1960年代に埼玉県草加市に造成された大規模団地「草加松原団地」。今年で入居開始から60年。その間に大きく姿を変えた(筆者撮影)

埼玉県南東部にある草加市。いまから60年前の1962年に、大規模団地「草加松原団地」(以下、本文では基本的には「松原団地」と略す)の入居がはじまった。1年半かけて5926戸が入居したこの団地は、完成した当初は「東洋一のマンモス団地」とも呼ばれた。

総敷地面積約60ヘクタールの団地は敷地内に道路、住棟、商店街、学校を計画的に配置。住棟は当時最新のコンクリート造りで、まさに「憧れの住まい」であった。

入居開始から今年で60年。「マンモス団地」は時代にあわせてどのように変化していったのだろうか。

建設当初は田んぼに囲まれていた松原団地

松原団地は、草加市の北部に造成された。現在の最寄り駅は東武スカイツリーラインの獨協大学前<草加松原>駅だ。停車するのは普通列車のみだが、1つ南隣の草加駅で急行・準急列車に乗り換えることができる。うまく列車が接続してくれれば、北千住駅までは15分とかからない。普通列車だけで行っても20分弱と近い。

さらに、普通列車は東京メトロ日比谷線、急行・準急列車の多くが東京メトロ半蔵門線に直通する。こうした直通列車を使えば、大手町までは約40分、六本木や渋谷までは約1時間でアクセス可能だ。

松原団地は今でこそ、住宅地の中にあるが、建設当初、周囲は田んぼに囲まれていた。

松原団地が建設される直前の1950年代は、住宅不足が叫ばれ、日本住宅公団(現在のUR都市機構)は千葉県の常盤平団地(4839戸)をはじめ、東京近郊にいくつもの大規模団地の開発を計画していた。そのうちの1つとして1960年2月に草加市内の約40ヘクタールの敷地を使った約4400戸の大規模住宅団地「栄町団地」(仮称)の建設計画が発表された。

計画発表から着工までの動きはスピーディーで、計画発表の翌年の1961年に着工、さらに第2期計画もでき、あわせると60ヘクタールに約6000戸の大規模住宅団地の建設が行われた。そして構想発表からわずか2年半後の1962年、仮称「栄町団地」は「草加松原団地」と名付けられ、住民の入居が始まった。

松原団地は4階建ての中層住棟と専用庭付きメゾネットタイプの住戸で構成される2階建ての「テラスハウス」と呼ばれる住棟の合計324棟から構成され、おおむね1500戸を1地区とし、東からA地区、B地区、C地区、D地区と名付けられた。

A地区の東側には東武伊勢崎線(現在の東武スカイツリーライン)が南北に走り、松原団地の入居開始と同じ頃に松原団地駅(現在の獨協大学前<草加松原>駅)が開業した。東武伊勢崎線は同じ年の5月に営団(現在の東京メトロ)日比谷線の人形町駅まで乗り入れを開始していた。日比谷線はその後、1964年8月に全通し、都心と松原団地が電車1本で結ばれるようになった。


「草加松原団地」の由来となった日光街道の松並木。昭和後期に現在のような遊歩道が整備された(筆者撮影)

団地の住民はこの松原団地駅を利用して通勤するサラリーマン世帯が多いと想定され、街路や地区計画も駅の開業を念頭に置きながら作られた。わかりやすい部分でいえば、駅前に地区センターを作り、駅前からD地区まで緑道でつなぎ、緑道に沿って各地区に集会所や商店地区が設けられた。

家賃もかなり高額だった

このように一体的な住環境づくりができることが大規模住宅団地の強みであり、さらに各住戸も鉄筋コンクリート造の住棟にダイニングキッチン、水洗トイレをはじめ最新の設備が入っていた。当然ここまでのことをすれば総工費も高額で、小学校などの公共施設を除いた日本住宅公団が建設した部分の工事費だけで83億円(土地買収費含む)かかっている。

