日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2022年8月の特集は「吉田拓郎」。今年でアーティスト活動に終止符を打つと表明した吉田拓郎の軌跡をたどる5週間。パート3では、拓郎の70年代後半を楽曲とともに辿っていく。

こんばんは。 FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今流れているのは、吉田拓郎さんの「アウトロ」。6月に発売になったアルバム『ah-面白かった』の中の曲です。今月の前テーマはこの曲です。「アウトロ」ですね。人生の締めくくり。今年いっぱいでピリオドを打つと表明しております。

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今月2022年8月の特集は吉田拓郎。1970年にデビューして、シンガーソングライターという言葉もない時代に、自分のメロディと言葉で歌った。自作自演というスタイルがフォークソングとして広がっていきました。時代に流されず、新しい音楽を作り続けてきたスーパーレジェンドの50数年間を辿っております。今月は私1人でお送りしています。彼はどんなことを歌ってきたのか、何と闘ってきたのか。

今週は1970年代の続きです。先週はCBSソニー移籍、そこから1975年のフォーライフレコード設立までの曲をお送りしました。今週は70年代後半です。フォーライフレコード時代の曲。30代前半ですね。既成の権威に立ち向かう吉田拓郎。そんなイメージが出来上がっていた頃です。当時のベストアルバムにキャッチコピーが付いてまして、「時代は拓郎を体験した」。すごいコピーでしょう? みんなそれで納得したんですね。拓郎が動けば時代が変わる。そう言われた頃の歌です。1979年のシングルお聴きください。

1979年5月のシングル「流星」。この曲がシングルで出たときは、チャートで50位前後で、ヒットしなかったと言っていいと思うんですが、拓郎さんがずっと歌い続けて、ファンの間でも「あの歌いいですね」と歌い継がれ、語り継がれてきて、今や彼の代表作になりましたね。フォーライフレコードの社長を兼務してるときですから、芸能界のお歴々と渡り合っていた時代ですね。心の歌でもあったんだと思います。彼が自分でも思い入れのある曲でもあるんでしょう、ステージで涙ぐんで歌えなくなったこともありました。

1978年11月発売のアルバム『ローリング30』から「ローリング30」。マニフェスト、アジテーションと言ってしまっていいでしょうね。「Rolling 30 動けない花になるな」「やさしさなどとお笑いぐささ」。作詞が松本隆さんですね。松本さんと拓郎さんが初めてがっぷり組んだ2枚組。『ローリング30』というのは、アメリカにそういう言葉がありました。アメリカの禁酒法時代、ギャングがまかり通っていた時代ですね。

このアルバムで使われている「30」というのは、30代ですね、俺たちは30代をどう生きるか。そういう言葉が、ここに凝縮されておりました。松本さんが29歳、拓郎さんが33歳です。「振り向いた昨日」と「仰ぎ見る明日」。昨日と明日に恥じないように生きようぜ。こういう歌に男たちが拳を上げたわけですね(笑)。松本さんもやっぱり拓郎さんだから、なかなか他の歌い手には書けない自分の気持ちを拓郎さんに託した。そういう詞でもあったんだと思います。30という年代をどう生きるかを考えなければいけない、そんな時代でした。

1979年7月26日から7月27日、愛知県の篠島で史上初のオールナイトイベントがあったんですね。そのオープニングのBGMもこの曲でした。箱根のスタジオに松本さんと拓郎さんが合宿して、その場で曲と詞を書いていった、2人にとっての唯一の書き下ろし2枚組です。その中から2曲を聞きいただきます。

1978年11月発売のミニアルバム『ローリング30』から「冷たい雨が降っている」と「外は白い雪の夜」。「外は白い雪の夜」を入れようか入れまいか最後まで悩んだんですね。「たえこMY LOVE」というシングルにしようか悩みながら、やっぱり入れない訳にいかないかなと思ってこれにしました。代表曲。アルバムからシングルカットがなかったんですよ。2枚組ですからいろんなタイプの曲が入ってて、結局シングルを切りきれなかったんでしょうね。でももし「外は白い雪の夜」をシングルカットしていたら、この曲はもっとヒットしただろうなとか、アルバムは違う受け止められ方をしたかもしれないなと思ったりもしました。

でも、この曲一つ引っかかってるところがあって。「女はいつでも ふた通りさ 男を縛る強い女と 男にすがる弱虫と」。そんなに簡単に二つに分けていいのって気分になったりするんですが、でもこれはやっぱり歌ですから。そうやって分けた方がドラマが作りやすいということだった。そういうふうに思っております。

80年代をどう迎えるか。79年に拓郎さんは篠島で史上初めてアイランドコンサートというイベントを行ったんですね。史上初、島を借り切ってのオールナイトコンサートでした。79年12月31日、日本青年館でのコンサートで、古い歌はもう歌わないって宣言をしたんですね。80年代を新しい気持ちで、新しい音楽で迎える。

80年代に入って2枚のアルバムが作られました。5月に出た『Shangri-La』と11月の『アジアの片隅で』。共にメインの作詞は岡本おさみさんなんですね。『Shangri-La』はロサンゼルスで録音されました。初めての海外録音。プロデューサーは、ブッカー・T・ジョーンズ。ブッカー・T&ザ・MGsの「グリーン・オニオン」というリズムアンドブルース、ソウルミュージックのスタンダードな曲がありました。岡本さんもロスに同行して詞を書いているんですね。

このアルバムのタイトル『Shangri-La』は、ザ・バンドの最後のドキュメンタリー「ラストワルツ」が撮影されたスタジオで収録したからですね。レコーディングにはザ・バンドのメンバーも参加してました。その次に出た『アジアの片隅で』は、ロサンゼルスでやった”反動”というと言葉が正確かどうかわかりませんが、アメリカに行ったんだから、もう一度日本に向き合うみたいな、そういうアルバムに思えたんですね。おしゃれな西海岸から『アジアの片隅で』。その中から「いつも見ていたヒロシマ」、お聴きいただきます。

