170cmの西岡良仁が190cmのハードヒッターを次々と撃破。ATP500準優勝の裏にあった「腹筋の強化」と戦略の変更
予期せぬ成功の起点には挫折や落胆がある、というのはよく聞く話である。
米国ワシントンDC開催のシティ・オープンで準優勝した西岡良仁の場合も、そうだった。
シティ・オープンは「ATP500」と呼ばれるツアー大会のカテゴリーに属し、これはグランドスラム、そしてマスターズ1000に次ぐ格付け。ちなみに、日本人男子のツアー優勝者は西岡を含めて5人いるが、ATP500以上のファイナリストとなると、錦織圭に次ぎ西岡がふたり目である。
西岡良仁(左)とキリオス(右)の身長差は23cm
それも、決勝への道のりで、過去に勝利のなかった世界24位のカレン・ハチャノフ(ロシア/身長198cm)や、世界8位のアンドレイ・ルブレフ(ロシア/同188cm)を破っての快進撃である。
決勝では今季好調のニック・キリオス(オーストラリア/同193cm)に敗れるも、今大会で倒した相手5人はいずれも世界のトップ40。優勝にはわずかに手が届かなかったが、破った相手や試合内容を考えれば、キャリア最高とも言える1週間だったろう。
ただ実は、ワシントンDCに足を運ぶまで、西岡は「正直、モチベーションはかなりダウンしていた」と言っていた。
テニス界の季節は現在、赤土と芝のコートの欧州シーズンを終え、西岡が最も得意とする北米・ハードコートシーズンを迎えている。だが、そのスタートとなるATPチャレンジャー大会で、西岡は準々決勝で敗退。しかも敗れた相手は、ツアーの戦績では西岡が先を歩んできた、日本の内山靖崇だった。
「日本に帰るわ」
西岡良仁の兄にしてコーチの靖雄は、内山戦の直後に弟からその連絡を受け取った時、「かなりショックだったんだな」と察したという。本来なら翌週のアトランタ・オープンにも出る予定だった弟が、いったん帰国するというのだ。精神的落胆は想像に難くない。
その予感は、帰国した弟から「一緒にごはん食べよう」と誘われた時、一層強いものとなる。実際に食事の席では、テニスでの相談事も含め、多岐にわたる話を聞いた。悩みやストレスも軽く吐きだす弟に、兄は「まあ、少しリラックスしたら」と優しい声もかけたという。
コロナ後にパワーテニス化他選手のツアーコーチもしていた兄が、弟のメインコーチとなったのは、昨年末のことである。
「このままでは、今の男子テニス界で勝っていくのは難しい。新しいことに挑戦しなくては」
その意識を共有し、険しい道のりを覚悟し踏み出した、二人三脚の旅だった。
170cmの西岡の身体は、日本人アスリートとしても小柄な部類。ましてや、今や190cm以上が珍しくない男子テニスの趨勢においては、群を抜く小兵だ。
世界のテニスの変質に西岡兄弟が明確に気づいたのは、新型コロナによるツアー中断が明けた直後だった。
2020年3月の「パンデミック宣言」以降、世界のテニスツアーは5カ月間の停止の時を迎える。それが明け、同年8月にツアーが再開した頃から、ふたりは折に触れて「世界のテニスが変わってきた」との言葉を口にしてきた。
その変化の方向性とは、簡単に言ってしまえば、パワーテニス化。ミスの多かった大柄な若手が、ショットの威力はそのままに、精度を著しく上げている。テニス界全体として「ショットの質が上がっている」というのが、最前線に身を置く者のリアルな肌感覚だった。
そのようなテニス界の変容は、緻密な戦略性と守備力、そしてサウスポーという"ギフト"も生かしたクセ球を生命線とする西岡に、残酷な現実をつきつける。
「駆け引きだけでは、相手のパワーをいなしきれない。守っているだけでは、勝ちあがれない。ならば自分たちも、攻撃力を上げるしかない」
その事実を認めるのは「怖かった」と、兄の靖雄は認める。ショットの威力を求めれば、これまで築いてきた"西岡良仁のテニス"を崩しかねない。
それでも、「やるしかないよね」と、ふたりは新たなテニスを模索した。すべては、キャリア最高位である"48位"より上に行くためだ。
新たなスタイルへの模索は、ショットそのものの質の向上から戦略性、そして用具の見直しにまで至った。ネットプレーの練習に時間を割き、ストロークでは手出しのボールをくり返し打つ。ラケットやストリング(ガット)に関しては、パワーを求めてボールを弾くタイプを試した。
新生・西岡良仁を見た瞬間ただ、試行錯誤の過程では、もちろん勝てない時が続く。慣れないスタイルや用具との葛藤に、ストレスを溜めもした。
今年1月の全豪オープン初戦で敗れた時には、「このまま勝てなくなったら、僕、2年以内にテニス辞めると思います」との弱音が口をつく。2年......それは新たなテニスに取り組み始めた時、兄とともに立てた、ひとつの「成功への期限」だった。
なかなか結果が出ない今季序盤、兄の靖雄は「取り組みが噛み合い出すのが先か、良仁の心が折れるのが先か」との危惧も抱いていたという。
「ショットの質向上が絶対に必要だ」と改めて実感したのは、苦しいクレーシーズン中。
相手の球威を利用することが困難なクレーでは、ボールを打つことにごまかしが効かない。そのコートで敗戦が続いた時、兄弟はボールの打ち方も細かく分析した結果、「もっと腹筋を使う必要がある」というひとつの答えを弾きだした。そこでトレーナーとも相談し、腹筋強化に力を入れてきたという。
「あの苦しいクレーでの経験があったから、今がある」
兄がそう振り返った。
それら1年近くに及ぶ試行錯誤が実を結んだのが、今回の準優勝。とりわけ、ハチャノフとルブレフというツアーきってのハードヒッターから奪った勝利に、取り組みの正しさが花開く。
ルブレフ戦の勝利後、西岡は「自分のなかでは、めちゃめちゃ打った」と言った。その前日に3時間越えの熱戦を戦ったため、いつものように足を使うのが難しかったという事情もあった。
結果、ルブレフに打ち負けず、なおかつボールをしっかりコントロールできた事実に、自身の成長を実感できただろう。ハードに打ち合いつつ、緩いボールで揺さぶり、相手のミスも誘う"新生・西岡良仁のテニス"が、ひとつの完成形を見た瞬間でもあった。
今回の準優勝の結果を受け、兄の靖雄はテニス関係者たちからも「最近の良仁は何か変えたの?」と多く聞かれたという。ただ、良仁を誰よりも長く知るテニスコーチは、「やってきたことは変えていない。これまでの蓄積です」と言い、だからこそ「コーチとしては、それがうれしい」とも言った。
正しければ勝てるという認識内山に敗れて一度帰国した時、西岡は直前までシティ・オープンの出場も迷っていたという。
「本戦に出られたら、試合やってくるわー」、「そっか、がんばってこいやー」
旅立つ直前に兄弟が交わしたのは、どこか力の抜けた挨拶。
本人も「びっくり」と認めるほどの予期せぬ成功。それは「やっていることが正しければ、勝てる時は勝てるよ」という柔らかな共通認識を起点とする、必然の帰結だった。