サンタクロースとも対面。震災で姉を亡くした妹の願いをかなえた周囲の支援 - 渋井哲也
※この記事は2017年03月17日にBLOGOSで公開されたものです
宮城県石巻市の佐藤珠莉ちゃん(9)はサンタクロースから招待状が届き、フィンランドまで会いに行った。フィンランド政府観光局からの正式な招待だ。珠莉ちゃんは東日本大震災で姉の愛梨(あいり)ちゃん(当時6)を亡くしている。そのため、クリスマスに「お姉ちゃんが帰ってきますように」とサンタクロースにお願いをしていた。
しかし、それは叶わない。ならば、二人に似せてつくった人形が世界旅行をすることの実現をお願いした。それが実現したと思った、珠莉ちゃんは「優しいサンタさんに会いたい」と手紙を書いた。協力者の働きかけで、サンタクロースとの対面が実現した。
この世界旅行やサンタとの出会いを記した「ふたりのせかいりょこう 東日本大震災から6年ーー姉妹人形の奇跡」(祥伝社)が発刊された。二人の母親で著者の佐藤美香さん(41)は「風化はどうしても、していくものだが、忘れないでほしい」と話している。
サンタへの願いごと「おねえちゃんが帰ってきてほしい」
珠莉ちゃんがサンタクロース村に招待されたのは昨年11月だった。一般的に、人は、サンタの存在をいつまで信じているかわからないが、珠莉ちゃんは信じているため喜び、美香さんとともに、サンタ村を訪れた。
4歳の頃だった。珠莉ちゃんが「おもちゃはたくさんあるからいらない。愛梨に帰ってきてほしい」とのサンタにお願いする手紙を書いた。震災の翌年のクリスマスだった。その後、七夕の短冊にも「また、おねえちゃんにあえますように」と書いていた。姉である愛梨ちゃんは震災で亡くなっている。そのため、願いは叶わない。
そんな時だった。日本テレビの「24時間テレビ 愛は地球を救う」を見ていた珠莉ちゃんが、「ママ、これ、お姉ちゃんにやってもらえないかな」と言い出した。「これ」とは、飛行機に乗れない病気の少女の代わりに、そっくりな人形を旅行者に託して、海外で撮影した写真を少女に届けるものだった。困った美香さんは、現実的な対応をした。
「素敵だね。でも、これはテレビ局の人が作ったんだよ。同じことは難しいよ」
珠莉ちゃんは「え?やってもらえないの?」と言いながら、不満そうな顔をした。その時は納得したようだったが、その年のクリスマスに珠莉ちゃんはサンタあてに「お姉ちゃんとそっくりな人形がほしい」と書いた。
これも美香さんには無理難題だった。手が器用じゃないので、作れない。そこで、石巻市で家族を亡くした子どもたちの支援をしている一般社団法人「こころスマイルプロジェクト」の代表に相談した。すると、「ぬいぐるみでよければボランティアで作れる人がいる」ということで、写真を参考にして作られた愛梨ちゃんと珠莉ちゃん、そしてサンタクロースのぬいぐるみが届いた。
さらに翌年のクリスマスには、二人の人形に世界旅行をさせてほしい、との内容をサンタあてに書いていた。
<あいり姉ちゃんとたくさん旅行をしたかったので、わたしのゆめをかなえてください。たびをしたときの人形のしゃしんをいっぱいとってきて、きねんにほしいです。わたしのゆめをかなえてください>
「ママに言ってるんじゃない。サンタさんにお願いしてるの。」
これもまた美香さんには悩ましい。
「サンタさんでもどうなのかな。代わりに、珠莉とママとパパとで、人形を一緒に海外旅行に連れて行ったら?」
珠莉ちゃんはこう言った。
「ママに言ってるんじゃない。サンタさんにお願いしてるの。お人形二人で行かせたいの」
美香さんは、親としてクリスマスプレゼントに子どもがほしいものを把握するために、「手紙を書かないとサンタさんからのプレゼントは届かない」と言ってきた。そのため、珠莉ちゃんは、あくまでも手紙はサンタさんにあてて書いているものだ。それにしても、美香さんはまた困った。
そんなときに偶然、地元紙・河北新報の記者とカメラマンが遊びにきて、話をしたところ、記事にしてくれたという。すると、多くの賛同者が集まった。被災地の復興をサポートしているNPO法人「ガーネットみやぎ」が、プロジェクト化して、賛同者を募ることになった。個人や団体が海外へ向かうときに、二人の人形を持っていき、写真を撮る。結果、人形は多くの国々に旅立ち、写真を撮ることができた。
安全な場所にいたはずの姉だが....