そのため家賃も高額で、当時の大卒国家公務員の月収が1万5700円という中、一番コンパクトな間取りの1DK(33平方メートル)でも月5650円、共益費600円だった。それでも初回の入居募集780戸に対して1万725件の応募があった。倍率にすると13.75倍というのだから驚きだ。当時いかに「団地」が憧れの住宅であったかがうかがえる。

入居した世帯はどんな人たちだったかは、1965年に発行されたパンフレットに掲載されている世帯主のデータからうかがうことができる。全戸のうち1人世帯はなく、36.9%が2人世帯、34.1%が3人世帯と実に7割が核家族であった。職業や通勤地にも大きな偏りがあり、職業は85%が会社員、通勤地は96.7%が東京23区内、中でも丸の内・銀座・品川で57.1%を占めていた。世帯主のほとんどは「埼玉都民」の会社員だったのである。

草加市が大規模住宅団地の計画に協力した大きな理由にホワイトカラー層の流入による市税増収があった。まさに期待どおりの人々が5000世帯以上も移り住んできたのである。

一見華々しいスタートを切ったように見える松原団地であったが、大規模開発には当然のことながら課題もつきものだった。ほかの大規模な日本住宅公団建設の団地で起こっていた問題と似たようなものとしては、鉄筋コンクリートの乾燥が甘かったために害虫が発生したほか、上水道整備が間に合わずに早朝と昼の1〜2時間と夜しか給水されないという日々もあった。

ほかにも、松原団地特有の大きな問題が2つあった。1つはD地区西側に1967年に開通した国道4号線草加バイパスの騒音、もう1つが梅雨から秋の時期にかけて発生した冠水・浸水といった排水の問題だ。特に排水の問題は20年以上住民を悩ませた。

はじめての冠水被害は1966年に発生したといわれる。主な要因は農業用水として綾瀬川から分派して開削された伝右川の排水機能低下にあった。大雨が降ると綾瀬川に伝右川の水が排水できなくなり、逆流する。それが松原団地に流れ込むのだ。


長らく松原団地の住民を冠水で悩ませた伝右川(筆者撮影)

毎年梅雨から秋にかけて少しでも大雨が降ると松原団地は冠水に悩まされた。特に伝右川に近いC地区やD地区での浸水は夕立で20ミリ程度雨がふるとすぐにひざまで水につかるほどだった。

冠水被害は年々悪化

冠水・浸水被害は1980年代まで年々悪化していった。その主な理由は周辺の都市化だ。

松原団地造成後、草加市内の農地は着々と住宅や工場、道路に転換されていった。そのため、農地が果たしていた遊水機能は失われていく。その結果として農業用水として開削された伝右川に近い元低湿地帯の松原団地に流れ込む水が増え、冠水・浸水が激しくなったのだ。つまり、松原団地では都市型洪水が日常的に発生していたといっても過言ではないだろう。

事態を打開すべく、住民も動いたが、本格的に対策が始まったのは1979年10月に発生した台風10号で草加市内の広い範囲が浸水してからだった。綾瀬川水系の広い範囲で越水や洪水が起きたことが要因で、排水機能を向上させるべく、綾瀬川や伝右川をはじめとした綾瀬川水系で護岸工事や排水機場整備が行われた。

特に松原団地にとって大きな効果があったのは、1985年9月にC地区南側の市道地下に完成した最大6600立方メートルの貯水槽と同年10月に貯水槽の隣接地に完成した松原排水機場だろう。この2つの施設が完成した後、冠水・浸水は大幅に改善した。さらに1992年の綾瀬川放水路完成により、冠水・浸水被害は完全に過去のものとなった。

都市型洪水が解決するころになると、松原団地の入居開始から30年が経過していた。その間に団地へのアクセス路線の東武伊勢崎線は爆発的な乗客数の増加を受けて高架複々線化事業を行っていった。1997年には松原団地駅もほぼ現在のような駅の姿になり、駅改札の位置も変わった。


1961年に開業した松原団地駅。2017年には獨協大学前<草加松原>駅と改称された(筆者撮影)

