「セックスを愛の行為と思う場合もあれば、“私の一番の商品”ととらえる人もいる」夜の世界も昼の社会も知る作家・鈴木涼美
歓楽街と新聞記者。夜の世界も昼の社会も経験した作家・コラムニストの鈴木涼美さんが初めて発表した小説『ギフテッド』は、第167回芥川賞候補作ともなり、広く注目を集めている。彼女が追い続けるテーマ、母性、性、男と女……について聞いた。
共感できることだけが必ずしもいいわけじゃない
作家・コラムニストの鈴木涼美さんの処女小説『ギフテッド』は第167回芥川賞候補作ともなり、注目を集めている。
歌舞伎町の歓楽街からほど近くに暮らす「私」と、売れない詩人として生き最後を迎えつつある母。「私」は病室で、母もまた自分の「性」から逃れられずにいたことを知る――著者の鈴木さんが描いた思惑とは。
――小説の舞台は現代ではないんですね。
イメージ的には2009年の歌舞伎町を舞台にしています。この時期はある意味で「キャバ嬢の全盛時代」でした。2008年には「小悪魔ageha」というギャル系雑誌が30万部まで売れて、ピークに達していた。夜の街にスポットがあたっていた時期です。
歌舞伎町浄化作戦も経て、深夜営業がだいぶなくなってたり、ホストクラブも1時には営業が終わるようになった時代。のちの「パパ活」のように、夜の仕事が素人に寄っていく直前。
でもそのいっぽうで、まだキャバクラ嬢のイメージが今ほど明るくないというか、「金銭的な事情を抱えた人が落ちていく先」というネガティブな印象も、完全には拭えていない。そんな境目っていうか、もう少し夜の街がアンビバレントなイメージを残していた時期だと思っています。
――そうか、SNSがないんですね。この時代はまだ。
そうなんですよね。だから、人がもうちょっと孤独と向き合ってた時代といえるかもしれないです。Mixiのようなサービスはすでにありましたけど、それは趣味人だけというか、全員がやってることでもなかったし、商売に使うっていうアイデアもまだなかった。
私は、今の時代について「つながりと共感の時代」みたいに見ているんです。今の時代、共感してもらえるとか、あるいは、この人に共感できるとか、共感がなんの疑問もなく"いいこと"とみなされているじゃないですか。でも人の事情って、けっこう人によってそれぞれ違うような気がする。
たとえ、第三者から見たらネガティブなことでも、本人にしてみれば違うこともある。その子にはその子の事情があって「共感なんてされてたまるか」って思っているかもしれない。
だから必ずしも「共感できることだけがいいことじゃない」と感じていて、私の場合は文章を書くときも、そこはあまり気にしていないですね。
――人には共有しがたい個人的な事情もあり得ますもんね。
小説の舞台となったあの時代は「人には人の事情があるよね」という感覚が、もう少し重要視されていたような気がするんです。
この後、主人公がどう生きていくかわかりませんが、彼女は、あのタイミングでいったん、水商売の世界から一息、置くことができた。それは幸運だったんじゃないかなと思っていて。
私、2014年に日経新聞を退職したのですが、そのときに久しぶりに歌舞伎町の近くに住んだんです。それですごく衝撃的だったのですが、親に送ってもらって出勤してくる子がいたんですよね。
昔は、夜の仕事を親に内緒にしてたりとか、そもそもなにかのかたちで親とのつながりを失っていたりしていた。それが「親の車で歌舞伎町に来るようになった」とは、なかなか衝撃的だったのですが、そんなふうに、まったく悲哀みたいなものがなくなって、キラキラした明るい空間になってしまうと「あの子(主人公)は、そのまま歌舞伎町にいたら生きづらかったかもしれない」って思ったりもします。
――明るくなってオープンな社会になることはいいことですけど、黒い部分を白くしてしまえばいいかというと、その先にまた新たな黒が生まれるだけで……。
それまで陰にあった場所だからこそ、そこに居場所を見つけたり、居心地の良さを感じていた人もいる。それが完全にあかるみに出てしまうと、日なたが苦手な人は、生きづらくなったりはするかもしれない。
もちろん、誰も犠牲にならない業界にしなければならないのは当然のことなのですが、明るくなることで、もともと社会の際みたいなところにいた人が、際から落とされてしまうこともなくはない。そうしたことも見てきたので、日陰にあったものをクリーンにすることに対して、100パーセントポジティブな気持ちではいられないところはありますね。