2011年3月11日14時46分、地震が発生した。すぐに津波警報がなっていたが、そのとき、愛梨ちゃんは市内の日和山にある私立日和幼稚園にいた。日和山は、JR石巻駅の南側にある丘陵地帯だ。東側にはすぐ旧北上川がある。南側は石巻湾で約500メートルの距離だ。ここは、松尾芭蕉も訪れている風光明媚な場所だ。かつては石巻城の城郭があり、現在は日和公園となっている。
海や川が近いが、日和山の高さは六一・三メートル。津波警報があっても、津波がこの山を超えることは考えにくい。園はその中腹にある。そのため、地震が起きても園内に残っているか、避難するとしても、山頂へ行けばよい。
母親の美香さんは時計を見た。すると、幼稚園のバスが出発する前だ。津波の情報もあったが、園舎は高台にあるため、「大丈夫」と思った。家族がいる場所で最も安全な位置だったからだ。
一方、愛梨ちゃんの妹、珠莉ちゃんは当時3歳。美香さんとともに家にいたときに地震が起きた。テーブルの下に入るように促した。その後、津波注意報がなったため、珠莉ちゃんを2階にあげた。カーテンが濡れないようにもしていた。海岸線からは約3キロの内陸部だったものの、しばらくすると、近くの運河から津波があふれ、自宅に入り込んだ。二人とも浸水しなかった二階に避難していたため、無事だった。
「津波は10メートルという話もあったが、家族の中では一番、愛梨が安全な場所にいたから安心していた」
危険な場所にいたのが夫だった。幼稚園の近くだが、低地が職場だ。しかし、従業員らは高台に向かった。しばらくして夫は幼稚園へ行き、園長に「愛梨の父ですが...」と尋ねた。園長は「津波に巻き込まれたかもしれない」と返した。
幼稚園のバスは地震後、園児たちを乗せて、海側に向かって出発した。しかも、本来は別のバスに乗るはずの内陸部に住む園児も乗せた。愛莉ちゃんも乗っていた園児の一人だった。
海岸近くに住む園児を下ろした後、バスは一旦、日和山の近くまで戻りつつあった。幼稚園の教諭が「バスを高台にあげるように」と伝えにきた。その場所は、日和山に登る階段が近い場所だった。しかし、通常のルートを運行し、幼稚園に戻ろうとした。園の教諭は階段で避難したが、園児はバスの中だった。
その後、運転手は津波を意識したためか、バスを置いて逃げた。愛梨ちゃんを含む園児5人は置き去りのままだ。その後、津波だけでなく、周囲は火災にあっていた。震災から3日後、園児たちの遺体を探したのは遺族だ。幼稚園関係者は探さなかった。しかも現場は火災が発生していた。服の一部が焼け残っていたために確認できた。死因は焼死だった。
発見場所が火災となるのは津波から10時間後。夜中まで助けを求める子どもの声が聞こえたとの証言もある。
「地震後に園に来た親たちもいたが、せめてその時に知らせていれば助けられた命があったかもしれない」
裁判では高裁で和解。「心のからの謝罪」とあったものの....
美香さんら遺族は園の対応に疑問を持った。説明を求めても、園長は「私の判断ミスです」と繰り返すだけだったため、当日の動きについて調べ始めた。他の遺族と情報を共有したが、園側とは話し合いにならない。
「裁判を起こせば、真実を知れると思ったが、知りたいことはわからなかった」
仙台地裁では勝訴。園側は「園児を早く親元に帰したかった」と説明している。そのために、バスを出発させた。しかし、大きな地震の後だ。交通機関が正常とは限らないし、停電をしている。津波がこないとしても、交通事故の危険性はあったのではないかと思えるのだが、そうした点も考慮していない。
マニュアルはどうなっていたのか。同園の災害時の避難マニュアル「地震発生時の園児の誘導と職員の役割分担」は、06年に消防署の指導を受けて策定されている。それ以前から宮城県教育委員会による震災マニュアルが策定されているが、園は私立であるために県教委の管轄外で、指導が入らない。
避難訓練は、園のマニュアルに基づいて、保育中に火災が発生したという想定で年一回行われている。しかし、降園時に災害が発生すると想定した訓練はされていない。ただし、津波に関してはこう書かれていた。
「地震の震度が高く、災害が発生する恐れがある時は、全員を北側園庭に誘導し、動揺しないように声掛けをして、落ち着かせて園児を見守る。園児は保護者のお迎えを待って引き渡すようにする」
問題は、このマニュアルの内容について、主任教諭を除く教諭と運転手は知らないことだ。園のバスは「大きなバス」と「小さなバス」があった。「大きなバス」は園児たちを乗せて出発したが、運転手らがラジオで危険性を判断し、園のある日和山に戻った。一方。「小さなバス」は、沿岸部を通り、園児を下ろしていた。そして、日和山に戻る途中で被災したのだ。
一審の仙台地裁では原告側の遺族が勝訴した。しかし、その後、園側が控訴。仙台高裁では14年12月、和解が成立した。「被災園児らの犠牲が教訓として長く記憶にとどめられ、後世の防災対策に生かされるべき」という前文と、「心からの謝罪」との一言が入った。その「心のからの謝罪」の文言があったために、美香さんは和解に応じた。しかし、6年経った17年3月13日までには、園側の関係者は直接の謝罪にも焼香にも来たことはない。
もちろん、「心のからの謝罪」と書かれていても、具体的な行動をするかどうかは問われない。しかし、園の関係者はすでに別の保育園に勤務しているという。
「私の子どもを守れなかったのに、他の子どもを守れるのか。これだけ時間が経っても、誰一人、直接、謝罪に来ない」
美香さんは怒りをあらわにしている。
愛梨ちゃんが生きた証が欲しくて.....