1980年11月発売のアルバム『アジアの片隅で』から「いつも見ていたヒロシマ」。この曲のタイトルの広島は、漢字の広島ではなくて、カタカナのヒロシマです。この曲と、アルバムのメインのアレンジが、ギターの青山徹さんなんですね。青山さんはソロのギタリストになる前、愛奴(当時)というバンドのギタリストでした。愛奴はドラム浜田省吾さん、ギター町支寛二さん、ベース高橋信彦さん、ギター青山徹さん、キーボード山崎貴生さん。広島フォーク村にグルックスという3人組の高校生バンドがいたんですね。これは町支さんと高橋さんと山崎さんで、そこに浜田省吾さんと青山徹さんが入った。浜田さんは呉のフォーク村だったんで、「僕は広島フォーク村じゃないよ」と言ってましたが。青山徹さんはヤマハの合歓の郷で音楽の勉強をしていて、広島の仲間がバンドを組んだということで東京で加わった。そういうバンドでした。

彼らは74年の拓郎さんのツアーのバックでプロデビュー、愛奴としては75年にデビューしたんですね。「いつも見ていたヒロシマ」を青山徹さんがアレンジする必然性があった。そんな起用でもあるんだと思います。同じ『アジアの片隅で』から、タイトル曲をお聞きいただこうと思います。こちらのアレンジは、松任谷正隆さんです。「アジアの片隅で」、12分超え、フルサイズでお聴きいただきます。

これは1980年の武道館でのライブレコーディングです。ドラムス島村英二さん、ベース武部秀明さん、ギター青山徹さんと拓郎さん、キーボード、そして編曲が松任谷正隆さん。作詞、岡本おさみさん。この後、拓郎さんと岡本さんはしばらく間が空くんですね。これでやりきったという感じがあったのかもしれません。1980年、東京は軽薄短小という、浮かれたような明るさに包まれていた。その中でこの曲が、このアルバムが発売されました。

拓郎さんは、フォーライフレコードの社長を80年代に入って交代、1アーティストに戻りました。そういう二足のわらじを履いてたときの心境が冒頭でお送りした「流星」でもあったんでしょうね。その後にアーティストに戻って、『王様達のハイキング』というツアーを行った。ゴージャスなツアーでしたね。中東風なメイクと衣装、ゴスペルのような女性コーラスが入って、当時誰よりも黒っぽいライブをメジャーシーンでやっていた。レゲエやリズムアンドブルースという音楽が借り物じゃなく、日本語のロックとして定着していく。そんな過程のツアーでもありました。その中から広島弁の曲をお聴きいただこうと思います。アレンジは広島二人組ってクレジットになっていたんですが、これは 拓郎さんと青山徹さん。「唇をかみしめて」。アルバムは、『王様達のハイキング IN BUDOKAN』です。

1982年11月発売のライブアルバム『王様達のハイキング IN BUDOKAN』から「唇をかみしめて」。拓郎さんが切り拓いた、それまで、あまり人がやったことのない歌の作り方をした中に「字あまりソング」というのがありますけど、方言を、こんなふうに堂々と、これだけのスケールでロックにした。リズムアンドブルースにした。これも拓郎さんならではだったと思いますね。この曲は、広島の後輩の奥田民生さんとか、中島みゆきさんもツアーでカバーしてます。広島弁ってロックなんだなと思わせてくれた、そんな1曲でもありました。

FM-COCOLO J-POP LEGEND FORUM、アーティスト活動に終止符を打つと表明した吉田拓郎さんの軌跡をたどる5週間、今週は、Part 3。流れてるのはこの番組のテーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。

改めて辿り直していて、やっぱり前例のない音楽人生だったなと思ったりしております。例えば、字あまりソングとか、コンサートツアーとか、野外イベントとか、レコード会社の社長とか、それまで誰もやったことのないことをやりながらキャリアを重ねてきた。29歳でフォーライフレコードを作ったときに、記者会見がありまして、正確な言葉を忘れてしまったんですが、「これで普通の30代になれるかもしれない」って言ったような記憶があります。ミュージシャンでずっと生きていっていいんだろうか。こんなふうに音楽をやってきた人間が、普通の30代になれるだろうかと思ったりもしたんでしょうね。社長とアーティストの二足の草鞋を履いた時期を経て、36歳で1アーティストに戻りました。

例えば「70年代の思い出の曲」とか「懐かしのなんとか」というリクエスト番組とかランキング番組をやると、 拓郎さんの曲が入らない。つまり、代表曲がこれと簡単に決められない。例えば、この人だったらこの曲という分かりやすい例はあると思うんですけど、それがバラバラ。もっとスケールが大きい。底辺が広いということがあって、拓郎の曲入ってないじゃんって結果になったりするんですね。

冒頭で、今月の前テーマでお聞きしていただいてる「アウトロ」で、「言葉なんかに 変えてみても 伝わる何かあるじゃない」と歌っているんですが、振り返って語ることを、したくもないんでしょうし、なかなかできないんだと思うんですね。その都度その都度、できるだけのことをやって、次に行こうとしてきた。そういう積み重ねなわけですから、あのときこうだったと今語ってどんな意味があるんだっていうのが、今の心境でもあるのではないだしょうか。

30代後半に拓郎さんの前、そして当時の若者たちに立ちはだかっていたのが、40歳という年齢です。ジョン・レノンが亡くなったのが1980年40歳。どんな40代を迎えるかというのが、来週のテーマでもあります。

<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
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