※この記事は2017年08月08日にBLOGOSで公開されたものです

今年春、家族でシンガポールに引っ越してきた。夫の転勤に家族で帯同することにしたのだが、その理由の1つは、日本での仕事と育児の両立に疲れ切っていたからだ。2人の子どもは認可保育園に入ることができたものの、別々の園。電動自転車で、蒸し暑い汗だくの夏の日も、手や耳がジンジンするような寒空の日も、あちらへこちらへとまわっているとお迎えだけで40~50分かかった。もうタクシーでいいやと思った雨の日にタクシーが捕まらず、絶望的な気分になったのは一度や二度ではない。さて、思い切ってシンガポールに来てみて、実際に子育てのしやすさはどうか。

メイド文化は仕事と育児両立の柱

シンガポールや香港というと、住み込みのメイドさんがいて出産後もキャリアを築きやすいというイメージがあるのではないかと思う。実際、共働きを中心にメイドを雇用して子供の送迎・家事を頼んでいる家族をよく目撃するし、現地で働く日本人の女性たちからは「いまやメイドさんなしの生活が考えられない」「今のポジションでメイドを雇わずに出張や残業ができないというのは無責任だと言われた」などの声を聞く。

国同士の経済格差等を利用した家事労働者の雇用については、雇用主に搾取されがちだったり、自身の家族のケアを担えなかったりする問題が指摘されている。グローバルな調査研究によると、シンガポールは欧米に比べ家事労働者の転職の自由や永住権獲得等にに課題があるとの指摘もある。

雇用する側も、子どもとの愛着形成や教育など悩みは尽きないし、メイドの存在が全てを解決するわけではない。ただ、国の政策的に家事労働者の受け入れ態勢を整えてきた経緯があり、何でもかんでも母親自身に要求しがちな日本に比べれば、メイドを雇える文化がシンガポールにおける「仕事と育児の両立」を成り立たせる大きな柱になっていることは間違いない。

スクールバスの充実で送り迎えが格段にラク

また、こちらに来て、メイドを雇っていなかったとしても、多くの幼稚園や学校でスクールバスが利用でき、送り迎えの必要性がないことも親の負担を非常に減らしていると感じた。

外国人の場合はコンドミニアム、シンガポール人の場合はHDBと呼ばれる公共団地に住んでいることが多い。もちろん追加の費用がかかるが、住んでいる共同住宅を登録すればマンション・団地の下まで送迎してくれる。この仕組みにより、家からの距離を気にしないで施設を選ぶことができるのもメリットだ。人気のインター校などを除けば待機児童は実質なく、入れたいところに入れられる。

シンガポールである幼稚園を見学した際、幼い子供のバス利用について懸念を示すと、過去の事故歴(園児がけがをしたことはなく、中学生が自転車でバスにこすったなど)を教えてくれたうえで、学校側がバス会社を選べることで、たとえばシートベルトを締めずに出発してしまったなどの不備があれば改善を求め、改善されなければバス会社を変えるような措置を取ることができるとの説明を受けた。

日本でも江東区、世田谷区などが待機児童対策として駅前などから保育園へ送迎する取り組みを始め、大阪市でも検討をしているという。バスには安全性の配慮などは徹底してほしいが、子どもも3~4歳になれば友達とバス内でおしゃべりをするのが楽しいのか、毎日が遠足かのように喜んでバスを利用しており、日本でももう少し広がればと感じる。

常に「申し訳なさ」を感じていた東京での子育て

こうしたインフラ的なもののありがたみを感じつつも、実は日本を離れてもっとも私が感じたのは、「両立」以前に、東京という都市は、そもそもの「ワーク」、そもそもの「ライフ」がものすごくしづらかったのではないかということだ。

シンガポールに来て最初の2週間で、私はいかに東京にいたときに自分がビクビクしていたかということに気が付いた。改札をくぐるとき、残高が足りなくて通れなかったら後ろの人たちを立ち止まらせてしまって嫌な顔をされるんじゃないか。エレベーターが閉まる直前に滑り込んで乗り込んだら、早く閉めないと舌打ちをされるんじゃないか。タクシーを降りるとき、急いでおりないと後ろからクラクションを鳴らされるんじゃないか。こういうことに常におびえていた。

とりわけ子供を連れていると、強烈に感じる「申し訳なさ」。子どもを連れて電車に乗ったりお店に入れば、迷惑な顔をされないかと常に子供の行動を見張り、叱っていないといけなかった。シンガポールに来てから、子供が騒いだりモノをぶちまけたりしても「誰もそんなことで怒ったりしない」ということが徐々に分かってきた。日本から来ている母親たちがふとした瞬間に「日本に帰るのこわいもん…」とつぶやくのを聞くと、びくびくしていたのは私だけではないらしい。

「心の余裕」が子育て世代への寛容を生む

よく「海外は子育てにやさしい」などと言われる。確かにベビーカーを押していると、ドアを開けておいてくれようとする人、子どもに話しかけてくれる人が非常に多い。特に東京と比べて違うと感じたのが、日本では主に自分も子どもがいるような年齢の女性や大学生くらいの若い男性が助けてくれることが多いのに対して、シンガポールでは中年、そしてシニアの男性が子どもに非常にフレンドリーだ。

日本ではスーツのサラリーマンや年配の男性が話しかけてくれることが少なく、むしろ迷惑顔をされることが多いので、私はそういった男性が近づいてくると必要以上に端っこによけていた。シンガポールでそれをすると「いいんだよ、お先に通りなさい」というようなそぶりで道をあけてくれ、子どもに手を振ってくれる。

これは、もしかしたら、子どもに優しいかどうかというよりも、ものすごく急いでいる人や不機嫌な人の総数の問題かもしれない。たとえば、シンガポールでは、エレベーターの「しまる」ボタンを押さない人が多いことに気づく。東京では、押してあるのに場合によっては何度も押す人を見かけることも少なくない。私もときに「すみませんすみません」という気持ちで押しまくることがある。自分しか下りないことが分かっているエレベーターは降り際に閉まるボタンを押して出ていくこともある。

もちろんシンガポールにも色々闇だってあるだろう。でも、極めて統制が厳しい都市国家ですら、東京ほどのせわしなさがないことに驚いた。東京では、どうしてあんなに皆急いでいて、どうしてあんなにイライラしているのか。

時間通りに来る交通機関や配達等のサービス。素晴らしいことである反面、それが当たり前になり、少しでも遅れればイライラする。他の人、特に弱い立場の人への寛容度が低い。それはそれだけ、日本人男性が抑圧されてきたことの裏返しなのかもしれない。

シンガポールに比べて、日本の良さは、四季を感じること、文化があること、様々な地方を持っていること。山ほどある。国全体を見れば、その資源ははるかに豊かで、様々意味でのゆとりがあっていいはずだ。

働き方改革が、生産性の追求でよりせわしなさを生むのではなく、働き盛りの男性を中心とする人々の心に余裕を生みますように。インフラ整備や政策も必要だが、それが子育て世代をおびえさせない、少子化対策につながるかもしれない。

<著者プロフィール>
中野円佳
ジャーナリスト/東京大学大学院教育学研究科博士課程。 著書に『「育休世代」のジレンマ』。現代ビジネスで「コイツには何言ってもいい系女子」シリーズ連載中。
Twitter @MadokaNakano