美香さんは、愛梨ちゃんが生きた証がほしい。そのため、絵本作家にお願いしたことがあった。その結果、愛梨ちゃんが主人公の絵本「あなたをママと呼びたくて… 天から舞い降りた命」が完成した。
バスの中では園児たちは泣いていたが、愛梨ちゃんだけが、みんなを励ました。
「大丈夫だよ、怖くないよ。もうすぐ着くからね」
助かった園児がそう言っていたという。絵本にもこの言葉は使われている。
珠莉ちゃんは4月で小学校4年生になる。既に、愛梨ちゃんの年齢を超えているが、「お姉ちゃん」が近くいると感じている。取材のときも手動の鉛筆削りを使っていたが、「お姉ちゃんは自動式のを持ってるよ」と、現在形で話していた。亡くなったのはわかっているが、そばにいると感じているようだ。
また、愛梨ちゃんが生きていれば、3月に小学校を卒業し、4月から中学校に入学するというタイミングだ。そのために制服を作った。
「生きている子同様に何かを作れるのはこれが最後だと思う。高校は学力が求められるために、想定される高校がわからない。成人式では、自分も振袖を着なかったし、今の子たちはレンタルですから」
もちろん、制服を作ること自体悩んだ。「制服屋さんが嫌がるのではないか」と思った。友人に相談すると、「制服を作るのは1、2月」と言いつつも、制服屋さんに聞いてくれた。結果、制服を作れることになった。そのとき、珠莉ちゃんも一緒に付いて行った。
「珠莉もお姉ちゃんがいるのが当たり前になっている。成長した姿は想像できないが、年を数えるし、誕生日会もする」
遺族のなかには、もう忘れたいという人もいるだろう。しかし、美香さんも珠莉ちゃんも感覚は同じだった。美香さんは「夫も、むしろ、制服を作りたかったと言っていて、考え方は一致した」と言う。どこかに遊びに出かけるときも、愛梨ちゃんが一緒にいるつもりだ。
「車で出かけるときも、夫が運転するときは、助手席は愛梨の指定席のため、誰も座りません。私と二人で車に乗るときもそう。ただ、夫も『もし生きていたら、もう後ろに座っていたかもしれない』とは言うんですが、当たり前すぎて、考えたことがない」
「ふたりのせかいりょこう」も同じ気持ちで作っている。
「NPOを通じて出版社から話があった。記録に残れば嬉しいと思った。裁判で争ったことも、報道では詳細には伝わらない。本ならば、文字数は関係ない。(愛梨のことを)知ってもらう機会になる」
震災直後、芸能人が避難所で炊き出しをしていた。そのとき、焼きそばを欲した珠莉ちゃんが「お姉ちゃんの分もください」と言った。事情を知った上戸彩さんが珠莉ちゃんを抱きしめた。そのときの写真も掲載されている。また、サッカー日本代表選手の長友佑都選手と本田圭佑選手が、ぬいぐるみの人形と写真を撮っている。
ただ、表紙や帯、目次にはそれらの有名人たちの名前は載せなかった。美香さんはその意図についてこう話した。
「(二人の人形の世界旅行に)興味を持っている人が手に取ってほしい。だから、あえて有名人のことを表紙に入れなかった。震災から6年間、どういうことがあったのかを残したい。本は手段の一つ」
今後、珠莉ちゃんがサンタクロースを信じなくなる時がくるかもしれない。だとすると、二人の人形はどうやって世界旅行をしたのかが気になるだろう。そのときはどうするのか。
「サンタの存在に疑問を持った時に、渡すものがある。それは、協力者たちのことがわかるフォトブック。それを見れば、多くの協力者が実は、サンタの代わりに世界旅行に連れて行ってくれたということがわかる。それを見て、珠莉がどう思うのかはわからない。多くの協力者がいたことに感謝したりするかもしれない。その意味では、サンタクロースの旅はまだ完結してない」
美香さんは、ネタバレしたときのことも踏まえて準備をしている。そのため、珠莉ちゃんに知られないために、学校から帰る前に取材をした。インターネットを使うようになったとき、この記事を含め、これまで報道されてきた記事を見つけるかもしれない。
「いつかはその日が来ます」