――女性にとっての性は、男性にとっての性とは違う。自己言及的な奥の深さがあるんだなと感じました。
そうですね……。私もまだそれを「きちんと理解した」とは全然言えないのですが、「セックス」について、それを愛の行為と思う場合もあれば、「私の一番の商品」ととらえる人もいる。
男性と同じようなかたちの性欲や肉欲みたいなものはある。それを解消するための、「目的としての性」もあれば、それを武器にして男性にはできないかたちで社会を上りつめていく「手段としての性」もある。それに、まだ若くて自分が社会に提供できるものが少ない時期に、安易なかたちで換金できる「商品」にもなり得るわけじゃないですか。
あるいは、自分の「性」に注目が集まったり、他者にそれを欲望とされることで自尊心が満たされたりする場合もある。女の人にとって自分の性は意味するものも多様であって、重層的なところはあると思いますね。
――確かに。
もちろん、男の人だって「性」の意味するところは単純な性欲処理だけじゃない。たとえばヤリチン自慢みたいな人の場合であれば、それは自尊心を満たすトロフィー的な意味合いを持つわけで。
でも、私が女だから女に肩入れして見てしまうのもあると思いますけど、女にとって自分の「性」はより複雑なものかなって思います。
もちろん、性的に見られることに強く不快感を覚える人もいれば、男性が女性を性的な客体として描いたりすることすら許しがたいと思う人もいる。性的に魅力的だと見られるがゆえに「それ以外の自分を見てもらえない」というところで、生きづらさを感じている女の子たちもいます。
自分もAV業界にいたことがあるので、そういう視線があることはすごくわかります。やっぱり複雑で、そこには社会学の論文の中に書き込めない領域がある。だから私にとって、小説という表現方法を得たことはすごく良かったんです。
――いわゆる「言論空間」は、まだ男性寄りの権力構造が色濃い。女性について語ろうとしても「それに絡め取られてしまう」ということもあるのでしょうか。
ただ、セックスって遂行されるためには、まず男性に勃起してもらわないとはじまらないわけじゃないですか。
確かに男女の非対称性がすごく不快なものである場合もあるけど、とはいえ、勃起はしてもらわないと困る。となると、性に関する言及が男性中心的な目線になったり、セックス産業的なものが男性の性欲中心になるのはある意味、しようがないところもあるんです。こちらも勃起されないと困るみたいな事情があるので、そこはどうしても現れる非対称性のひとつではあるとは思います。
そうしたいっぽうで、女性が男性に対して性欲を持つことは今の時代、そこまで批判されませんよね。しかし現代の空気の中では、男性は、性欲というものをかなり抑制的に発露しないと糾弾される可能性がある。そういう意味では今は女性のほうが自由なのかもしれない。どちらがいいとか悪いとかいうつもりは全然ないんだけど、そうした違いはあるなって感じがします。
でも私が興味あるのは、やはり女の子のほうですね。女性について考えると、おのずと男性のことも考えることにはなりますけど、男の悲哀は「男が向き合ってくれ」っていう感じで(笑)。
たぶん時代によって社会は変わるし、夜の街も変わっている。人の気分もいろいろだろうと思うんです。だから時代にせよ、場所にせよ、登場する人物の世代にせよ、これからもいろんな組み合わせは出てくるような気がします。
ひとついえるのは、黒と白に見えるものであっても、よく見るとぜんぜん違う。ぜんぶグラデーションでできている。そんな領分は、社会学の論文や、あるいは新聞記事みたいなところではなかなか拾うことが難しい。そこを小説で負っていきたいな、と思っています。
文/堀田純司 撮影/井上たろう
ギフテッド
鈴木涼美
2022/7/12
1650円(税込)
118ページ
ISBN:978-4163915722
第167回芥川賞候補作にして、『「AV女優」の社会学』『身体を売ったらサヨウナラ』などで知られる鈴木涼美の、衝撃的なデビュー中編。歓楽街の片隅のビルに暮らすホステスの「私」は、重い病に侵された母を引き取り看病し始める。母はシングルのまま「私」を産み育てるかたわら数冊の詩集を出すが、成功を収めることはなかった。濃厚な死の匂いの立ち込める中、「私」の脳裏をよぎるのは、少し前に自ら命を絶った女友達のことだった――「夜の街」の住人たちの圧倒的なリアリティ。そして限りなく端正な文章。新世代の日本文学が誕生した。