、泰時は共に死闘をくぐり抜けた御家人たちを迎えて、自宅で慰労会を開きます。

「皆さん、今回は本当にお疲れ様でした。どうか大いに楽しんで下さい。ところで、私は今後一切酒を呑まないことを誓います」

「と言いますのも実は私、5月1日は深酒をしてしまって、5月2日の明け方に敵が攻めて来た時は二日酔いで大変だったのです。何とか鎧兜を着けて馬に乗ったまではいいのですが、もう意識が朦朧として、とても戦うどころではありませんでした」

……などと供述する泰時ですが、戦闘が始まった(和田勢が御所へ攻めて来た)のは酉刻(18:00ごろ)。記憶すら曖昧になるほど呑んでいたようで、少なくともほぼ一日酔っ払っていたのでしょう(あるいは翌朝、迎え酒なんかキメてしまったのかも知れません)。

御所の惣門をぶっ倒され、慌てふためく北条方。歌川国芳「和田合戦 朝夷奈三郎義秀 猛勇怪力之図」

「あの朝比奈三郎(義秀)が惣門をブチ破った時は、これは『今度こそ、死ぬ!』と思ったものです。南無八幡大菩薩、もう酒はやめますからどうかお救い下さいと誓いました。そのお陰で何とか助かったのですが、やっぱり戦っていると喉が渇くものです」

戦場に都合よく水があるとは限りません。摂れる水分であれば何でも摂っておくべきです。そう、たとえちょっとくらい(例えば1〜2割ほど)アルコールが混じっていても、そんなことは些細な問題に過ぎません。

「その時ちょうど、葛西六郎(かさい ろくろう)が竹筒を勧めてくれたのです。彼の好意を『さっき禁酒の誓いを立てたから』なんて無下に断れるでしょうか?いや、そんなのは酒呑m、もとい人として許されざる暴挙です」

泰時が水分(アルコール入り)を摂っていると、間が悪いことに尾藤景綱(びとう かげつな。泰時の郎党)がやって来ました。内心舌打ち(誓いを破った瞬間を見られた&酒を分けないと気まずい)をしながら、泰時は酒を分け与えます。

「……まぁ、そんなこんながありまして。やっぱり酒を完全にやめるのは難しいので、今後は『あまり大酒は呑まないようにする』よう誓います。『酒は呑んでも呑まれるな』ですね」

……との事でした。

エピローグ

みんな大好き和田義盛。彼の退場をもって、古き良き鎌倉の一時代が幕を下ろした。菊池容斎「前賢故実」より

以上、和田合戦の顛末について駆け足で紹介してきました。その後、残党らも討ち滅ぼされ、北条氏による権力は盤石なものとなっていきます。

その後、承久の乱(承久3・1221年)が勃発するまで約8年間にわたり、鎌倉にはしばし平和(※特に大規模な兵乱が起きない状態)が訪れるのでした。

ただでさえ悲劇的な和田合戦を、果たして三谷幸喜はどのようにアレンジ(視聴者のメンタルをボコボコに)してくれるのでしょうか。今からゾクゾクしてしまいますね!

※参考文献:

石井進『日本の歴史(7) 鎌倉幕府』中央公論社、2004年11月五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 7頼家と実朝』吉川弘文館、2009年11月笹間良彦『鎌倉合戦物語』雄山閣出版、2001年2月細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月三谷幸喜『NHK大河ドラマ・ガイド 鎌倉殿の13人 完結編』NHK出版・2022年10月