同時期には駅西口の再整備が計画された。主な内容は高層賃貸マンションを中心とした複合施設を建設し、駅前広場を移設するというもので、1996年に事業を開始した。1999年には30階建ての高層賃貸マンション「ハーモネスタワー松原」が完成し、翌年には草加市中央図書館の入る複合施設が完成した。

さらに駅前の再整備と並行して、住民の入れ替わりも増えていった。2000年の国勢調査を見ると、再開発が行われたA地区を除いた3地区平均で居住年数10年未満の住民は全体の36.4%、5年未満に絞れば19.4%だった。

こうした入れ替わりは、団地住民が近隣エリアで一軒家を購入し、家族ぐるみで転出したこと、また松原団地が市場家賃よりも家賃が安く、若い世代や民間の賃貸住宅に入居できない高齢者が転入してきたことが理由として挙げられる。

特に高齢者の転入は高齢化率を押し上げた。1995年の国勢調査では高齢化率は10%台半ばであったが、その後は5年ごとの国勢調査で大きく高齢化率はあがり、2005年には46.7%になった。

この頃になると、入居開始当初は最新鋭の設備だった居室も40年が経過し、そのあいだに住宅のスタイルが多種多様になったこともあって、時代遅れの設備が目立つようになった。また日本住宅公団も組織と役割を変化させていったことなどから、なかなか既存の住宅へのフォローアップも進まず、設備の老朽化や住民の高齢化といった言葉が団地のイメージにつきまとうようにもなっていった。

2003年から始まった建て替え事業

2000年代に入り、高齢化や設備の老朽化が深刻になるなか、2003年から松原団地の建て替え事業がはじまった。約60ヘクタールの広大な敷地で324棟の住棟が関わる巨大事業であるため、UR都市機構、草加市、そして松原団地に隣接する獨協大学の3者連携の下で5期に分けて進められている。

建て替え事業の大きなポイントは住棟の集約にある。324棟の住棟をすべて取り壊し、旧A地区と旧B地区に新しく建てた中高層の住棟30棟に集約を図った。

住棟は大きくなったと同時に配置については同じ方向を向いていた従来のスタイルを転換し、住棟によって向きを変えた。そのうえで新団地内の敷地が周囲に対して閉じた空間にならないように広場やプロムナード、歩道を整備し、多世代共生に向けて子育て支援施設や高齢者福祉施設を誘致した。住戸については多様化する生活スタイルに合わせ、菜園テラスがついた住戸やペットと共生できる住戸など多様な住戸構成とした。


松原団地を建て替え、誕生した「コンフォール松原」(筆者撮影)

新しい住棟から構成される住宅団地は「草加松原団地」からUR都市機構の展開する賃貸住宅のブランド名をとって「コンフォール松原」になった。

コンフォール松原へは2008年から以前からの住民が建替後の住棟に入居する「戻り入居」が始まり、2018年まで10年かけて進められた。そして戻り入居が終了した翌年、2019年には駅から最も遠い松原団地D地区の建物取り壊しが終わり、その後、敷地整備が完了している。


住民の退去が完了し、解体を待つ松原団地D地区の住棟(写真:金岡ゆえん氏)

UR都市機構の進める大規模団地の建て替えは松原団地のように中層住棟から中高層住棟へ集約を図り、空地を捻出して売却するという計画が多い。


解体後、更地となった旧D地区北側から獨協大学駅方面をみる。工事が行われているのは旧C地区で民間分譲マンションを建築している(筆者撮影)

松原団地でも同様のことが行われ、一連の建て替え事業により空地となった場所については学校や公園などを除き、まちづくりのプランニングをしたうえでプランに沿った事業を計画する民間企業に売却された。主には分譲マンションの建設が多く、若い世代も多く移り住んできた。

駅名の改称

松原団地の建て替え事業に付随してもう1つまちにとって大きな変化があった。それが「松原団地駅」の「獨協大学前<草加松原>駅」への改称である。

新駅名に採用された獨協大学は団地の南隣、伝右川を挟んだ位置に1964年に開学した。学園設立80周年を契機に4年制大学を設立したい獨協学園と沿線に大学を誘致したい東武鉄道と意見が合致したことがこの場所への開学の理由だった。

大学内では駅名の改称を求める動きがたびたびあったが、東武鉄道や団地住民が同意しなかった。しかし、コンフォール松原への建て替えが進むと、市民から駅名変更の要望が高まっていく。2015年に草加市商工会議所を事務局とした「松原団地駅名変更協議会」が草加市に「獨協大学前<草加松原>駅」への改称を要望し、要望をうけて草加市と松原団地駅名変更協議会の連名で駅名変更が東武鉄道に要請された。その結果、2016年6月に駅名変更が正式に発表された。

この駅名改称は草加松原団地の「コンフォール松原」への改称とあわせて「団地」という言葉を取り払うものとなった。おそらくは先述のような1990年代から団地のイメージが変化してきたことをうけていると考えられるが、松原団地の時代から地域に住む人の中には複雑な心境の人も少なくないようだ。

では、建て替え事業の終わった現在の旧松原団地エリアをみていこう。

最寄り駅の獨協大学前<草加松原>駅を降り、西口へ出ると、駅前には1999年に再開発で誕生した「ハーモネスタワー松原」がまちのランドマークとしてそびえる。


松原団地駅西口再開発で1999年に完成した高層賃貸マンションをはじめとする複合施設「ハーモネスタワー松原」(筆者撮影)

タワーと一体的に作られた複合施設には図書館のほかにスーパーやプチ商店街的な商店群や公園があり、中を抜けていくと松原団地の旧B地区にさしかかる。

旧B地区にはコンフォール松原の全30棟のうち17棟が建ち、設計にも力が入っているエリアだ。中でも目立つのは住棟間を東西に延びる幅12mの歩道(緑のプロムナード)である。歩道を挟む住棟は6階建てと低く、広々とした空間を演出している。


「コンフォール松原」の東西軸、「緑のプロムナード」(筆者撮影)

プロムナードを東西軸に、南北軸として2つの「風のみち」、もうひとつの東西軸として松原団地時代からあった緑道が通る。

多世代が住むことを意識した設計

住棟は最も高いもので11階建てだが、圧迫感は少ない。松原団地時代のように一律で同じ向きというわけではなく、あえて向きをずらした住棟もあり、単調な空間になることを防いでいる。住棟の間には駐車場や広場、遊具のほか、市民農園的なスペースがあり、多世代が住むことを意識した設計ともなっている。

「緑のプロムナード」を抜けると、旧C地区に整備された「松原団地記念公園」が広がる。広々とした原っぱがメインで、遊水池の機能を兼ねている。公園の隣には東武鉄道が主体となった商業施設や獨協大学の大学関連施設の建設が予定され、公園の北には完成したばかりのマンションが建っていた。


手前が松原団地記念公園。遊水池の機能も兼ねる。奥に見える獨協大学の建物との間には伝右川が流れる(筆者撮影)

旧C地区の北側や旧D地区といった獨協大学前<草加松原>駅から離れたエリアはまだ空き地だ。特に旧D地区は、最後まで住棟が残っていたエリアで、2019年に住棟の取り壊しが終了したばかりだ。

今後は更地エリアの一番西側、草加バイパスに面したエリアに商業施設を建て、ほかの更地は主に一戸建ての建設が今後進められていく計画になっている。

松原団地の入居開始から60年間。現状もあわせてざっくりと見ていくと、入居開始当初は「憧れ」であった団地もさまざまな課題やイメージの変化の波に対応してきたことがうかがえる。

建設当初はホワイトカラーメインだった団地も、今後は多世代共生をテーマにまちがさらに変化していく。そのうち、周辺のまちの変化もなじみ、また新たな課題の発生や解決を繰り返しながら、新しいまちの姿になっていくのだろう。そのときの旧松原団地エリアは、再び住宅都市のモデルとなるようなまちになっていることを期待してやまない。

(鳴海 侑 : まち探訪家)